2012/12/22 08:31:05
十勝国(とかちのくに) 5
「高田屋嘉兵衛」
海路で根室に行くこともできた。
箱館の北洋漁業の基を築いた「高田屋嘉兵衛」が活躍したのは
この時代である。
『翌寛政12年(1800年)3月、手船辰悦丸(1500石積)に乗った
高田屋嘉兵衛は、図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草
その他雑貨日用品等を満載して「様似(さまに)」に入港した。
近藤重蔵はこれに乗って出帆し、国後島を経て択捉島の丹根萌
に上陸した。
ここで近藤は、高田屋嘉兵衛に命じて漁場17ヶ所を開かせ、択捉
島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜郡など7郷と
25村の名称を定めた。』
太平洋航路は、辰悦丸のような大型でなければ危険であった。
襟裳岬の百人浜は、この沖で遭難した人たちが打ち上げられた浜
の名称である。
海流が行き交うことと、襟裳は今でも風速40-50mの突風の岬である。
物資の定期便ができるのは金森合名会社が誕生する明治39年まで
待たなければならなかった。
この時の函館・釧路線が、ようやく十勝の広尾と大津に寄港として
航海された。この船で一般募集の開拓民は大津に上陸してきたので
ある。
(写真は、様似と襟裳岬)
PR