湧別平野(ゆうべつへいや)2
北海道内においても小雨地域で
冬季の降雪量も少なく快適な生活地域となっています。
"明治30年に屯田兵の入植が始まり、
明治43年鉄道が開通し、開拓に拍車をかかり
耕地は増加しつづけました。
開拓が上流域に広がったことを受けて、農地面積拡大のための
森林伐採が行われました。
木材は湧別川を使って河口まで流送し、木材積取船に搭載され
運ばれたといわれています。
今から約1万2千年から2万年前の旧石器時代、狩猟を行う人々は
湧別川の源流に近い白滝村に露頭する黒曜石から作られた石器を手に
マンモスやナウマン象を追って環日本海を巡っていたと考えられています。
黒曜石とは、真っ黒なガラス質の石で、「湧別技法」と呼ばれる手法により
当時としては最高級の石器に作り上げられました。
湧別川流域に初めて和人が入植・定住したのは1790年(寛政2年)と
言われ人々はまず豊かな漁業資源をめあてに、河口付近に漁番屋を置き
その後、内陸の平野部へと鍬を入れて行くことになります。
湧別川の名前の由来はアイヌ語のユベ[鮫]からという説、
ユベ・オツ[蝶鮫・多い]、または、イベ・オツ・イ[魚・豊富・所]等の表現から
来ているとする説があり、水産資源が豊富であったことを窺い知ることができます。
当時の湧別川流域は鬱蒼とした原生で覆われていたため
人々はまず木を伐りだして開墾し、その肥沃な土地に畑を広げていきました。
つまり、開拓期の湧別川流域は、漁業と、農業と、農業を行うために
副次的に生まれた林業という3つの基幹産業が原動力となって発展し
はじめることになりました。
和人の入植がはじまった当時の湧別川河口はサケやマスはもちろんのこと
イトウ、キュウリ、チカ、ボラ、ソイ、ホタテなどの豊かな漁場でした。
しかし、消費地からあまりに遠い辺境の漁場にあって、どれほどの大漁に恵まれても
漁獲物の大半は乾燥あるいは塩蔵品に加工され、函館や小樽の大手商業資本に
安値で引き取られたといわれています。
明治時代に入り、12年に紋別戸長役場が開かれました。
その頃は漁業従事者が多く、農業移民が湧別に入ったのは3年後の明治15年になります。
その後、明治26年に湧別に初めて4県の団体が移民し、日清戦争で遅れた屯田兵も
明治30年に入って開拓を再開、上流域へと進んでいきました。
その頃の湧別川は、大雨のたびに平野部一帯を水浸しにし、洪水の前と後では流れ
の筋を変えることもたびたびでした。
このような土地に、移り住んだ人々は、どんな作物をどの時期に作付けすべきかの
手がかりすらなく、故郷で行っていた農法を頼りに試行錯誤をくりかえしました。
しかし、北国特有の低温に加え、水害、風害、霜害、冷害などがくりかえし襲いかかり、
一年の苦労が水泡に帰すことも少なくありませんでした。
そういった中、1898年(明治31年)、全道的な大豪雨が発生し、湧別川も大洪水に
見舞われました。
川の増水は実に平常水位を4.6mも超えたと言われ、人々は命からがら高台へ避難し、
収穫目前の作物の流失を茫然自失の体で見送ったと記録に残っています。
この大洪水を契機に治水工事を求める声が沸き起こり、湧別川の治水計画が策定される
こととなりました。