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石狩支庁

2,310,001人(2005年10月1日)minimap_ishikari.gif


石狩支庁(いしかりしちょう)は、
北海道西部に位置する6市1町1村を管轄する支庁。

鳥取県とほぼ同じ面積を持ち、国内15位の宮城県
に匹敵する人口を擁し、国内8位の兵庫県並みの
人口密度となっている。


石狩支庁

管内南部に支笏洞爺国立公園
北部に暑寒別天売焼尻国定公園
江別市に道立自然公園野幌森林公園がある。

 

1,札幌市, 2.江別市, 3.千歳市, 4.恵庭市, 5.北広島市, 6.石狩市,7.当別町, 8.新篠津村

 

石狩の北西部は、約72kmにわたり日本海に面し、北端の増毛火山群に属する高山
へと続いています。

この一帯は、暑寒別天売焼尻国定公園として指定され、変化と景観に富んだ海岸線は、
石狩支庁とよばれ、優れた観光レクリエーション地帯として注目されています。

南西部は恵庭岳を主峰とする山岳地帯と、エメラルドグリーンに輝く
支笏湖が支笏洞爺国立公園を形成しており、原始林に囲まれた湖とその周辺山岳
の景観は、まさに北海道らしいダイナミックさと神秘的魅力にあふれています。
中央部は、日本三大河川の一つである石狩川が東西に走り、その流域には広大
かつ肥沃な石狩平野が広がっています。
また、この地域は稲作の中核地帯であると同時に北海道の中枢機能を備える
道都札幌市を中心に大都市圏を形成しています。
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厚田村

2,779人(人口、20059月末日)19794454.jpeg

 

厚田村(あつたむら)は、
石狩支庁北部にあった厚田郡に所属していた村。

村名の由来は、
アイヌ語の at-ta アッタ[オヒョウニレの樹皮・採る]に因む。
オヒョウニレの樹皮はアイヌの服飾原料・繊維。

厚田村は、日本海沿岸に位置するため北海道では開拓が早く
1600年代からニシンなどの漁場として開かれ、江戸時代には松前藩に
よってアツタ場所が開かれていた。

2005101日、浜益村と共に石狩市へ編入され、厚田村区域は
石狩市の地域自治区「厚田区」となった。

 

259838b1.jpeg  







   厚田公園展望台は、愛を誓い合い、プロポーズするのにふさわしい
   観光スポット100カ所を選定する「恋人の聖地」プロジェクトで、
   平成187月北海道で初めて選出された場所。
   雄大な海岸線や日本海に沈む夕日が大変美しく見える展望台で
    「誓いの鐘」というベルや、恋人たちが固く結ばれることを願ってかける
    南京錠を取り付けるためのフェンスが設置されています。

    国道231号を北へ約30キロ進むと、愛冠岬(あいかっぷみさき)をハート形
  のアーチ越しに望むことができる石のモニュメント「ラバーズ・オーシャン」があります。



石狩市6bbc3f01.jpeg

明治時代になると、
愛知県や石川県、高知県などから移住者が入り
花畔(ばんなぐろ)村、生振(おやふる)村、樽川(たるかわ)村
の三つの村ができ、近代的な開拓が始まります。

石狩の平野部は砂地のため、最初は畑作のほか酪農が
さかんにおこなわれました。

水田は開拓民の悲願でしたが、砂地での水田耕作は難しく、さまざまな
試行錯誤が繰り返された後、昭和3年(1928年)、花畔(ばんなぐろ)地区
の農民たちによって本格的な水田耕作に成功し、市内の水田は飛躍的に
増加しました。

戦後も食料難から造田への意欲は高く、町民あげて大規模な造田工事が
おこなわれ、水田地帯にかわりました。

昭和30年代には、札幌市の人口の急増から大規模団地として注目されるようになります。

昭和39年(1964年)、現在の花川南地区が「新札幌団地」として造成が開始されて以降、
大規模住宅地として開発が進み、人口はめざましく増加しました。

また、昭和48年(1973年)から着工された石狩湾新港は、国際貿易拠点港として期待されています。

平成8年(1996年)9月1日に、石狩町は「石狩市」となり市制が施行されました。

奈井江町

6,466人(人口、2009年6月30日)

奈井江は
アイヌ語の「ナヱ」から転訛したもので「砂多き川」の意味。
IMG_0066.jpg

奈井江町(ないえちょう)は、空知支庁中部に位置する町。

かつて石炭産業で栄えたが、閉山に伴い人口は激減。

農業・工業の振興を図る一方、福祉政策に力点を置く。

 

明治3年、伊達邦直は、土地調査のため上陸し、
ナヱイとナヱ川両川口に標杭を立て開拓の準備にとりかかった。

奈井江町明治23年滝川村の一部を分離、
奈井江町の母村である奈江村が誕生する。
鉄道の開通と奈江原野殖民区画の完成により、移住地の下検分など
移民入植の気運が高まり、奈江村はいよいよ活況を呈する。

明治28年奈江村より奈井江独立戸長役場を設立
12月には奈井江炭坑が発見され、試掘が始まった。
この独立を契機に現在の奈井江町へと大きく胎動を始めることとなった。
 明治36年には、奈江村が砂川村と改称される。



由仁町

6,228人(人口、2009年6月30日)
c7d12c87.gif

由仁の地名由来は
アイヌ語の
「ユウンニ」(温泉があるところの意味)
がなまったものといわれています。
由仁町(ゆにちょう)は、空知支庁管内、夕張郡にある町。

 

・明治19年 由仁開拓。下国皎三、沼山兵七 古川に入地。

・明治24年 熊本団体119人入植。

・明治25年 戸長役場がおかれ由仁村が誕生。

 

西南に馬追丘陵が広がる由仁町

細長いひょうたん型の由仁町は、南北に夕張川が流れ、
南東部の森林地帯は夕張連峰に属し、西部・南部には、馬追丘陵が広がっている。

1892(明治25)年、戸長役場が置かれて由仁村が誕生した。
1950(昭和25)年に町制が施行され、2002年には開基110年を迎えている。

最近は、2001年にオープンした
「ゆにガーデン」(ハーブを主体としたイングリッシュガーデン)が有名だ。
道道札幌夕張線の由仁入口付近を野球場へ抜ける町道・薫りの丘線にあり、
自然条件を生かして、ハーブを中心に園路に沿ってさまざまなハーブ見本園を配置する。

レストランやフレグランスショップを備えた総合ターミナル施設が建設されているが、
完成までにはまだ時間がかかり、今後は温室や農産物直売所などが建設される予定。

隣接する体験農園では、農家による作付けなどの指導も受けられる。



長沼町

12,119人(人口、2009630日)

 

長沼町(ながぬまちょう)は、
空知支庁管内南部にある町。20008-00083-1-m.jpg

町名は、開拓前に町域にあった河跡湖(三日月湖)
細長い沼に由来する。

アイヌ語で「タンネ・ト」tanne-to[細長い・沼]と呼ばれていた。

 

明治4(1872) 岩手県水沢藩家臣及び附近の移住希望者
合わせて36戸が北海道開拓使の募集移民として出発する。
移住民は3組に分れ3組の組長として
吉川太左ェ門、妻枝勢一子鉄之助は、北上川を下り河口石巻港より
出航、函館、佐原、室蘭、苫小牧、千歳を経て札幌平岸村に入り
開拓に従事する。

明治16年(1887)開基。
第一鍬者、吉川鉄之助及び渡辺伝二は馬追原野の夕張河畔に入り
木村勇次郎は開拓連絡のため一時札幌に留まる。



南幌町

8,985人(人口、2009630日)

地名の由来は、元々はアイヌ語の
「ポロモイ(湾曲して緩やかに流れる所)」から。
当時は漢字で「幌向(ほろむい)」と表記されていたが
現在の岩見沢市に同名の地名があって紛らわしいため
町制施行の際に現在の「南幌」となった。

 

南幌町(なんぽろちょう)は、空知支庁管内南部にある町。kanko_horomui.jpg

長く過疎地域に指定されていたが、1990年代に札幌市の
ベッドタウン化が進み、

人口が5,000人台から9,000人台まで急増した。

 

開拓の歴史。
それは同時に水との闘いの歴史でもあった。
 
蝦夷地探検の第1人者、松浦武四郎が千歳川・夕張川を調査
したことにより南幌町に初めて光があてられることになります。

明治19年(1886年)に新潟県から10戸の入植があり、
幌向原野に越後村を開きました。

その後入植団体が相次ぎ、明治26年(1893年)に宮城県から
石川邦光が77250
余りを引き連れて入植し、石川部落をつくりました。
この年、岩見沢村・幌向(現南幌町)村、栗沢村が戸長役場となり、南幌町開基の年となりました。

氾濫を繰り返す夕張川の治水にあたったのが、
保原元二技師で明治43年から工事が完成するまでの27年間を夕張川治水事業に尽くしました



秩父別町(ちっぷべつ)

2,828人(人口、2009630日)
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秩父別とは
アイヌ語の「チックシベツ」(通路のある川)から転訛したもの。

 

空知支庁管内の北部、石狩平野北端・雨竜平野
の北部に位置し町域内は東部の中山地区周辺を
のぞけば平坦。

雨竜川が町域の北から西にかけて流れ、沼田町
などとの境界線になっている。
市街地の周辺部には水田がひろがる。

秩父別町は明治2829年に計400戸の屯田兵とその家族
による入植によって築かれた町。

 

pm1.gif    






  日本最大級の洋鐘がある!
   秩父別町の開基百年を記念して造られた記念塔の頂点にその鐘がある。

   重量2.8tのスイングベルで、この鐘自体が揺れて音を出すものでその様
   は圧巻である。

   道の駅 百年記念塔の展望室に「しあわせの鐘」をH19/7/28に設置。 

 
   この「しあわせの鐘」は、ここに訪れた方々の「願いや思い」をその努力と
   強い思いで叶えていく誓いの場として設置。



雨竜町

3,031人(人口、2009630日)515757b7.jpeg

 

雨竜とは、現在の雨竜川から付けられた町名とされている。

雨竜川の音の意味するところについては諸説あり、アイヌ語で

urir-o-pet ウリロベッ[鵜・そこに群在する・川]から転訛したという説、

アイヌ伝説上の怪鳥フーリ(フリュー)が流域にいたとされる事に由来
すると言う説などがある。

しかし、元になったアイヌ語の音についても意味についても正確には
分からなくなっているのが現状。

 

明治22年に開拓の斧がおろされました。
雨竜町の水田耕作の端緒は明治時代の華族組合にあり、その中心の蜂須賀家
が運営したのが蜂須賀農場でした。

史跡公園は、蜂須賀農場の事務所があった場所です。

松並木からして北海道のそれとは異なり、本州の昔を感じさせます。
本町の開拓の拠点となった、蜂須賀(はちすか)農場の事務所跡をいこいの広場として整備。
敷地面積約3ha
芝生広場・運動広場・記念樹の森が、農場事務所跡の建物を囲むように広がる。
公園のシンボル「アカマツ並木」は、昭和506月に北海道開拓記念保護樹木に指定されている。



北竜町

2,260人(人口、2009630日)
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北竜町(ほくりゅうちょう)は、空知支庁管内北部にある町。

町名は母町の雨竜町北部に隣接することによる。

ヒマワリの作付面積は日本一を誇り、ヒマワリを中心とした
町づくりを行っている。

 

明治26年5月、千葉県の団体入植に源を発し、明治32年7月、
雨竜町から行政区を分離し、戸長役場を置き、雨竜町の北に位置
することから北竜町と称し、その発足をみた。

その後、大正4年2級町村制施行、さらに昭和36年9月に町制が施行
され、平成13年に開基110年を迎え、現在に至っている。

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  昭和35年の6,463人の人口をピークに過疎化が始まり、
    その後30年間で半分以下となったが、最近ではゆるやかな減少
    傾向となっているものの、高齢化が進行している状況にある。
 



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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