2009/01/14 00:55:16
木造五百羅漢像(宗圓寺)
所在地 小樽市潮見台1丁目19番10号
宗派はかつて黄壁檗宗だったが現在は浄土宗系の単立。
山号は天恩山。開基は松雲元慶、開山は鉄眼道光、
本尊は釈迦如来。
本尊は釈迦如来。
300体以上の羅漢像を祀っている(当初は536体あった)。
五百羅漢像を安置している宗圓寺は
、寛永7(1630)年に松前藩主7代公廣の追善供養のため福山に
建立されましたが、明治42(1909)年に羅漢像や建物の部材ととも
に小樽に移設されたものです。
この五百羅漢像は、14代章廣が供養のため南部藩主に依頼し
文政8(1825)年盛岡より勧請し宗圓寺に納めたといわれていますが
室町~桃山時代の作と思われるもの11体、江戸中期のもの236体、
江戸末期のもの268体という調査結果が報告されています。
このうち江戸中期のものの製作者名「暉常(うんじょう)」は最近の調査で
松前に居住した能面師であったことが判りました。
以上のように羅漢像の大半が江戸中期から末期のものであり、、寛永7(1630)年に松前藩主7代公廣の追善供養のため福山に
建立されましたが、明治42(1909)年に羅漢像や建物の部材ととも
に小樽に移設されたものです。
この五百羅漢像は、14代章廣が供養のため南部藩主に依頼し
文政8(1825)年盛岡より勧請し宗圓寺に納めたといわれていますが
室町~桃山時代の作と思われるもの11体、江戸中期のもの236体、
江戸末期のもの268体という調査結果が報告されています。
このうち江戸中期のものの製作者名「暉常(うんじょう)」は最近の調査で
松前に居住した能面師であったことが判りました。
製作者についても一様ではありませんが、北海道での仏教信仰や
彫刻の歴史を考えるうえで重要な資料となっています。
2009/01/12 00:04:07
旧木村倉庫(北一硝子三号館)
小樽港の繁栄を示す大規模な石造倉庫で、
当初はニシン漁場の中継倉庫。建築は明治24年。
屋号「北一」、建てたのは
海産物業・倉庫業・船問屋・不動産業などで成功した木村円吉。
当初はニシン漁場の中継倉庫。建築は明治24年。
屋号「北一」、建てたのは
海産物業・倉庫業・船問屋・不動産業などで成功した木村円吉。
鰊の海産物倉庫から始まり、小樽の発展と共に営業倉庫として
次々にこの近辺に倉庫を建て、1号から9号倉庫までが建てられた。
臨港線と堺町大通りに挟まれた
3号倉庫は、昭和58年北一硝子3号館として蘇った。
歴史的建造物を再利用した先駆けであり、店内の広々とした次々にこの近辺に倉庫を建て、1号から9号倉庫までが建てられた。
臨港線と堺町大通りに挟まれた
3号倉庫は、昭和58年北一硝子3号館として蘇った。
空間を利用し、ガラス製品の販売店として観光客が群れを成している。
木骨石造り建築の倉庫内が中央の通路で分かれており、その通路に荷物搬入用
のトロッコのレールが今も残っている。
この周辺には北一関係のガラス工房やベネチア美術館などが立ち並んでいる。
2009/01/11 00:23:51
旧田中福松邸(小樽市鰊御殿)
明治~大正時代に盛んであったニシン漁で財を成した
網元達が競って造った木造建築物。
網元達が競って造った木造建築物。
当時の北海道の僻地ぶりを勘案すれば、図抜けた豪華さを誇る
木造建築物で、明治中期~末期のものは和洋折衷の様式を取り入れ
ているものもあり、流行に敏感な一流の棟梁を招聘して造らせた。
内部は多層構造となっており、1階は網元の居宅、ニシンの加工場。
木造建築物で、明治中期~末期のものは和洋折衷の様式を取り入れ
ているものもあり、流行に敏感な一流の棟梁を招聘して造らせた。
内部は多層構造となっており、1階は網元の居宅、ニシンの加工場。
2階~3階部分は漁に従事する労働者(ヤン衆)の宿泊施設、
ニシンの見張り台となっていることが多い。
ニシンの見張り台となっていることが多い。
小樽市鰊御殿は現存する中では最大規模を誇り
明治30年頃、当時鰊大尽と呼ばれた積丹半島有数の網元田中福松
が7年の歳月をかけ泊村に建設したのを移築したものです。
明治30年頃、当時鰊大尽と呼ばれた積丹半島有数の網元田中福松
が7年の歳月をかけ泊村に建設したのを移築したものです。
2009/01/10 00:57:22
オタモイ海岸
現在、小樽市唯一のカタカナ表示の町名で、
なかにし礼「石狩挽歌」の歌詞にも登場します。
なかにし礼「石狩挽歌」の歌詞にも登場します。
昭和初期北日本随一とうたわれた遊園地がありました。
中でも切り立った岩肌と紺碧の海に囲まれて断崖に建てられた
「龍宮閣」という3階建ての建物は、
京都の清水寺を凌ぐと絶賛され、お伽噺の龍宮城を彷彿とさせた
といわれ、最盛期には一日数千人もの人々がこの地を訪れたといいます。
「龍宮閣」という3階建ての建物は、
京都の清水寺を凌ぐと絶賛され、お伽噺の龍宮城を彷彿とさせた
といわれ、最盛期には一日数千人もの人々がこの地を訪れたといいます。
施主は愛知県出身で寿司店などを小樽にかまえていました。
オタモイに、全く新しい観光名所を作ろうと決意し、昭和10年、3年がかりで
完成した遊園地には、800人収容の大演芸場、児童遊園地、大衆食堂などがあり、
断崖に刻んだ山道を進み、唐門をくぐると、まるで海底の龍宮城が岩棚にうちあげられ
たような「龍宮閣」がありました。
完成した遊園地には、800人収容の大演芸場、児童遊園地、大衆食堂などがあり、
断崖に刻んだ山道を進み、唐門をくぐると、まるで海底の龍宮城が岩棚にうちあげられ
たような「龍宮閣」がありました。
戦時体制が強くなった昭和17年ころ、
華美な風俗がしだいに自粛を余儀なくされ営業休止。
華美な風俗がしだいに自粛を余儀なくされ営業休止。
戦後の激動を経て、明日に営業再開を控えた昭和27年5月10日龍宮閣は漏電に
よって炎に包まれました。
よって炎に包まれました。
その日は風が強く、わずか1時間あまりで灰になってしまいました。
いま龍宮閣の跡地は、礎石部分だけが残っていて、今もその場に立つと超絶の
ロケーションだったことがわかります。
ロケーションだったことがわかります。
現在、遊園地の跡を偲ばせるものは断崖の上に残った龍宮閣の礎石と
遊歩道トンネルの部分だけがあります。
遊歩道トンネルの部分だけがあります。