小林多喜二文学碑(小樽市旭展望台)
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年~1933年)は、
プロレタリア文学の代表的作家。
秋田県秋田郡下川沿村(現大館市)生まれ、
4歳の時に小樽に移住。
1929年に「蟹工船」を「戦旗」に発表し、一躍注目を
集め同年7月には新築地劇団によって『北緯五十度以北』という
タイトルで帝国劇場にて上演された。
同時に特高警察から要注意人物としてマークされ始める。
1933年2月20日に逮捕され、築地警察署で取り調べられ
その後築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死去した。
なお、警察当局は、翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが
翌日遺族に返された多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に
腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。
しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。
小樽市旭展望台に小林多喜二文学碑があります。
昭和39年に建立。設計は本郷新。
見開き本の形の右に獄中書簡のレリーフ、左に青年労働者の頭部像がはめ込まれている。
海陽亭
1895年の大火により再建を余儀なくされ、
「開陽亭」と改名。
その後「海陽亭」と文字を改め現在に至っております。
明治39年(1904)、日露戦争終戦後の日露国境画定会議
が小樽でもたれ、その祝宴がここ海陽亭・明石の間で
開かれました。
戦後景気は街を益々発展させ、豪商たちが夜な夜な
海陽亭にその姿を見せ、伊藤博文、原敬らが訪れ
「いながらにして山が見え、海が見える料亭」
と言われたのがこの海陽亭。
場所は堺町のオルゴール堂の裏手にあります。
石原慎太郎や故石原裕次郎も縁が深い場所としても有名です。
完全予約制の割烹料理店。
100年以上にも渡る歴史が感じられる建造物がほぼそのままで
残っており亭内見学(1000円)も可能です。
小樽市
「オタル」は
アイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)
が地名の由来とされています。
今の小樽の町にはこの川はありません。
江戸期より鰊漁や鮭漁を営む人々により集落が
形成され、1865(元治2)年に「村並」となりました。
1869(明治2)年、札幌に開拓使が設置されると小樽は
北海道開拓の最も重要な港湾として位置づけられ
1880(明治13)年には、道内で最初の鉄道が手宮と札幌間に開通しました。
その後、小樽港は1889(明治22)年には特別輸出港に、
1899(明治32)年には国際貿易港に指定され、さらに日露戦争後は
南樺太の消費物資の供給地となるなど、小樽はこのころから急速に
発展し、繁栄の一途をたどりました。
一方、街並みの形成過程をみますと、1889(明治22)年には
色内・手宮の地先の埋め立てが完成し、この地に石造倉庫が建ち並びました。
市街地の中心も勝納町から入船町、堺町、色内町方面に移り、回漕店、問屋、
銀行などが軒を並べました。
特に「北のウォール街」と呼ばれた銀行街は、明治から大正期にかけて中央
の金融機関が進出したもので、本道金融界の中心地として重要な役割を果た
しました。
このような背景の中で、色内一帯には中央の建築家の手による
旧日本郵船(株)小樽支店(国指定重要文化財)、日本銀行旧小樽支店
(小樽市指定有形文化財)など、近代建築が数多く建てられました。
これら明治、大正、昭和初期の建造物は現在も数多く残されており、
歴史や文化を今に伝え、小樽らしい街並みを形成しています。
2009年 明けましておめでとうございます。
1月は小樽の町からスタートします。
札幌から車で1時間くらいの町で、函館と共に北海道を代表
する観光の町。
かつてニシン漁で栄えたこの街は、北海道経済の中心地で
もありました。
金融機関も小樽に集中し、一時は北の「ウオール街」と呼ば
れるほど栄華を極めました。
今も街のあちらこちらには、石造りの洋館や古い日本建築など歴史的な建造物が数多く
残されています。
また、歌人石川啄木、映画俳優石原裕次郎など文学者や映画スターに縁の深い土地として、さらに映画「Love Letter」などのロケ地としても人気を博しています。
1日散策するには手ごろな大きさの街、小樽。
本間泰蔵は、嘉永2年(1849)新潟県佐渡の仕立て屋
の三男として生まれ、
明治6年23歳で小樽に渡り呉服店の養子格の番頭
として働き、ニシン景気でわく増毛にしばしば行商で
来ていましたが、明治8年に増毛に移り住み呉服商
を始めました。
明治15年には「丸一本間」を名乗り
本業の呉服商の他に、荒物雑貨販売、呉服雑貨や漁獲物
の輸送のためだけではなく地域住民の需要を満たす海運業
当時この地第一の産業であったニシン漁にも手を拡げ
醸造業も始めるに至りました。
当時、日本酒の多くは本州からの移入酒で、決して安いもの
ではありませんでしたが、佐渡の知人に酒屋がいたことから知識
があった泰蔵は、当地での自家醸造を思い立ったとされています。