2010/08/23 00:36:47
大友亀太郎(おおどもかめたろう)3
1866年に箱館奉行所へ石狩原野の開拓など蝦夷地開墾に
ついてまとめた計画書を提出。
これらの実績が認められ「蝦夷地開拓掛」に任命された亀太郎は
1866年4月に同行者を連れて後の石狩国札幌郡(現在の札幌市東区)へと渡った。
当時まだ原生林で鬱蒼としていた場所へ移った亀太郎は
フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を、官による援助や保護のもとに
農民を入植させた農場を指す「御手作場(おてさくば)」として定め、道路や橋など
のインフラストラクチャーを建設する工事に着手した。
当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われたこの工事の中には、
およそ4キロメートルに渡る用排水路の建設計画が含まれていた。
これが、後に創成川の土台となる「大友堀」の前身である。
亀太郎は現在の石狩陸橋の北東から当時の札幌村役場の裏側へ水路を造り、
伏古川まで通じるよう指導した。
周囲から「百万両の大工事」とも呼ばれたこの工事に投入された資本には、
亀太郎が神奈川県で二宮尊徳に学んだ報徳仕法が取り入れられており、北海道に
おける産業の育成も目的の一つであった。
また、未開拓の土地に用排水路が設けられたことで、札幌における街づくりの起点を作った。
現在もこの大友堀は、創成川の一部分として残されている。
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