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芽室町(ゲートボール)
 
芽室町(めむろちょう)は、北海道十勝支庁管内にある町。7.jpg
この町はゲートボール発祥の地です。
 
お年寄りのスポーツというイメージが強いゲートボール。
実は子供のためにつくられたということと、北海道から生まれたことは、
ほとんど知られていません。
ゲートボールは第二次世界大戦の直後、北海道芽室町でパン工場を
経営していた鈴木和伸氏の考案で、生まれました。
極端なモノ不足の時代、北海道各地をパンの営業で移動する中、道具
もなく外で遊べない子供たちの姿を見て心をいためていた創始者鈴木
和伸氏が、札幌で戦後処理の任務に就いていた時に見た、進駐軍が行
っていた「クロッケー」というゲームを参考にして考案したものです。
道具は旭川でつくられ、芽室町のパン工場の空き地で、ゲームのやり方
と規則書つくりが行なわれました。
 
現在の芽室町東4条1丁目付近の窪地が、「ゲートボール」誕生の場所です。
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十勝平野
 
十勝平野は、
西は日高山脈、北は石狩山地、東は白糠丘陵にmap-obihiro.gif
囲まれており、南部は太平洋に面している。
北海道の全面積の10%ほどを占め、
平野の中を十勝川が流れ中心付近には帯広市がある。
帯広を含む十勝の農業は大型農業機械による大規模畑作経営が中心。
市内の農家1戸あたりの平均耕地面積は約24haで、北海道の平均17.41ha、
全国の平均1.57haを大きく上回っており、カロリーベースの食料自給率は
約280%(約48万人分)と人口の割に非常に高い。
 
主な作物は小麦・ジャガイモ・ビート・豆で、近年は長いもやごぼうといった、
この地域特産の野菜の生産も進んでいる。
全国的にも知名度の高い菓子製造会社六花亭や柳月、クランベリーは、帯広市に本社を置いている。


帯広の豚丼
 
帯広の開拓の祖”依田勉三”が
十勝・帯広の開拓に入ったのが明治16年。c8b54e28.jpeg
「開拓の初めは豚とひとつ鍋」と勉三が詠むように、
”一つの鉄鍋と豚しか無い、開拓という苦労のありさま”
を今に伝えています。
帯広市の大衆食堂「ぱんちょう」
(店名は中国語の「飯所」に由来する)
創業者、阿部秀司氏によって1933年(昭和8年)に開発されました。
十勝地方では、明治時代末に養豚が始まり、大正末期には豚肉料理
が一般的になりつつありましたが、料理法が限定され、特に豚カツなど
は庶民が食べるものではありませんでした。
阿部氏は庶民にも食べられる料理ということで、鰻丼をヒントにした醤油味
の豚丼を開発。
 
帯広駅北口前の東西の通りに面した、豚丼専門店「ぱんちょう」があります。

帯広百年記念館
 
帯広百年記念館は、明治16年、開拓団体の晩成社が
現在の帯広に初めて開拓の鍬をおろしてからちょうど
obihiro-museum.jpg100年目にあたる昭和57年に建てられました。
常設展示室は第1展示室と第2展示室に分かれており、
1展示室では十勝の自然や開拓期のようすから
農業王国・十勝へと発展するまで、
2展示室では十勝平野の形成から先住民であるアイヌ
の人々の生活のようすまでを展示しています。

十勝のアイヌ文化コーナーでは、和人が開拓に入るずっと以前から
恵まれた自然のなかで狩りや漁、植物採集を中心に生活を営んでいた
アイヌの人々の十勝川沿いに多くみられる集落や伝統的な
生活のようすを紹介しています。

◆開 館:AM9:30~PM4:30
◆休 館:毎週月曜日、祝日の翌日、年末年始
◆所在地:帯広市緑ヶ丘2番地  TEL.0155-24-5352


 晩成社
 
晩成社は、依田勉三の北海道開拓の志(こころざし)をもとに、
土地開墾、農業、牧畜、造林などを目的として
dc3be366.gif1882(明治15)年、静岡県伊豆国那賀郡大沢村
(現、賀茂郡松崎町大沢)で同地の豪農、
依田家によって結成された会社です。
(資本金を5万円。当時の1円は、現在の4000円)
 
社長は勉三の兄・佐二平、副社長は勉三と弟の善吾でした。
また、勉三が東京で勉学中に知り合った友人で、
渡辺勝、鈴木銃太郎が幹部として参加しました。
会社結成後、開拓地選定のため勉三と銃太郎が渡道し、
河西郡下帯広村(現・帯広市)を予定地と決め、
1883(明治16)年5月、勉三率いる晩成社移民団一行13戸27名が入植しました。
 
入植地に到着して最初に行う仕事は、とりあえず寝泊まりができる仮小屋造り。
それは、棒を数本、上部を縛って円錐形に立て、その周辺を草、木の皮、葦などで
覆ったものや、上部が二股になったY字形の棒を2本立てて柱とし、棒を横に渡し、
それに左右から斜めに木をもたせかけて草や木の皮などで覆うものだった。
これらは、両手の指先を合わせたような形であることから「拝み小屋」とも呼ばれる。
やがて、木を切り倒し、ムシロを敷いて、居間、炊事場などを作り、住まいらしくなった。
しかし、すきま風が多く寒さが厳しい夜は、夜通し炉を絶やすことができなかった。
開拓初期を象徴する道具といえば、
開拓小屋の炉の上に常に吊り下げられていた鉄鍋(自在鍋)である。
十勝開拓の先駆者、晩成社の依田勉三が
「開拓のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだように、一つの鍋で全ての煮炊きをした。
 


帯広市
 
帯広市は、北海道東部の十勝[とかち]地方のほぼ中央に位置する
人口約17万人のまちです。
obihiro_ichi.gif 
明治16年(1883年)に本格的に開拓がはじまり、碁盤目状の道路網
など計画的な市街地形成を行ってきました。 
農業を主要産業とする十勝地方(約35万人、1市16町2村)の中心地
であり、農産物集積地、商業都市としての役割を担っています。


帯広の街は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による
開拓ではなく、静岡県出身の依田勉三率いる晩成社
一行が1883年(明治16年)に入植したのが開拓の始まり。
1895年(明治28年)に通称十勝監獄が開設され、受刑者によって大通が整備され市街地が形成された。
市街は計画的に整備されており、帯広駅を中心に碁盤目状の区画が四方に広がり、大通公園から北東、北西、南東、南西に対角線方向の道路(火防線)が設けられてい.る。


函館空港
 
ミグ25事件
1976年(昭和51)9月6日、冷戦のさなかに
ソビエト連邦のソビエト連邦軍e0c8c921.jpeg現役将校が、ミグ25迎撃戦闘機
で函館空港に接近、市街上空を3度旋回した後、滑走路に
強行着陸し亡命を求めた事件がありました。
 
全日空857便ハイジャック事件
1995年6月21日に、羽田空港発函館空港行きのANA857便が、
11時45分頃山形上空でハイジャックされました。
その後、函館空港に着陸し元銀行員によって占拠された事件
犯人は365人を人質に航空機内に立てこもりました。
1995年6月22日
当時の総理であった村山富市(社会党)の指示により
北海道警察機動隊銃器対策部隊、函館方面函館中央署員、
警視庁警備部第六機動隊特科中隊(SAP、後の特殊急襲部隊SAT)が強行突入。
犯人を逮捕。
この便には歌手の加藤登紀子と実母、加藤のバックバンドのメンバーも乗っており、
バンドのメンバーが携帯電話で犯人の状況を伝えた事件でした。


函館カール・レイモン
 
函館山のふもと、元町のカール・レイモン氏旧工場跡地に建て95ceaf54.jpegられた、
レイモンハウス元町店。
 
カール・ワイデル・レイモンは、函館の名産品として有名な
ハム・ソーセージの創始者。
「胃袋の宣教師」として知られた。1894~1987年。
 
ドイツ・ボヘミア地方(現在のチェコスロバキア)の生まれ。
父がハム・ソーセージ作りの職人だった彼は、14歳で自らも
食肉加工の修行を始める。
後にノルウェーの缶詰会社で働くようになり、アメリカで3年間の研修を行う。
研修を終えて帰る途中、あこがれの日本に立ち寄った。
その1年後の1920年、彼はアメリカの缶詰会社の誘いで函館にやって来た。
 
レイモンは函館の旅館の娘と恋に落ちるが、当時国際結婚は日本では
社会的に認められず、結局レイモンの地元へ駆け落ちする。
地元ではハム・ソーセージを作り、順調に暮らす毎日。
だが、3年目のある日レイモンは妻に「日本に帰る」と告げる。
函館に戻り、店を開いたレイモンと妻コウ。だが、時はまだ大正14年。
誰もハムやソーセージを知らず、まったく売れなかった。
その後も精力的に生産を続けたレイモンだが、昭和13年に工場の実質的な
強制接収を受けてしまう。
太平洋戦争中は外国人として言われなき迫害も経験した。
 
終戦後の昭和23年、レイモンは函館市元町でハム・ソーセージ作りを再開。
手作業でドイツの伝統製法を守り続ける彼のハム・ソーセージは
地元で高い評価を受けるようになっていく。
手作りで大量生産できないため販売店に入荷する日が限られており、
「お店にレイモンのハム・ソーセージが入荷する日を楽しみにしていた」と
当時を思い出す市民も少なくない。
「胃袋の宣教師」として愛されたレイモンは、1987年に93歳で死去。
彼の教えと味は弟子に受け継がれ、「カール・レイモン」のハム・ソーセージは
肉本来のおいしさを時間と手間をかけて引き出す伝統製法で今も作り続けられ
函館の味として親しまれている
 
 


岡本 一平 (おかもと いっぺい)  
 明治19年(1886)~昭和23年(1948)年。018okamotoippei2.jpg
 
函館市生まれ。大正から昭和にかけて、主に新聞や雑誌で漫画に
解説文を添えた「漫画漫文」という独自のスタイルを築いて大活躍し
た漫画家です。
当時は、総理大臣の名前は知らなくとも、岡本一平の名を知らぬ者
はいないといわれたほどの人気でした。

 また岡本家は、父親が書家・岡本竹次郎、妻が小説家・岡本かの子、
長男が画家・岡本太郎という芸術一家としても知られています。
しかし、一平が函館出身ということはあまり知られていません。
 
汐見町(現・元町)で生まれ、3歳までを函館で過ごしました。
父親の竹次郎は、先立つこと明治17年、函館にやってきてました。
函館師範学校で書記などを勤めていたところ、良縁に恵まれ、長男一平が誕生したのです。


外人墓地
 
嘉永7年(1854)、ペリー艦隊来航のとき死んだ2人の水兵のgaijinbochi.jpg
埋葬場所に提供したのがここでした。
明治3年(1870)、在函5ヵ国の領事からの要望で正式に外国人
墓地として定められ、道をはさん
で山側がロシア人墓地。
海側のプロテスタント墓地にはイギリス・ドイツ・アメリカ・イタリア人
などの墓地があり、安政6年(1859)の開港から明治にかけて、
国際港として一翼を担った函館の
華やかな側面を物語っています。
ロシア人墓地の斜め向かい、レンガ塀の中の祀堂は中国人墓地と
なっています。
故人の母国によって異なるさまざまな形の墓標が、函館湾を見下ろしながら
立っている風景は、彼らの望郷の念を表しているかのよう。
祖国を遠く離れ来函中の海上で、あるいは函館の地で亡くなった多くの
外国人が葬られている。



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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