津別町
津別町(つべつちょう)は、北海道網走支庁管内の網走郡にある町。
町名の由来は、アイヌ語の「トゥペッ」から。
意味は「二つの川」あるいは「山の出ばなを通っている川」。
と山地によって形成され総面積の86%を国・道有林がしめ
る「愛林の街」です。
は、 眼下に、中島が浮かぶ屈斜路湖の全貌、その向こうに
硫黄山、 摩周岳、そして知床連山の稜線さらにその奥手に
は、オホーツク 海の青、後ろに振り返ると雄阿寒岳、雌阿寒
岳の山々、360度をあたかも鳥の目で大自然を 展望できるビューポイントです。
清里町
4,708人(人口、2009年3月31日)
町名の由来は「清らかな里」の意。
また小清水村(現小清水町)・斜里町から分村した経緯を歴史に残す
ため両町村から一文字ずつもらったという意もある。
知床半島のつけ根に位置し、EUを凌駕するわが国有数の大規模畑作
農業地帯として平らな畑が広がり、自然がいっぱいの緑豊かな町。
日本百名山にかぞえられる秀峰「斜里岳」や神秘の湖「摩周湖」、
「さくらの滝」などの大自然に囲まれ、福祉と環境に配慮した魅力ある
豊かなまちです。
これらの景観は、平成3年度に農林水産省が実施した全国農村景観百選
(特選20選)に選ばれています。
また、平成14年度には北海道主催の北のまちづくり賞で知事賞、さらに平成15年度には全国花のまちづくり大賞(農林水産大臣賞)、平成18年度に過疎地域自立優良事例表彰で総務大臣賞、平成19年度に平成19年緑化推進運動功労者内閣総理大臣表彰に輝くなど、大自然をバックグランドとした地域づくりが全町民参加で展開されています。(花と緑と交流のまちづくり)
斜里郡
写真は「斜里岳」
斜里郡(しゃりぐん)は、北海道網走支庁に所属する郡。
斜里町(しゃりちょう)清里町(きよさとちょう)小清水町(こしみずちょう)の
3町を含んでいる。人口は約23,000人(2009年3月)
江戸時代の斜里郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって
シャリ場所が開かれていた。
寛政8年(1797)には斜里神社が創建されている。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの
脅威に備え、文化4年(1807年)斜里郡域は天領とされ津軽藩
が出張陣屋を築き警固をおこなった。
この時、シャリで越冬時に多数犠牲者を出した津軽藩士殉難事件
がおこっている。
津軽藩士殉難事件とは
1807年、幕府より斜里地方の沿岸防衛を命ぜられた津軽藩の藩士100余名のうち、越冬中の厳しい寒さと栄養不良による浮腫病により72名が死亡したもの。
斜里でも弘前でも殆ど知られなかったが、藩士斎藤勝利の残した「松前詰合日記」が1954年に見つかり、はじめて殉難が明らかになった。1973年に津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、慰霊祭が毎年行われている。1983年には「弘前ねぷた」が斜里町に伝授された。
文政4年(1821年)には一旦松前藩領に復したものの、安政2年(1855年)再び天領となり今度は会津藩が警固をおこなった。
1869年8月15日に斜里郡が置かれる。北海道北見国に含まれた。
小清水町
5,557人(人口、2009年3月31日)
小清水町(こしみずちょう)は、網走支庁管内の斜里郡にある町。
町名の由来は、アイヌ語「ポン・ヤ・ワン・ペッ」を「ポン・ヤン・ペッ」
(小さい清水の川)と聞き間違い、誤訳されたことによる。
オホーツク海沿いの越水原生花園と濤沸湖は網走国定公園に、
南部の町境にある藻琴山は阿寒国立公園に指定されている。
北をオホーツク海に面し大空町、網走市、斜里町、清里町および
弟子屈町に接している。
内陸部はビート、小麦、ジャガイモなどを中心とする畑作が行われ、
酪農の町でもある。
JR浜小清水駅直結の「ハイランド小清水725」と徒歩3分の「フレトイ展望台」からは、知床連山やオホーツク海など道東の雄大な景色が楽しめる。
さらに国道244号沿いの、オホーツク海と濤沸湖に挟まれた約8キロメートルの細長い砂丘が「小清水原生花園」。クロユリの神秘的な花がオホーツクの短い夏の到来を告げると、濤沸湖の湖畔にセンダイハギ、ヒオウギアヤメの群生が広がり、7月にはエゾスカシユリやハマナスが咲きそろう。
斜里町(しゃりちょう)
12,846人(人口、2009年3月31日)
町名の由来はアイヌ語のサルまたはシャルより転化したもので、
いずれも「アシの生えているところ」の意味。
斜里町(しゃりちょう)は、網走支庁管内の斜里郡にある町。
知床は2005年7月17日にユネスコの世界自然遺産に登録されました。
斜里町は、これまで「みどりと人間の調和を求めて」を基本理念として、
しれとこ100平方メートルをはじめとする様々な環境施策を進めてきました。
現在の斜里に人が住み始めたのはおよそ3万年前。
先土器時代と呼ばれ、石器の形式が大陸北部のものと共通点が多く、
北ヨーロッパからシベリアを経て、北海道北東部にわたる北アジア文化圏の一端を形成していました。
奈良朝から平安朝の頃、大陸方面からオホーツク海沿岸を南下してきた海洋民族がおりましたが、この民族の文化は従来の北海道には見られなかった系統のものでオホーツク文化と称せられています。
宗谷に上陸した彼らはオホーツク海沿岸を東進し、北千島に至る過程で斜里町にも多くの遺跡を残しています。
アイヌ文化期の初期には、まだいかなる民族の支配も受けず、大陸との交易は宗谷、樺太を通して行われていました。
明治5年、斜里郡の村名が定められ、ヤンベツ村、シャリ村、シマトカリ村など5ヵ村が誕生しました。
明治10年には斜里浦役場が設置され、斜里町農業開拓の先駆者と言われている鈴木養太が入地した斜里村赤上1番地で初めてこの地に開拓の鍬を打ち下ろしました。常呂町
4,889人(2006年2月28日)
常呂町(ところちょう)は、網走支庁管内の常呂郡に存在した町。
2006年に北見市、留辺蕊町、端野町と新設合併し、北見市の
一部となった(住所表記は北見市常呂町)。
合併後も自治区が設けられ、一定の自治が認められる形となっている。
町名の由来は、アイヌ語の「トー・コロ」(沼のある所)から。
常呂町は北海道東部に位置し、流氷の訪れるオホーツク海に
面しています。
国内第3位の大きさを誇るサロマ湖と、オホーツク海の豊かな恵みを
受けた農業と漁業を主産業とした町です。
「ホタテと遺跡とカーリングの町」をキャッチフレーズに町づくりを進めています。
カーリングの町として知られ、冬季オリンピックに出場したカーリング選手には常呂町出身者が多い。
美幌町
22,193人(人口、2009年3月31日)
町名の由来は、アイヌ語の「ピポロ」(水多く、大いなる所)から。
北海道の東部・網走支庁管内のほぼ中央部、網走市から30km程度
内陸に位置しており、農業を基幹産業とした町。
美幌町の始まりは、明治20年(1887年)7月、
美幌外5カ村戸長役場の設置に始まります。
大正元年(1912年池田~網走間の鉄道が全線開通し移住者が増加し、
大正4年(1915年)2級村制を施行し美幌村となりました。
大正8年(1919年)に現津別町を分村し、大正12年(1923年)に1級町制が施行され「美幌町」が誕生。
美幌町への旅は、まず『美幌峠』から。
標高525mの展望台からは、北東に屈斜路湖、その向こうに摩周岳、斜里岳が峰を連ね、南西には、大雪連峰をはじめとする大パノラマの眺望が楽しめます。
湖の中央には、淡水に浮かぶものとしては日本最大の中島があります。
紋別市
25,248人(人口、2009年3月31日)
市名の由来は、現在の市内中央部を流れる藻鼈川を指す
アイヌ語のモベッ(mo-pet、静かである・川)から。
日高支庁の旧門別町(現日高町)と読みが同じだったため、
「オホーツク紋別」または「北見紋別」と呼んで区別する事が多い。
紋別市はオホーツク海沿岸の数少ない天然の良港として、
貞享年間(1684年~1687年)に松前藩がその直領としていた宗谷場所
から斜里場所へ至るオホーツク海沿岸の寄港地として利用したのが始
まりといわれています。
明治13年には紋別村外9カ村戸長役場を設置し、以後、沿岸漁業の
活性化や道路の開削、国鉄名寄線の開通により、人口は急増し、地域の
行政および産業経済の要所として発展を続けました。
昭和29年7月1日紋別町・渚滑村・上渚滑村の1町2村の合併により、漁業・農業・鉱業を基幹産業とする人口3万6000人の「紋別市」が誕生しました。昭和48年、東洋一の産金量を誇った鴻之舞金山が閉山しましたが昭和50年には紋別港が重要港湾に指定され、国際貿易港としての整備が進み、近年はロシアサハリン州からの活カニ輸入日本一を誇るなど商港としても定着しています。
平成11年に新オホーツク紋別空港が開港し、現在、東京直行便が1往復就航しています。
また、我が国唯一の氷海域であるオホーツク海の特性を生かし、冬季はガリンコ号による流氷観光、夏季は花観光や釣クルーズ体験など、四季折々のオホーツクの自然を利用した観光にも力を注いでいます。
北見市
125,977人(人口、2009年3月31日)
市名の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」から。
「北見」の由来は、過去のこの地域の通称「北海岸」と快晴の日
に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの
北見市(きたみし)は、網走支庁管内にある市。
網走支庁管内で最大の人口を抱え、2006年には合併で道内8位
の人口となったが、面積が広大なため人口密度は低い。
明治2年(1869)7月に北方開拓のために開拓使が設置され、
同年8月、蝦夷を北海道に改め、これを11カ国86郡に分けました。
当市の地域は宗谷を含む「北見国」8郡のうち、常呂郡とされました。
明治15年(1882)開拓使が廃止され、札幌・函館・根室の三県が置かれ、北見国は根室県の圏域に入りました。明治16年、常呂村に常呂外六ケ村戸長役場が置かれたのが、当市行政の始まり。
明治19年(1886)には、三県を廃止し、北海道庁を設置し、
本格的な開拓の手始めとして道路網の整備に着手しました。
当地域では中央道路の一環として囚徒を使役して、網走~上川間の「北見道路」を明治24年(1891)完成、あ
わせて各所に駅逓が置かれ、以後内陸部の開拓は飛躍的に進みました。
明治31年には岐阜団体が入地しました。
野付牛村では、明治30年5月に坂本竜馬の甥、坂本直寛が率いる高知県の移民団、北光社が入地、同年6月と翌31年9月には屯田歩兵第4大隊が入地、開拓の主力となりました。
明治30年(1897)に屯田歩兵第4大隊第1中隊が入地した端野村は、大正10年に野付牛町から独立。昭和36年(1961)に町制を施行、端野町となりました。玉ネギ、ビールに欠かせない大麦など、「大地のレストラン」として多種多様な農作物が生産されています。
網走市
39,420人(人口、2009年3月31日)
網走市(あばしりし)は、網走支庁
(2009年10月よりオホーツク総合振興局)管内にある市で、支庁所在地。
市名の由来については、アイヌ語で「チパ・シリ」(幣場のある島)と
呼ばれていたものが言語の変遷と共に元の意味が忘れられ、
「チ・パ・シリ」(我らの見つけた地)と転じ、さらに「ア・パ・シリ」
(我らの見つけた地)と転じた、とされる。(チ、アはどちらも“我ら”の意)
地名由来の説は複数あり、他にも「アパ・シリ」(入り口の地)という説もある。
網走国定公園の中心に位置する農業・漁業・観光の街。
春は網走湖畔の水芭蕉、夏は原生花園の花々、秋は能取湖畔のサンゴ草、
冬は流氷と四季折々豊かな表情を見せてくれる
オホーツク圏の観光拠点都市。
オホーツク海に面した海のまち網走。
晴れた日の空の色は別名「オホーツクブルー」とも言われます。能取岬から知床まで弧を描くような地形から、晴れた日には海の向こうに知床の山々が見渡せます。
市内には大小5つ(網走湖・能取湖・藻琴湖・濤沸湖・リヤウシ湖)の湖があり、通称網走5湖と呼ばれます。リヤウシ湖以外は海水が流入する汽水湖です。
網走湖ではカヌーやボート競技、冬にはワカサギ釣りが楽しめ、能取湖ではホタテ貝の養殖、藻琴湖ではシジミ(大きい!)の養殖が行われているほか、濤沸湖は昨年11月にラムサール条約の登録湿地に認定された野鳥の宝庫です。
網走は網走川の両岸の扇状地にまちをつくって発展、その後、昭和40年代以降に郊外の宅地分譲により、急速に宅地が拡大しました。今でも網走川は市民の生活の中心です。
オホーツク海や網走湖、能取湖を見渡せる「天都山」。名前の由来は、山頂からの眺望が「天上の都に遊ぶよう」と評されたことから。絶景です。