2012/12/21 07:56:21
十勝国(とかちのくに) 4
北海道の道づくり第一号
寛政11年(1799)、東蝦夷地が幕府直轄となるが、近藤重蔵は、
その前年下見巡察として国後・択捉島を見分「大日本恵登呂府」の
標柱を建てた。
ロシアの南下政策を防ぐには
ネモロ(根室)・クナシリ(国後)・エトロフ(択捉)のアイヌ人の支配が必要だった。
江戸時代の交通手段は歩くか船である。
江戸から蝦夷のネモロ(根室)に行くには、津軽から松前に渡り、
後は永遠と東に向かって噴火湾・太平洋沿岸を見ながら歩き、
襟裳岬を回り十勝・厚岸・根室にいたるコースである。
この間で最大の難所が
幌泉(現えりも)から広尾間だった。
襟裳岬から百人浜を過ぎると庶野となり、猿留山道を経て目黒
(かつて目黒源吉という番屋の番人がいた)、ピタタヌンケプに達し
て十勝(広尾)に入っていくのだが、ピタタヌンケプから広尾間の
ルベシベツが難所であった。
この難所を近藤重蔵は自費で道の開削を命じた、これが北海道
の道づくりの始まりと言われる。
この道が現在の国道336号となる開削であるが、道とはいって
も歩ける程度のものであった。明治以降、陸路を歩いて十勝国を
目指す開拓者はこの一本道が全てであった。
国道336号については、あらためて書くがこの道が舗装化された
のは昭和35年である。それも普通の国道工事の10倍近く高くつく
金のかかる「黄金道路」といわれた。
(写真は、広尾入口の黄金道路と黄金道路海岸におけるサーフィン)
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