2013/03/04 12:29:15
アイヌ民族の蜂起 28
シャクシャインの戦い(2)
寛文9年(1669年)6月の異変はシラオイ(白老)だけのことではなかった。
蝦夷のアイヌが蜂起したのである。
東蝦夷地は幌別から白糠までの間で11隻、
西蝦夷地は歌棄(寿都)から祝津(小樽)のあいだ、および増毛で8隻の
船が襲撃され、舟子・鷹待など東蝦夷地で120人、西蝦夷地では153人、
合計273人の和人が殺された。
その内松前藩以外もの者は198人であった。
いまだかってない、全道的なアイヌ民族の大蜂起であった。
シャクシャインは大兵を松前に向けて進撃させた。
ただし、内浦湾東部のアイコウインは動かず、石狩は増毛を除いて中立を守った。
松前にこの報が届いた時、住民はあわてて津軽・南部に逃げようとした。
和人の動揺がいかに大きかったかを物語る。
藩は脱出を禁じ、兵をクンムイ(国縫)に派遣した。国縫には藩の砂金掘りの
要害があったのでこれを守備させたのである。
この国縫が戦場の場となるのである。
江戸に報告をし、亀田・熊石方面にも兵を回した。
これに対して、江戸幕府も動いたのでいよいよ大事ととなった。
(写真は、静内にあるシャクシャインの像)
シャクシャインの戦い(2)
寛文9年(1669年)6月の異変はシラオイ(白老)だけのことではなかった。
蝦夷のアイヌが蜂起したのである。
東蝦夷地は幌別から白糠までの間で11隻、
西蝦夷地は歌棄(寿都)から祝津(小樽)のあいだ、および増毛で8隻の
船が襲撃され、舟子・鷹待など東蝦夷地で120人、西蝦夷地では153人、
合計273人の和人が殺された。
その内松前藩以外もの者は198人であった。
いまだかってない、全道的なアイヌ民族の大蜂起であった。
シャクシャインは大兵を松前に向けて進撃させた。
ただし、内浦湾東部のアイコウインは動かず、石狩は増毛を除いて中立を守った。
松前にこの報が届いた時、住民はあわてて津軽・南部に逃げようとした。
和人の動揺がいかに大きかったかを物語る。
藩は脱出を禁じ、兵をクンムイ(国縫)に派遣した。国縫には藩の砂金掘りの
要害があったのでこれを守備させたのである。
この国縫が戦場の場となるのである。
江戸に報告をし、亀田・熊石方面にも兵を回した。
これに対して、江戸幕府も動いたのでいよいよ大事ととなった。
(写真は、静内にあるシャクシャインの像)
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