2013/02/10 09:19:59
アイヌ民族の蜂起 6
嘉吉三年(1443)
津軽は安東一族にとって、鎌倉以来二百年余の父祖の地であった。
十三湊(とさみなと)は岩木川の下流十三潟口に位する湊で、津軽の産物を
はじめ蝦夷地の産物もここに集まるところから、諸国の船もここに来て交易した。
そのため安東氏は「関東御免」の交易船を、同じ得宗領である若狭の小浜湊
との間に運航させ、京都と結んで文物を交流し、その勢力を陸奥湾沿岸から
蝦夷島沿岸にまで及ぼしたのである。
南北朝時代には、東の南部氏と奥羽地方を二分する勢力であったが、
十三湊に移って4代目の盛季の時に至り、南部義政との戦いに破れ、ついに
安東一族は家臣とともに十三湊を捨てて蝦夷島に逃れたのである。
時は、嘉吉三年(1443)室町幕府8代将軍足利義政、銀閣に代表される
「東山文化」のころである。
(写真は、北海道最南端白神岬付近の国道228号・津軽と蝦夷最短の場所)
嘉吉三年(1443)
津軽は安東一族にとって、鎌倉以来二百年余の父祖の地であった。
十三湊(とさみなと)は岩木川の下流十三潟口に位する湊で、津軽の産物を
はじめ蝦夷地の産物もここに集まるところから、諸国の船もここに来て交易した。
そのため安東氏は「関東御免」の交易船を、同じ得宗領である若狭の小浜湊
との間に運航させ、京都と結んで文物を交流し、その勢力を陸奥湾沿岸から
蝦夷島沿岸にまで及ぼしたのである。
南北朝時代には、東の南部氏と奥羽地方を二分する勢力であったが、
十三湊に移って4代目の盛季の時に至り、南部義政との戦いに破れ、ついに
安東一族は家臣とともに十三湊を捨てて蝦夷島に逃れたのである。
時は、嘉吉三年(1443)室町幕府8代将軍足利義政、銀閣に代表される
「東山文化」のころである。
(写真は、北海道最南端白神岬付近の国道228号・津軽と蝦夷最短の場所)
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