岩内町
人口15,366人
明治30年、この年の北海道のニシン漁獲量は1,298,369石!
漁業史上最高のニシン漁全盛でした。
岩内はニシンの千石場所として栄えた町で、現在は
品質日本一を誇るタラコの生産をはじめとする水産加工の町です。
近年は、岩内沖約7.8km、水深約300mの地点から汲み上げた
日本海岩内海洋深層水を様々な分野に利活用し「深層水ブランド」
の確立による新たな産業創造と雇用の確保を目指しております。
北は日本海、南は岩内岳・雷電山などのニセコ山系に囲まれており、
雷電海岸にそびえ立つ弁慶の刀掛岩や積丹半島を見渡せる円山展望台
からの風光明媚な自然環境。
豊富な温泉施設・スキー場・パークゴルフ場・オートキャンプ場などのリゾート施設、
さらに木田金次郎美術館・荒井記念美術館・郷土館などの文化芸術施設などを柱
に観光振興にも力を入れています。
指定されている。
新見温泉郷 周辺にいくつもの神秘的な滝があります。
掘削が行われてからである。
ては128カ所のカーブが存在し最大12%の勾配がある道路は危険
であり、道路を新しくすることにした。
の道はルート選定が難航。
昭和13年、村の開基者京極高徳所有の
「京極農場」が開放されたのを記念して
昭和15年京極村と改称されました。
昭和37年5月1日には、町制を施き現在に至ります。
地下に浸透し湧き出した湧水は「ふきだし公園」内にあり、公園は環境緑地
保護地区とされ、自然を残したままで保全されています。
公園は「名水の里」として多くの人に親しまれています。
日本一のナチュラルウォーターとなって「ふきだし公園」に噴き出ています。
昭和60年には環境庁の「名水100選」に認定されました。
道の駅くろまつない(黒松内町)
リクルート北海道じゃらん発行の「北海道じゃらん3月号」で
特集されている「道の駅満足度ランキング08」。
黒松内町特産物製造販売施設で製造された、膨張剤などの添加物を
一切使用しない手作りハム・ソーセージや、道産小麦100%使用の
焼きたてパンなど、こだわりの味に人気が集まっていると、評価されました。
黒松内の語源はアイヌ語の「クル・マツ・ナイ」に由来するもので、
意味としては「和人の女のいる沢」。
その昔出稼ぎの漁夫を慕って来た妻たちが、この地で時化に遭い、
そのまま滞在したためと言われています。
安政3年、長万部から黒松内を経て歌棄に通じる陸路が完成して以来
黒松内は交通の要所となりました。
近年は立地条件を生かした乳牛の導入や、農業の機械化と経営規模の拡大によって、
後志管内随一の酪農の町となりました。
また、社会福祉の充実にも力を注ぎ、現在は8つの社会福祉施設を擁するほか、
全道に先駆けて老人給食サービスや入浴サービス、65歳以上の高齢者の医療費無料化、
ホームヘルパー派遣サービスなどを実施、これらの先駆的な取り組みによって、
『福祉の町・黒松内』としての評価も定着することとなりました。
有島記念館(ニセコ)
有島記念館は
大正11年、ニセコの地で画期的な農場解放を実践した有島武郎に
謝恩の意味を込め、また文学をはじめ、その多彩な業績を広く紹介
するため、昭和53年、農場事務所跡地近くに開館されました。
館内では、写真、書簡、書、絵画、初版本などを展示し、
有島武郎の生涯と文学、農場の解放にいたる軌跡を紹介しています。
有島武郎による農場解放の後、設立された狩太共生農団では
団員の合議制により、相互扶助の思想のもと経営されてきましたが、
戦後の農地改革で解団されるにあたり、故農場主有島武郎の遺徳を偲び、
その思想を後世に伝えるべく、
有島謝恩会を結成して農場事務所の一部を有島記念館とし、その維持管理に当たりました。
この記念館は不幸にも焼失しましたが、有島謝恩会が中心となり
昭和38年、有島記念会館として開館しました。
その後、建物の老朽化、農業を巡る状況の悪化等々の事情から、
有島武郎生誕100年に当たる昭和53年ニセコ町により、現在の有島記念館が建設され
謝恩会から引き継いだ資料をもとに展示、開館されました。
弁慶岬
寿都と島牧の境界に突き出た岬で、
昔、アイヌたちはポロ・エドと呼んでいた。
更科源蔵の「アイヌ語地名解」によれば、大きな鼻の
形の岬の意味だそうだが、この岬の先端が裂けたように
なっていてこの岩と岬の間をベルケイ(裂けたところ)
と言ったのを和人がベンケイとなまったという。
松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には、ここをベニツケウと称し
その形が獣の背に似ているところから付けられたとしているが
一方、武蔵坊弁慶が甲冑を曝されたところで弁慶岬ともいう。
想望 ―― 同志を待ちわびる弁慶の心、ここに宿る。
奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。
弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという
情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って海尊の到着を待っていたが、
海尊軍団の船影を見ることはできなかった。
そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことを、
弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶岬と呼ぶようになったと
いわれる伝説が残り、その姿を再現した銅像が建てられています。
銅像の台座に刻まれている「想望」の二文字は、ここからつけられたものです。
ニセコ町
ニセコ町は
1964年までは狩太町という町名だったが
「カリブト」という語感が良くないということから、観光事業者が
中心となり改名運動を行ない、改名されたという経緯があります。
このニセコという名称の起源は、ニセコ町の西端にある
現在名「ニセコアンベツ川」の本来のアイヌ語地名、
ニセイコアンペッ(渓谷・に向かって・ある・川)である。
その前半部分「ニセイコ」を、
「ニセコ」とさらに縮めて自治体名とした。
ニセコは元民主党衆議院議員の逢坂誠司氏が町長として
活躍をしていた町です。(平成6年~平成17年)
任期中、町の行政改革として「情報共有によるまちづくり」を掲げ
縦割り主義からの刷新を図り、役場が何をしているか住民はもとより
担当外の職員も知ることのできる体制を作ったことで知れ渡ることとなりました。
主要産業である観光の分野では、
外国からのスキー客(特にオーストラリアから)が増加し、不動産が急騰したところでもあります。