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畔柳二美(くろやなぎふみ)

1912114-1965113日 小説家。
千歳市に生まれ、1928年北海高等女学校(現札幌大谷高等学校)卒業。

 

 

CIMG0502.JPG 畔柳二美の「姉妹」について

 作者畔柳二美(旧姓遠藤)は1912年(明治45年)114日、
 北海道千歳郡千歳村(現在の千歳市字水明郷)の王子製紙株式会社
 千歳第一発電所の社宅に、発電所技師であった父遠藤彌次郎、
 母サキの次女として生まれている。姉八重、弟彌弘、満、實の五人姉弟
                  であった。

 1918年(大正7年)発電所内の私立小学校に入学したが、一年程で
発電所の勤務が北海道虻田郡狩太村(現在のニセコ町)に移って、
狩太尋常小学校に転校し1924年(大正13年)三月卒業、同年四月に
札幌市の北海高等女学校に入学している。
そして四年制だった同校を19283月に満16歳で卒業したのであるが、
「姉妹」はこの頃の彼女自身の自伝的要素が色濃く滲んだ世界で構成されている。
 
女学校在学中から文学に深く親しんでいた彼女は、
佐多稲子(当時は窪川稲子)の「キャラメル工場から」に深く感銘を受けファンレター
を送ったのが切っ掛けとなって、文通が始まり、日本プロレタリア文化連盟(コップ)
発行の「働く婦人」を読むように勧められている。
1932年(昭和7年)彼女が20歳の頃であった。

 遠藤二美は1933年(昭和8年)3月にマリー・ルイズ美容学校に通うため
上京して東京生活が始まり、窪川稲子にも面識を得るようになった。

しばらく付合ううちに窪川稲子は彼女の人柄に好感を持って、作家仲間の結婚相手
にと考えたこともあったようだが、彼女には1935年(昭和10年)頃に知り合った
東京帝国大学法科学生の畔柳貞造がいて、やがて1936年(昭和11年)に結婚して
畔柳姓になっている。

 大学を卒業した夫の勤め先が阪神電鉄であったから、
1937
年(昭和12年)4月からの新婚生活は関西で始まっている。
当初は尼崎市出屋敷に新居を構えたが翌19385月には兵庫県武庫郡瓦木村
(現在の西宮市甲子園口)に移り、敗戦後の194811月に戦争未亡人となって
再び上京するまでこの地に住んだ。

 最愛の夫畔柳貞造との幸せな夫婦生活は、しかし僅か数年で不条理な時代の
流れによって断ち切られた。
1941
年(昭和16年)128日、米国、英国相手の太平洋戦争が始められて間もなく
1942年(昭和17年)4月に、貞造は赤紙の召集令状を受けて陸軍に入隊し、
やがて中国大陸からフィリッピンに転戦して1945年(昭和20年)1月にレイテ島にて
戦死を遂げるのであるが、その公報が妻の二美に届くのはようやく
1948
年(昭和23年)3月になってからであった。

 ささやかながら幸福な庶民の家庭生活や将来への人生設計が、赤紙一枚によって
無惨に奪い去られた戦争未亡人の憤怒、絶望、悲哀は、後々に
畔柳二美の好短篇小説「限りなき困惑」「川音」に結実することになる。
ちなみにこの二作品は1951年(昭和26年)の芥川賞候補にのぼっている。

 フィリッピン派遣軍に配属していた夫貞造の生存が絶望的となった
1946年(昭和21年)秋頃より、文学にたいする情熱をかきたてることで
人生を遣り直す意慾を持ち始めたのでもあろうか、佐多稲子との文通を再開していた
畔柳二美は小説の習作を送り指導を仰ぐようになった。

 1948年(昭和23年)夫の戦死公報を受取ってしばらく経った4月頃、
先に送ってあった短篇小説「夫婦とは」が佐多稲子のかなり高い評価を受けて、
やがてその推薦のもとに、再刊が予定されたいた『女人芸術』への掲載が決った。
そして無事の帰還を待った西宮の留守家屋に住まういわれもなくなったので、
佐多稲子の熱心な勧誘もあって194811月に再上京して武蔵野市吉祥寺に移ったのであった。

 1949年(昭和24年)1月発行の『女人芸術』に掲載された処女作「夫婦とは」は、
女性には珍しい鋭利な筆法で民主主義新憲法下での夫婦生活を諷刺した好短篇で、
当時朝日新聞の大阪本社学芸部に在籍していた澤野久雄が、署名入りの好意的な
書評を夕刊囲み欄に寄せている。

 満年齢37歳はやや晩生ではあったけれど、好調に文壇へのデビューを果せた畔柳二美
は、「一年に一作発表の心細い作家稼業」と自嘲していたが、
1950年(昭和25年)2月『人間』に「銀夫妻の歌」、1951年(昭和26年)7月同じく『人間』に
「限りなき困惑」、同年8月『文芸』に「川音」などを発表している。
これら一連の作品は、少女時代より正義感が強く世の中の不条理や矛盾に敏感に反応し
てきた畔柳の、いわば「抵抗の文学」ともいえる作品群であった。

 1953年(昭和28年)になって、親しく交際していた佐々木基一から、評論ばかりの堅苦しい
『近代文学』に、女流作家の小説を載せて柔らかくしたいので書いてみないかとの誘いを受け、
7月号に「姉妹」を発表している。
気楽な気持で書いたというこの作品が好評だったので続篇を書くように要請され、
翌年の2月号まで飛び飛びではあるが計四回の連載作品となった。
連載中から出版社の編集者の目にも留まり、佐多稲子からの口添えもあって
1954
年(昭和29年)6月に講談社から単行本として出版された。

CIMG0503.JPG 「姉妹」は前にも述べたように、畔柳二美の自伝的色彩の
 濃い世界で構成されている。
 北海道の山の中の発電所に育った二人の女学生、姉圭子
 と妹俊子を中心にして、大正末期から昭和の初めにかけて
 の世相や生活が、生き生きとした弾むような文章で綴られている。
 そして快活で鋭い感受性を持ち、人生や社会の不条理や矛盾に
                  精一杯反撥抵抗する妹俊子の性格と行動は、作者畔柳その人
                  を髣髴とさせるのだが、読者は思わず主人公を愛さずには居れなくなるだろう。
 そしてこの処女出版の長篇小説「姉妹」は、昭和29年度の毎日出版文化賞を受賞した。
作者自身は全く思い掛けないことだったようで、受賞の知らせを伝えられたとき、
「それは出版社が貰う賞なんでしょう」と他人事のような顔をしていたという。

 「姉妹」発売後の早い時期から映画化の話が持ち上がり、
1955年(昭和30年)4月に、独立映画制作中央映画配給により、
家城巳代治監督、新藤兼人・家城巳代治脚本、野添ひとみ・中原ひとみ
主演の映画「姉妹」が、全国の松竹系映画館で封切られている。

 この時期を境目として畔柳二美は所謂売れる作家の仲間入りをしたようで、
編集者の註文が殺到して経済的にも余裕が生じ、1956年(昭和31年)7月中野区野方に
手頃な新居を建てることも出来た。
しかし仕事を消化するのに夜昼を取り違える生活が続くようになり、いつしか執筆の無理が
積もりに積もっていたのだったか、晩年のほぼ二年間は体の不調をしきりに訴えるようになっていて、
1964
年(昭和39年)9月に東京大学附属病院木本外科に入院手術を受けたのだが、
すでに手遅れの腹部癌で、1965年(昭和40年)113日に野方の自宅で亡くなった。
明日が53歳の誕生日という前日のことであった。

 畔柳二美は「姉妹」「こぶしの花の咲く頃」「風と雲と」「大阪の風」「白い道」
「ポプラ並木は何を見た」ほかの長篇小説、「山の子供」「深夜の小駅」
「青いりんごのふるさと」ほかの短篇小説集、
そして随筆集一冊、外国小説の翻訳書一冊の、合計十八冊の著書を残している。

 「姉妹」やその続篇「こぶしの花の咲く頃」、ならびに「青いりんごのふるさと」や
「ポプラ並木は何を見た」などは、作者が生まれて少女時代を過ごした大正から昭和初期の頃の、
北海道の自然や人々の生活が舞台になっている、いわば「姉妹」の延長線上の作品群といえる。

それなりに社会や人生への鋭い観察や批判も含まれ、成長期の少年少女たちの撥剌とした
生態が爽やかな印象を与えてくれる。
けれども文学少女の頃より、ゴーリキーやチェーホフ、あるいはドストエフスキーやゴーゴリの
ロシア文学や、我が国のプロレタリア文学に親しんだ畔柳二美が、やはり本当に書きたかったの
は佐多稲子が評した「『限りなき困惑』級の作品」だったように信ずる。
「限りなき困惑」や「川音」を佐々木基一は戦争未亡人小説と名付けているが、
人々の生活や幸福を破滅させる邪悪な政治とか戦争にたいして異議を唱える「抵抗の文学」を、
畔柳二美にはもっともっと書き進めてもらいたかった。
けれどもその余裕を得られることもなく、余りにも早過ぎる死によって可能性は永久に断ち切られ
ることになったのである。
     (戦後の出発と女性文学 第
11巻 姉妹 畔柳二美 二〇〇三年5月発刊)



 

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北海道内のおもな義経伝説 1001602ag2130015008_1.jpg

 

平取町  義経神社(義経資料館)
北海道の中で、義経伝説が一番多いまち・平取町。義経が穀物の栽培法を伝えた事などから、平取に住むアイヌの人達は義経を "判官カムイ"と尊称し、敬った。
平取町の義経公園には、笹りんどうの紋入りの陣太鼓、太刀や鎧、 「義経公北之方傅記」、 錦絵などさまざまな義経の資料が収められている。


y2.jpg伝説の里の憩いの場。義経公園 (平取町本町)

昭和11(1936)に公園化が実現、昭和62年に歩道、車道の整備、 樹木の植栽、弁慶の池を造成するなど平成元年完成、 四季を通して町民の憩いの公園として親しまれています。

義経伝説にちなんだ弁慶池、弁慶橋、義経神社、義経資料館などがあります。 また、公園内には"北海道の銘木"樹齢300年以上の栗の木、 中心を流れるオバウシナイ川の清流など豊かな自然がいっぱいです。

 

yoshi.jpg義経のことならなんでもわかる。義経資料館 (平取町、義経公園内)

義経一行は、青森から北海道の白神(福島町)に渡り、 西海岸を北上して羊蹄山麓を廻り平取に入ったそうです。 平取に住むアイヌの人たちを外夷から守ったことから "ハンガンカムイ"と尊称されていたということです。 その後は、新しく部下に加わった若者や藤原氏の残党とともに 大陸に渡ったとも伝えられています。

平取町の義経公園には、笹りんどうの紋入りの陣太鼓、太刀や鎧、 「義経公北之方傅記」、 錦絵などさまざまな義経の資料が収められています。

 

ご神体の義経をまつる義経神社 (平取町、義経公園)

寛政10(1798)近藤重蔵が東蝦夷地を探検した時、 平取に住むアイヌの人たちが、 義経を"ハンガンカムイ"と尊敬をこめて呼んでいたことを 知りました。

そこで、当時江戸神田で大仏などを作っていた橋善啓に、 義経公の像を作らせて平取に寄進安置したと記録に残っています。

木像は、高さ1尺ほどで、 ご神体とご神台の裏面にそれぞれの名前が刻まれています。 また、義経神社の紋章は笹りんどうですが、 これにちなんで平取町の町章にも笹りんどうが デザイン化されています。

 

祭りのハイライトを飾る神輿と武者行列 (平取町)

昭和3年義経神社に寄進されたもの。屋根の頂上には鳳凰が置かれるなど豪華な装飾が施されています。 毎年815日の義経神社大祭には、武者行列の中心となって担ぎ出されます。






荻伏牧場 5

 

1980年代後半になると荻伏牧場は年間の生産者成績で毎年トップ10に入るほど成功し、共同馬主クラブを運営するなどして大いに繁栄した。この頃の活躍馬としてカリブソングがいる。
1990年代になってダイイチルビーの活躍、天皇賞連覇のスーパークリークに15億円のシンジケートが組まれる等、次々と新種牡馬を導入し拡大路線がとられたが、ことごとく失敗に終わる。
この頃にはKBS京都の競馬中継内で荻伏牧場のテレビコマーシャルも放映されていた。

一時期は年間100頭を越えた生産馬も、1990年代半ばから経営規模を縮小した。
運営する一口馬主クラブ「荻伏牧場レーシングクラブ」の「オギ」冠号のクラブ馬が走らず低迷し、出資会員への賞金配当が遅れたり、出資馬の突然の取消しなどトラブルが続き、ついには暴力団との関係を指摘する声まであがり、牧場と関連会社は倒産した。
華麗なる一族は他の牧場へ散っていき、牧場やクラブの経営母体も変わった。1995年の重賞を勝ったオギティファニーは最後の活躍馬となる。

「荻伏牧場レーシングクラブ」は、のちに「荻伏レーシング・クラブ」と改称した。現在は「ブルーマネジメント」と更に変更になっている。


荻伏牧場オーナーズ
荻伏牧場レーシング・クラブ
口  数 500
入 会 金 25,000円(税込み)
一般会費 月3,150円(税込み)
維持会費 月1,200円/口(税込み)



荻伏牧場 4f571dccb.jpeg

 

日高種畜牧場が絶頂を謳歌していた1960年(昭和35年)、斎藤卯助が荻伏駅前で営んでいた旅館に、斎藤の旧友の武田文吾がやってきた。

既に武田は無敗の二冠馬コダマの調教師として名を馳せていた。
武田は次の名馬の卵を探して斎藤のもとを訪れたのである。
どこかにいい馬はいないかと問われた斎藤は、浦河の小さな牧場に案内して生まれたばかりの仔馬に引き合わせた。後のシンザンである。

斎藤卯助は名種牡馬ネヴァービートを輸入した人物としても知られ、後に日高軽種馬農協の組合長や中央競馬の運営審議委員を歴任し、日高の馬産の発展に尽力して「日高のゴッドファーザー」と呼ばれた。

その斎藤卯助が場長を務める荻伏牧場は、はじめはシンザンの育成牧場として名を知られるようになった。広い敷地を持つ荻伏牧場で育成されて活躍した競走馬には、シンザンのほかマックスビューティ、シャダイカグラ、スーパークリーク、ウイニングチケットなどを挙げることができる。

しかし当時5頭ほどの繁殖牝馬しかもたなかった荻伏牧場の名を世に知らしめたのは、40年以上にわたって活躍馬を出し続けている華麗なる一族によるところが大である。

このほか、荻伏牧場の主な生産馬として、オヘクスを勝ったノアノハコブネや日本ダービー2着のスズマッハが挙げられる。この2頭は、斎藤卯助の息子斎藤隆が牧場長となってからの生産馬である。

 




荻伏牧場 3sekishinsha.jpg

 

1900年代初頭、日露戦争の教訓を糧に政府は産馬育成の強化をはじめ、1907年(明治40年)6月、赤心社が拓いた西舎に内閣日高種畜牧場を設置して、アングロアラブ種牡馬アラデュが導入した。
翌年にはサラブレッド種牡馬ブレアーモアーが導入されている。日高種畜牧場の転機になったのは、1937年(昭和12年)にアガ・カーンの生産馬であるセフトが種牡馬として輸入された時である。

戦前最後の輸入種牡馬セフトは、種牡馬としての絶頂期を太平洋戦争で棒に振ったが、それでも「幻の馬」トキミノルや二冠馬のボストニアン、スウイイスーらの父となって空前の成功を収め、太平洋戦争が終わると5年連続の日本のリーディングサイアーになった。


その後も1958年(昭和33年)から3年連続でライジングフレームがリーディングサイアーになり、日本のサラブレッド生産地図は、それまでの千葉・東北中心から日高中心に塗り替えられた。
なお日高種畜牧場は変遷を経て現在はJRA育成牧場となっている。




荻伏牧場 21_4_5_sawa.jpg

 

北海道開拓使は、10年間で開墾した土地は無償で払い下げるという条件で、浦河郡幌別川流域の西舎(にしちゃ)村(現在の浦河町西部)への入植を許可した。

彼らはキリスト教的理想郷の建設を目指し、新大陸北海道へ渡った。

移民船は暴風に遭遇して千島まで漂流し、腸チフスの流行、幌別川の氾濫によって初期の入植は困難を極めた。

1882年(明治15年)4月に、福澤諭吉の弟子であった沢茂吉を指導者として神戸港を出た80人ほどの赤心社移民団は、25日の航海の後、5月に元浦川(現在の浦河町荻伏)に上陸した。
彼らは1886年(明治19)に在来種の種馬を購入して馬産を開始すると、アラブ、トロッター、ベルシュロンなどの種牡馬を入れて品種改良に取り組んだ。

大変な艱難の末に彼らの開拓事業は軌道に乗り、赤心社は北海道開拓会社として歴史的な成功を収めた。

 




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荻伏牧場(おぎふしぼくじょう)は、浦河郡浦河町に所在する競走馬の生産牧場。

戦国時代の水軍で名高い九鬼嘉隆を祖とする一族が代々藩主を務めた三田藩(現在の神戸)には、開国によってアメリカ人プロテスタント宣教師が来日した。

氏族の特権を失い困窮した三田藩士は、西洋文明を入れて近代化に取り組むとともにキリスト教に改宗し、馬術を得意とした鈴木清を中心として、1880年(明治13年)、北海道開拓を目的とした赤心社を結社した。

 




日高山脈襟裳国定公園qnp_4_map_b.jpg

日高山脈は、
北海道の中央部を南北に走る非火山性の
大山脈である。
幌尻(ほろしり)岳(2,052m)を最高峰とし、稜線には
ペテガリ岳(1,736m)など、端正な三角形の山々が連なる。


 各所
に見事なカールを擁し、特に幌尻岳の七つ沼カールは
お花畑に飾られ、山上の楽園といわれる。
山頂部は豊かな高山植物に、中腹以下は深い森林に覆われ、
ヒグマやエゾシカなどの大型哺乳類が多くナキウサギも生息している。

日高山脈が海に落ちるところが襟裳岬。hidaka.gif
海食崖や岩礁の連なりが豪壮な景観をつくっている。
アポイ岳(811m)は蛇紋岩山地で、希少植物の宝庫。



天馬街道spot_kankou_tenmakaidou.jpg

 約27年の歳月をかけて平成99月、
広尾町豊似から浦河町上杵臼までの国道236号、
通称「天馬街道」が開通しました。

一般公募で、道産子(十勝)とサラブレット(浦河町)が出会いとともに、
天高く舞う姿を想像して「天馬街道」という名前がつけられました。

何本かのトンネル、大橋でつながっている天馬街道には、
日高山脈を貫く野塚トンネルがあり、
延長4,232mと道内一長いトンネルです。

広尾町と日高地方を結ぶ山ルートとして、秋には紅葉が見頃となります。




日高山脈襟裳国定公園title_03.jpg

 

 

 

広尾川からえりも町までの黄金道路(国道336号)周辺、
広尾岳から清水町までの山岳部が日高山脈襟裳国定公園に指定されています。

日高山脈は国内でも難度の高い登山のポイントとして登山者に利用されています。
日高山脈固有の植物が多く、花が咲く春や夏には登山者の目を楽しませてくれます。

 「日高山脈襟裳国定公園」は、
北海道の背骨といわれる雄大な日高山脈の山並み、広尾町から襟裳岬にかけての
海蝕崖の続く海岸線一帯、そして花の名山として知られるアポイ岳とその周辺の
3つの地区で構成される自然公園です。

 北海道の中央南部を南北約150kmにわたって走る日高山脈は、
「幌尻岳」を最高峰とする海抜1,500~2,000m級の山々が連なり、
氷河の痕跡「カール」、稜線の鋭く切れ込んだ「ナイフリッジ」などの地形がその特徴です。

 襟裳岬は、岬の先端から1.5kmにも及ぶ岩礁が連続する姿と、
非常に風が強いことで知られていますが、一方で、岩礁の上にゼニガタアザラシの
のんびりとした姿が観察でき、穏やかな表情を楽しむこともできます。
 アポイ岳は、標高わずか810mという低山でありながら、ヒダカソウをはじめ固有の
高山植物が数多く見られることで知られています。

 

 

 



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
性別:
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