屯田兵の由来
「屯田兵」という制度は元々日本のものではありません。
「屯田」という名は中国からきたもので、漢の武帝が中国の西域地に
田卒という名の兵士を置き、その地に駐屯させ外敵を防ぐ「屯田」の
設置をしたことに始まります。
また、帝政ロシア時代のコザック兵は有名で、ロシア領内の辺地の守備
と地方開発にあたっていました。
特に、北海道に本格的に屯田兵を設置するにあたっては、
後々初代第7師団長となる永山武四郎がロシアでコザック兵の制度を調べ、
これを参考にして屯田兵拡大の具体策を立てています。
明治21年(1888年)6月にロシアより帰国した永山が、屯田兵本部長を兼ね
つつ北海道庁長官に就任すると、屯田兵の改革・増設計画が急速に進みました。
五稜郭戦争が終わり(明治2年5月11日)、国内が新政府に
よってほぼ統一されると、政府は蝦夷地を北海道と改称(明治2年8月15日)
して開拓使をおき、北海道の開拓に力をいれます。
実際に開拓にたずさわったのは、大別すれば一般移民、囚人、屯田兵と
なるのですが、なかでも屯田兵は「兵」という軍隊であり、平時こそ開墾に
従事しているものの、有事には銃を持って戦う、厳しい規律ある軍団でした。
一番の仮想敵国といえるのが、なしくずし的にシベリアに侵略し、
その反動として不凍港の確保など南下政策をとっていたロシアでした。
特に当時の樺太は日露雑居の地でしたが、ロシア人が日本人の村を襲い
略奪するなど、常に問題が絶えなかったと記録されています。
明治8年5月7日「千島樺太交換条約」によってロシアの脅威はやや薄らぎますが、
北方に対する牽制という意味でも屯田兵を北海道に配置する必要性があったわけです。
実際に屯田兵の暮らしは、軍事訓練と開墾の二本立てというべきものでした。
道道67号
北海道道67号八雲厚沢部線は、八雲町と厚沢部町を結ぶ道道。
(旧北海道道458号線「厚沢部八雲線」。始終点が逆であった。)。
八雲町側は落部川、厚沢部町側は安野呂川(厚沢部川支流)に沿って走る。
旧路線(458号時代)は、車線が狭く狭隘で大型車離合不能の砂利道であったが、現在は改良され線形は良好になった。しかし厚沢部町側の集落などのごく一部に1.5車線の区間が残る。また、旧道区間には、橋やトンネル等の遺構をはじめとし、当時をしのばせる道路標識も残る。
路線概要
起点:二海郡八雲町落部(=国道5号交点)
終点:檜山郡厚沢部町本町(=国道227号交点)
総延長:41.7km
主な橋梁・トンネル
山蕗トンネル(982m)=八雲町上の湯-厚沢部町字清水
さくらんぼトンネル(141m)=八雲町上の湯(近くの「さくらんぼ沢」に由来。)
鷲堀橋(安野呂川)=厚沢部町字滝野
厚雲隧道(廃道)(140.2m)=八雲町上の湯-厚沢部町字清水
歴史
1963年10月23日458号厚沢部八雲線として路線認定。
1971年10月21日路線名を八雲厚沢部線に変更、起終点を入れ替え。
1994年10月1日路線番号を67号に変更。
沿線
八雲町落部支所=八雲町落部
上の湯温泉=八雲町上の湯
俄虫温泉旅館=厚沢部町
厚沢部町役場=厚沢部町/終点付近北側
駅逓所 2
駅逓司(えきていし)とは、
慶応4年閏4月21日(明治元年・1868年6月11日)に設置された
交通通信担当官司。
後に駅逓寮(えきていりょう)・駅逓局(えきていきょく)
と改称され、後の逓信省の元になった。
政体書に基づいて会計官が設置された際にその下に設置された。
翌年民部省設置とともに移動され、事実上の「大蔵民部省」の
一翼を担う。
1871年3月1日 (旧暦)(新暦4月20日)、
駅逓司の前島密・杉浦譲らによって郵便制度が開始された。
同年民部省が大蔵省に統合されて8月に駅逓寮に昇格した。
(1877年1月の寮→局制の移行に伴い、駅逓局と改称)
郵便制度は1875年1月には為替制度(郵便為替)、
5月には貯金業務(郵便貯金)を加えてその重要性は高まって
いった。
なお、幕藩体制の助郷制度の廃止による交通制度の改革も
駅逓司の所管であった。
その一方で1874年に大蔵省から分離した内務省、
1881年に内務省から分離した農商務省に移管され、1885年に
駅逓局そのものが新設の逓信省として独立することになった。
駅逓所ももとは違う名称でした。
江戸時代に運上屋、後に会所という似たような制度が
あったが、それが明治時代に廃止されることになった際、
北海道では開拓のためにまだまだ必要とされ、継続されること
になるといういきさつがある。
そのために駅逓規則も整備されました。
最初は「本陣」と呼ばれ、続いて旅篭屋並、旅篭屋と
改称され、最終的に「駅逓」におさまった。
駅逓所を中心として集落が出来上がるというよりは、
駅逓所1棟だけポツンとあることも多いのが特徴。
駅逓開設ラッシュは、北海道の開拓とともに最盛期を迎えるが、
道内で開拓が進んでくると、今度は鉄道開通が各地で見られる
ようになり、次第に駅逓所はその役割を失い、閉鎖されていきます。
そして最終的に1948年つまり昭和時代前期に、駅逓制度は廃止
されることになりました。
駅逓所(えきていしょ)は、北海道にまだあまり人が住んでいない時代に、開拓のために
北海道にやってくる人や、旅をしている人に宿泊所として、または人や馬を貸し出しをして
いたところで、北海道独特の制度でした。さらに、郵便の仕事も取り扱っていました。
まだ北海道が蝦夷といわれていた江戸時代にも、通行屋(つうこうや)という制度がありました。
これは幕府が本州から連れてきた馬を用意して、その運営をまかせ、人やものを運ん
だり、馬を提供、宿泊施設として利用させたものです。ただ、それも明治維新によって
廃止されます。
しかし、北海道の開拓のために必要とされたので、開拓使が規則を整備して、重要な
道路に多くの駅逓所を設置しました。
運営には半官半民の請負制がとられ、その運営者は取扱人(とりあつかいにん)と
呼ばれました。もちろんこれはだれがやってもいいというものではなく、財産などの条件
がありましたが、土地、建物、馬があたえられるなどの特典もありましたので、希望者
も少なくなかったようです。
駅逓所は、開拓使が廃止されるまでには111箇所作られています。
それも、開拓が各地に広がっていくにしたがって増えていき、それから30年ほど
後には、全部で238駅、配置されていた馬の数は2835頭にもなりました。
代表的なものは、恵庭市にあった島松駅逓所です。
島松駅逓所は明治6年、札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い設置されたもので、
明治17年からは市内の島松に入植し、寒地稲作の父とうたわれた中山久蔵が経営に
あたっていました。
この駅逓所は、クラーク博士が帰国の途中に立ち寄り「青年よ大志をいだけ」という名言
の舞台となり、また、明治14年には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所ともなりました。
昭和59年国史跡に指定され、当時の駅逓の構造を残す建築物としては道内最古のも
のです。
交通の面からだけでなく、北海道開拓に大きな役割を果たしましたが、その性格上開拓
の完了、鉄道の開通などによって役目を終え廃止になっているものも多くあります。
1948年には制度自体が廃止になりました。
建物を復元または現存
奥行臼駅逓所 <別海町>
上藻別駅逓所 <紋別市>
島松駅逓所 <北広島市>
ソーケシュオマベツ駅逓所 <喜茂別町>
(北海道開拓の村に復元)
忠別太駅逓所 <旭川市>
本願寺駅逓所 <沼田町>
国道277号は、檜山郡江差町から二海郡八雲町に至る一般国道である。
八雲町国道229号交点~同町国道5号交点の間は、カーブが多く(線形不良)幅員も狭いうえに雲石峠を越える難所であり、現在も改良中である。
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概要
距離: 61.5km
起点:檜山郡江差町字柳崎町186番(=国道227号交点)
終点:二海郡八雲町立岩454番2(=国道5号交点)
ほぼ(沿岸部以外)全線で携帯電話の利用ができない。
歴史
1982年4月1日 一般国道277号(北海道檜山郡江差町~北海道山越郡八雲町)
1970年指定当初は、江差町から北檜山町(現・せたな町)まで重複し、今金町を経て長万部町国縫へ抜ける路線であった。1982年に北檜山 - 国縫間は国道230号の一部となり、主要道道八雲熊石線(道道17号線/当時)から昇格したルートに変わっている。
重複区間
檜山郡江差町柳崎町(起点)~二海郡八雲町熊石鮎川町:国道229号・国道276号
主な峠
雲石峠(標高427m)