2009/06/14 00:55:13
神威岬(かむいみさき)
神威(カムイ)とはアイヌ語で「神」を意味する。
古くは御冠岬・オカムイ岬(ともに「おかむいみさき」と読む)とも呼ばれた。
この付近は古くから海上交通の難所として知られており、神罰を恐れて
安政3年(1856年)までは女人禁制の地であった。
古くは御冠岬・オカムイ岬(ともに「おかむいみさき」と読む)とも呼ばれた。
この付近は古くから海上交通の難所として知られており、神罰を恐れて
安政3年(1856年)までは女人禁制の地であった。
これは源義経に関する伝説が残っており、義経を慕って身を投げた日高
の首長の娘チャレンカの嫉妬心が、女を乗せた船を転覆させたことから、
岬一帯が女人禁制となった。
チャレンカはやがて岩と化して神威岩となったと言い伝えられている。
また、日露戦争時にはロシア艦隊の来寇に備えて監視所が設けられていた。
の首長の娘チャレンカの嫉妬心が、女を乗せた船を転覆させたことから、
岬一帯が女人禁制となった。
チャレンカはやがて岩と化して神威岩となったと言い伝えられている。
また、日露戦争時にはロシア艦隊の来寇に備えて監視所が設けられていた。
岬の付け根にある駐車場から先端部までは尾根沿いに整備された遊歩道
で徒歩20~30分ほど。
で徒歩20~30分ほど。
念仏トンネル
神威岬近くのワクシリ岬にある全長60メートルのトンネル。1918年(大正7年)11月8日開通。
現在は立入禁止となっているが、以前は神威岬に行くにはこのトンネルを通る必要があった。
1912年(大正元年)、灯台守の家族がワクシリ岬付近で荒波にさらわれ死亡するという事故
が起きたのを契機に、1914年(大正3年)に着工した。
が起きたのを契機に、1914年(大正3年)に着工した。
両側から手掘りで掘り進むうちに食い違いが生じ、工事が中断したが、村人たちが念仏を
唱えて鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向が分かり工事が再開できたと言われている。
このため、途中で2度折れ曲がっており、内部は真っ暗である。
念仏を唱えながら通ると安全であると言い伝えられている。
唱えて鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向が分かり工事が再開できたと言われている。
このため、途中で2度折れ曲がっており、内部は真っ暗である。
念仏を唱えながら通ると安全であると言い伝えられている。
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2009/06/13 00:41:05
地名の由来はアイヌ語のシャクコタン(夏の村)に由来。
沿岸は複雑な海岸線が連続し、風光明媚な景観に富み、
海岸線一帯はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。
海岸線一帯はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。
積丹半島の海岸線を沿って走る国道229号線は、
小樽から江差を結ぶ「追分ソーランライン」と呼ばれる幹線道路。
かつては北海道の経済的中心であった小樽を起点に、難所で名高い
積丹半島を経て江差へと至るその道には、ニシン漁で賑わった当時の
面影が残っています。
なかでも、積丹半島の歴史には数多くの伝説や逸話が伝えられており、
北海道を代表する民謡「ソーラン節」は、ニシン漁で賑わった
積丹町が発祥の地と言われております。
小樽から江差を結ぶ「追分ソーランライン」と呼ばれる幹線道路。
かつては北海道の経済的中心であった小樽を起点に、難所で名高い
積丹半島を経て江差へと至るその道には、ニシン漁で賑わった当時の
面影が残っています。
なかでも、積丹半島の歴史には数多くの伝説や逸話が伝えられており、
北海道を代表する民謡「ソーラン節」は、ニシン漁で賑わった
積丹町が発祥の地と言われております。
江戸時代になってこの地を治めていた松前藩がアイヌとの交易を
おこなっていましたが、財政難の理由などから商人に交易を委ねることにしました。
その後、商人が漁業を請け負う制度が発達し大いに栄えていきましたが、
江差地方が凶漁に見舞われたのをきっかけに、ニシン漁が日本海側をどんどん北上し、
積丹半島もニシン漁のメッカとして大いに栄えていきました。
幕末のころになると、積丹半島各地でも大網の使用が広く許可され大量にニシンが
漁獲されました。
経済の発展と共に人々の往来が著しく増加し、また、物流のための海路や陸路が
整備されていきましたが、百万石のニシン漁で沸いていた積丹半島では依然として
海上輸送がメインでした。
大正期に入り大小数多くのトンネルが完成し、積丹半島も馬車交通路の完成を迎えました。
おこなっていましたが、財政難の理由などから商人に交易を委ねることにしました。
その後、商人が漁業を請け負う制度が発達し大いに栄えていきましたが、
江差地方が凶漁に見舞われたのをきっかけに、ニシン漁が日本海側をどんどん北上し、
積丹半島もニシン漁のメッカとして大いに栄えていきました。
幕末のころになると、積丹半島各地でも大網の使用が広く許可され大量にニシンが
漁獲されました。
経済の発展と共に人々の往来が著しく増加し、また、物流のための海路や陸路が
整備されていきましたが、百万石のニシン漁で沸いていた積丹半島では依然として
海上輸送がメインでした。
大正期に入り大小数多くのトンネルが完成し、積丹半島も馬車交通路の完成を迎えました。
大正初期よりニシンの漁獲が落ち込んでいき、漁獲量の減少とともに多くの人々がこの地
をさっていきましたが、戦後になってニセコ・積丹・小樽国定公園の指定を受けたのをきっかけに、
一躍観光地として脚光を浴びるようになりました。
近年、積丹半島の神威岬が北海道遺産に認定され、より多くの観光客が積丹半島を訪れる
こととなりました。
をさっていきましたが、戦後になってニセコ・積丹・小樽国定公園の指定を受けたのをきっかけに、
一躍観光地として脚光を浴びるようになりました。
近年、積丹半島の神威岬が北海道遺産に認定され、より多くの観光客が積丹半島を訪れる
こととなりました。
2009/06/12 00:34:24
吉田一穂(よしだいっすい)
吉田一穂は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。
一穂は、渡島管内の木古内町に生まれ、7歳から古平で育った。
上京して1926年(大正15年)に出版した処女詩集「海の聖母」で
詩壇に衝撃を与え、若山牧水や北原白秋らとともに親交を深めた。
一穂は、渡島管内の木古内町に生まれ、7歳から古平で育った。
上京して1926年(大正15年)に出版した処女詩集「海の聖母」で
詩壇に衝撃を与え、若山牧水や北原白秋らとともに親交を深めた。
古平を「白鳥古丹(かむいこたん)」と名付け、その風土を愛し続けました。
また、一穂は、児童文学との関わりも深く、1922年に童話「ふる郷へ」
「古時計」を発表するなど、その本格的な文筆活動の始まりは児童詩へ
の執筆でした。
専門詩人の間で、吉田一穂ほど畏怖されている存在はありません。
ただ孤高で俗流詩人と肩を並べることを好まず、ジャーナリズムをも蔑視してきた。
また、一穂は、児童文学との関わりも深く、1922年に童話「ふる郷へ」
「古時計」を発表するなど、その本格的な文筆活動の始まりは児童詩へ
の執筆でした。
専門詩人の間で、吉田一穂ほど畏怖されている存在はありません。
ただ孤高で俗流詩人と肩を並べることを好まず、ジャーナリズムをも蔑視してきた。
「海の聖母」
あゝ麗はしい距離(ディスタンス)
あゝ麗はしい距離(ディスタンス)
常に遠のいてゆく風景・・・・・
悲しみの彼方、母への
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)
吉田一穂に関する資料は、小樽文学館に保存されている。
一穂が靖国神社に捧げた鎮魂歌碑、詩集『海の聖母』の「漁歌」の碑、「白鳥古丹」の碑が古平町にある。
2009/06/11 00:27:09
古平温泉(一望館)
建物は旧古平高校を利用改装したもの。
低温泉と高温泉で構成された大浴場では、のんびりゆったりと
湯につかりながら窓から見える四季折々の姿を満喫できます。
また、休憩室も十分なスペースがあり、大人数のお客様でも対応
でき、ゆったりくつろぐことができます。
適応症
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、
うちみ、くじき、痔疾、慢性消化器病、慢性皮膚病、病後回復期、
疲労回復、健康増進、虚弱児童、慢性婦人病、冷え症、きりきず、
やけど
禁忌症
急性疾患(特に熱のある場合)、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、
腎不全、出血性疾患、活動性の結核、高度の貧血、
その他一般に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期)
料金
大人(高校生以上)500円
小人(小・中学生)200円
電話番号 0135-42-2290
営業時間 AM10:00~PM9:00
休館日 第1・3金曜日
(祝日にあたる場合は営業致します)
駐車場 70台収容
適応症
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、
うちみ、くじき、痔疾、慢性消化器病、慢性皮膚病、病後回復期、
疲労回復、健康増進、虚弱児童、慢性婦人病、冷え症、きりきず、
やけど
禁忌症
急性疾患(特に熱のある場合)、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、
腎不全、出血性疾患、活動性の結核、高度の貧血、
その他一般に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期)
料金
大人(高校生以上)500円
小人(小・中学生)200円
電話番号 0135-42-2290
営業時間 AM10:00~PM9:00
休館日 第1・3金曜日
(祝日にあたる場合は営業致します)
駐車場 70台収容
2009/06/10 00:04:24
古平町(ふるびらちょう)
3,896人
を結ぶ
最大長さ70m、最大幅50m、最大深さ13m、
体積約11000立方メートルの岩盤が崩落した。
この事故で、札幌雪祭りや小樽市へ向かう乗客を乗せた
路線バス1台、乗用車2台がトンネル内で押し潰された。
このトンネルは海岸線に沿って山肌を削るように造られており、
岩盤除去作業が思うように捗らず、二次災害の可能性から救助
が遅れた。
その間、管理している建設省(当時)の現場責任者らに、被害を
受けた家族等が「早期救助」を訴えて詰め寄るなど現場は騒然。
結局、事故から1週間後に20人全員の死亡が確認されるという惨事となった。
このトンネルは、以前から壁に亀裂が走っていたり、石が落下していたため地元住民
は崩落の危険性を危惧していた。が、対策前に尊い命の犠牲を出してしまった。
2009/06/09 00:15:11
下ヨイチ運上家
(しもよいちうんじょうや)
下ヨイチ運上家(しもよいちうんじょうや)とは、
松前藩が設置した運上屋である。
運上家とは場所請負人によって設置された施設で、
和人とアイヌ人との交易の場所である。
現存する運上家は旧下ヨイチ運上家一箇所のみである。
松前藩の蝦夷地支配の遺構として、昭和46年重要文化財に指定され、
一帯の敷地は昭和48年)、国の史跡に指定された。
運上家の前浜は狭小な砂浜と岩礁地帯からなる環境で、鰊の産卵
場所として適当な場所である。
また、背後にモイレ山が迫っている。
運上屋を設けたのは、積丹から小樽方面に行くための要所であり、
関所としての役割も果たせる位置であるからであろう。
2009/06/08 00:16:36
ニッカウヰスキ-北海道余市原酒工場
1934年(昭和9年)にニッカウイスキーが創業した地としても知られ、
スコットランドの情緒あふれる余市蒸留所は今でも伝統的な製造法を
守っており、観光名所となっている。
スコットランドの情緒あふれる余市蒸留所は今でも伝統的な製造法を
守っており、観光名所となっている。
創業者の竹鶴政孝は、気候がスコッチウイスキーの王国スコットランド
に似ていたことと、ウイスキーの製造に欠かせないピート(泥炭)が入手
できたことから、この地を選んだと言われる。
に似ていたことと、ウイスキーの製造に欠かせないピート(泥炭)が入手
できたことから、この地を選んだと言われる。
ニッカウヰスキ-といえば「モルト」だ。
モルトだけでつくれば絶対うまいウイスキ-ができるような幻想が潜んでいる。
しかし、そのモルトは温度、湿度、水、気候風土といった自然の恩恵を決して
忘れない。
ニッカの故郷・余市では今なお蒸留釜を北海道産の微紛炭で焚く。
直火でゆっくり、ぷらぷらと焚くのである。低温多湿な貯蔵庫で熟成の眠りに
ついてからも、北のモルトは急がない。効率は甚だ悪い。が、それゆえ完熟の域に至る。
2009/06/07 00:02:51
余市
1992年、毛利衛さんは日本人初のNASA宇宙飛行士として宇宙に
挑みました。
挑みました。
飛行船の中で、「りんご」が投げられた光景は今でも目に焼きついて
いる人は多いと思います。
いる人は多いと思います。
「スペ-ス童夢」
日本人科学者として初の宇宙飛行士 毛利衛さんが宇宙に挑んだの
を記念して建てられた余市宇宙記念館「スペ-ス童夢」は毛利さんが
実際に行った宇宙実験や毛利さんからの子どもたちへのメッセ-ジ、
更には、最新のバ-チャル技術による様々なアトラクションを通して
宇宙の神秘や宇宙開発の歴史を学ぶことができる体験型学習施設です。
を記念して建てられた余市宇宙記念館「スペ-ス童夢」は毛利さんが
実際に行った宇宙実験や毛利さんからの子どもたちへのメッセ-ジ、
更には、最新のバ-チャル技術による様々なアトラクションを通して
宇宙の神秘や宇宙開発の歴史を学ぶことができる体験型学習施設です。
2009/06/06 00:02:02
余市町
21,828人
余市は江戸時代から大正時代にかけて日本海で隆盛した鰊漁の主要港
のひとつであり、
明治時代には日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培
に成功するなど、現在でも漁業と農業(特に果樹農業)がともに盛んな地
となっている。
のひとつであり、
に成功するなど、現在でも漁業と農業(特に果樹農業)がともに盛んな地
となっている。
また、ニッカウヰスキーの創業地、民謡ソーラン節発祥の有力地としての
顔も持つ。
顔も持つ。
町内にはフゴッペ洞窟をはじめとする縄文時代から続縄文時代の遺跡が
多く、古くからアイヌの人々が定住する地。
多く、古くからアイヌの人々が定住する地。
江戸時代初期に松前藩の商場知行制・場所請負制が敷かれると、
良港として使用できた現在の余市町域には、和人によるアイヌ交易の拠点
として「上ヨイチ場所(運上屋)」「下ヨイチ場所(運上屋)」の二つが置かれた。
良港として使用できた現在の余市町域には、和人によるアイヌ交易の拠点
として「上ヨイチ場所(運上屋)」「下ヨイチ場所(運上屋)」の二つが置かれた。
この「ヨイチ」という地名については、余市川を指すアイヌ語地名
「イオチi-ot-i(それ<蝮>・群棲する・もの(川流域))」を起源とし、
アイヌ語地名では二重母音を忌避する性質があることから、
アイヌ語では「イヨチi-y-ot-i」と、「y音」を添加したが、後に和人の入り込みに伴い、
「イヨチ」が「ヨイチ」へと言い習わされるようになり、それに漢字が充てられて、
「余市」という現在の表記になったと考えられる。
「イオチi-ot-i(それ<蝮>・群棲する・もの(川流域))」を起源とし、
アイヌ語地名では二重母音を忌避する性質があることから、
アイヌ語では「イヨチi-y-ot-i」と、「y音」を添加したが、後に和人の入り込みに伴い、
「イヨチ」が「ヨイチ」へと言い習わされるようになり、それに漢字が充てられて、
「余市」という現在の表記になったと考えられる。
現在、「下ヨイチ運上屋」が国の指定史跡として残っているが、これは全国唯一の運上屋遺構である。
2009/06/05 00:33:29
仁木町(にきちょう)
3,892人
1879年(明治12年)に、
仁木竹吉(にきたけよし)ら360余名が徳島県(現在の徳島県吉野川市)
から集団で入植したのが和人定住の始まりで、翌年に仁木村が成立した。
仁木町の名は仁木竹吉にちなむ。
仁木竹吉(にきたけよし)ら360余名が徳島県(現在の徳島県吉野川市)
から集団で入植したのが和人定住の始まりで、翌年に仁木村が成立した。
仁木町の名は仁木竹吉にちなむ。
山口県からの移民を中心に、1883年(明治16年)に大江村が成立した。
大江は、山口県を支配した毛利氏の子孫とされる大江広元にちなむ。
大江は、山口県を支配した毛利氏の子孫とされる大江広元にちなむ。
仁木では早くからリンゴの栽培が盛んで、現在まで果樹園が広がる。
一方、大江では米作りが盛んであったので、稲と林檎が町の産業の二つの柱であった。
20世紀後半になるとさくらんぼ、ぶどうも加えた果樹の比重が高まった。
20世紀後半になるとさくらんぼ、ぶどうも加えた果樹の比重が高まった。
緑あふれる施設 (写真)
広い園内には仁木町名産のさくらんぼ、りんご、ぶどう、といった果物はもちろん、
ラベンダーやコスモス等の花々を栽培する他、遊具、レストラン、地域特産品販売所、
宿泊施設も完備しております。
◆お問い合せ:0135-32-3500
◆入場無料、無料駐車場完備
◆営業期間:4月~10月
◆営業時間:9:00~18:00
ラベンダーやコスモス等の花々を栽培する他、遊具、レストラン、地域特産品販売所、
宿泊施設も完備しております。
◆お問い合せ:0135-32-3500
◆入場無料、無料駐車場完備
◆営業期間:4月~10月
◆営業時間:9:00~18:00