2012/12/11 07:16:37
国道229号 23 乙部町その2
道の駅ルート229元和台(げんなだい)は、日本海を見渡すことができる高台にある。
その展望台の一角に一風変わったモニュメントが建っている。
「潮笛」というタイトルの横には次のような解説がある。
『寛政7年(1795年)、この地の漁師重兵衛・孫太郎・安次郎が小船
でコンブ漁に出漁中、強風に遭いダッタン(中国吉林省)に漂流、
北京をへて2年後、長崎出島より苦難の末帰郷した。この力を讃え、
岬に打つ波涛と潮風にこめ作品とした』
ダッタン漂流記として、この地に残っている。
「 19世紀になろうとする頃、現在の元和地区に3人の漁師が住んでいました。
ある日、船でこんぶ漁に出かけた 3人は嵐に遭い、ダッタン国(現在の中国吉林省)
に漂着してしまいました。
彼らはその国の役人の指示に従って国内を移動し、
当時の宮殿「紫禁城」(しきんじょう)でやっと日本に帰国する許可をもらいました。
当時は鎖国していた日本のこと、船で長崎についた3人は長崎奉行で厳しい取調
べを受けました。大変な思いをした3人は、北前船に乗って約2年半後に乙部に帰
ることができたのです。」
(写真は、モニュメント潮笛)
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2012/12/10 10:21:28
国道229号 22 乙部町その1
現在、国道229号には「豊浜トンネル」が二箇所ある。
一つは、余市と古平を結ぶ「豊浜トンネル」だが、もう一つが
熊石と乙部町を結ぶ豊浜トンネルである。
乙部の豊浜トンネルも悲惨な事故の歴史がある。
繰り返してきたが、この国道229号は海に面した断崖絶壁
が連続し、全通したのもそれらを迂回する長大トンネルが完成
したからである。(平成8年まで待たなければならなかった)
二級国道から一般国道229号に指定されたのは昭和40年の
ことだが、本格的な整備は明治20年代の半ばに始まり、区間
ごとに整備されている。
当時のルートは現在でいうところの「旧旧道」にあたる。
大正8年には準地方費道「江差岩内線」に指定され、戦前まで
部分的な改修が各所になされた。
戦後、昭和25年から26年にかけて、乙部側から順に豊浜1号から
豊浜8号までの8つの隧道となり、現在でいうところの「旧道」が完
成している。
昭和28年には二級国道「江差小樽線」に指定された。
事故が起きたのは昭和37年10月17日午前10時45分頃のことである。
豊浜3号隧道と豊浜4号隧道の間の「明かり区間」において、土砂量
350万立方メートルにもおよぶ巨大な山津波が発生し、たまたまそこ
を通行していた路線バス(函館バス)と警戒に当たっていた開発建設部
の職員を飲み込んで、海になだれ込んだ。
この事故により、死者11名、行方不明者3名を出す大惨事となった。
事故を受けてルート変更が検討され、昭和48年、事故現場を含む
危険箇所を大きく迂回する豊浜トンネル(延長1270メートル)が開通し、
事故現場と昭和20年代に完成した8つの隧道は廃道となった。
(バスは現在も大量の岩塊に埋もれたままである)
(写真は、館の岬<たてのさき> 東洋のグランドキャニオンとも呼ばれている)
2012/12/09 07:06:04
国道229号 21
熊石町
大成区からポンモシリ岬を越えると「熊石町」に入る。
この町も平成17年に太平洋側(噴火湾)にある八雲町と合併をした。
そのために、檜山振興局は日本海沿岸を分断する状態で、
北部のせたな・今金と乙部・江差の南部に二分され飛地となっている。
ポンモシリ岬を越えると関内であるが、
この地は元禄四年(1691年)に番所が設けられていたという。
江戸時代の初期には和人地(わじんち)という北海道における地域区分
が存在していた。
主に蝦夷と呼ばれるアイヌが居住する蝦夷地に対して、和人が居住する
渡島半島南端の一帯を指していた。
(後年、和人地は後志国や胆振国山越郡に拡大)
熊石の鰊漁は松前藩の経済基盤を支える産業で、米のとれない蝦夷地
にあっては重要な資金源であった。
更に、初期の松前藩の収入は、アイヌとの交易にあったため和人地に境界
を引き往来を取り締まっていたのである。
そのため、熊石というのは和人地とエゾ地の境界地で当時の日本国最北の地もであった。
鰊漁による蝦夷地の繁栄は江戸や大阪等にも北前船をとおして伝えられ、
熊石にも当時の新しいたくさんの文化が伝わってきていた。
しかし、松前から鰊漁が江差、乙部、熊石と北上し、とうとう鰊漁が慢性的不漁
に陥ると、蝦夷地に和人が北上し漁労に出るようになっていく。
(写真は、アイヌのシャチ跡分布)
2012/12/08 07:57:16
国道229号 20 大成区
せたな町は、瀬棚と書かれるほうが馴染み深い。
平成の合併で平成17年に3つの町が合併してできた町だ。
瀬棚郡北檜山町が町役場を、瀬棚郡瀬棚町が町名を、九遠郡大成町が
郡名をそれぞれ引き継ぐ形となった。
一番南にある大成区に、創立は1441年と言われている大田山神社がある。
571年も前のことである。
松前藩の始祖武田信広が太田に上陸した際、航海の安全と霊神の加護
として太田大権現の尊号を賜り信仰されているという。
しかし、この神社はそう簡単には行くことができない。
社殿までの道程は急勾配の階段を始め、両側に設置されたロープを使わ
なければ登れないという道南五大霊場の一つである。
探検家松浦武四郎や札幌定山渓温泉の開祖美泉定山もかかわった記録
が残っている。
また、国道229号を南下すると小熊に親熊が手を伸ばしているような姿に
見える奇岩が見えてくる。
親子熊岩物語の伝説
「大昔、この地に天変地異をもたらす大嵐があり、
生物の生存をおびやかし、自然の猛威は飢餓という試練を与えた。
この頃、山奥に親子の熊が棲んでいたが飢えをうったえる子熊を連れ、
海岸に辿りついた。
親熊は海岸に群れる子蟹を見つけ食べさせていた。
子熊も親のしぐさを真似て子蟹を追ったが、一瞬のうちに岩をすべり
海中へ・・・・・親熊は夢中で溺れる子熊を助けるため手を伸ばすがぬ
れた岩に足をとられ、無残にも海中へ・・・・・
一部始終を見ていた海の神様は、子を思う親の愛の深さに心をうたれ、
溺れる親子熊をすくいあげ、愛の姿をそのままに岩に変身させたのだった」
国道229号は、鰊で栄えた街道なので多くの伝説が残っている。
2012/12/07 05:47:31
国道229号 19 せたな町
島牧村の海岸国道229号を走り抜けて茂津多(もった)トンネル
を出ると瀬棚町である。
狩場山を中心とした山岳地帯で、これが日本海に落ち込むところ
に茂津多岬がある。
茂津多トンネルを抜けるまでが「雷電国道」、その先は「檜山国道」
と呼ばれる。せたな町は平坦部が少なく、海岸に近づくにしたがって
起伏する段丘となり、大半が草地地帯。
また、総延長約77.6km の海岸線は変化に富んだ奇岩、絶壁が多く、
狩場茂津多道立自然公園に指定された景勝地である。
道南の函館市までは約120km、札幌市までは約200kmの距離にある。
この町も江戸時代から鰊で栄えたところで「セタナイ場所・スッキ場所」
と呼ばれていた。
瀬棚港は明治中期から、函館から小樽航路の寄港地、農・水産の
集積基地として栄え、戦後埠頭も完成し、現在では奥尻へフェリーも
運航している。
また、この瀬棚には鉄道があったことを知る人は少ないだろう。
昭和7年に国縫~瀬棚間が開通し、昭和22年ころまで木材の出荷で
にぎわう。昭和62年幕を閉じた。
瀬棚といえば萩野吟子である。
明治27年日本で最初の女医となった萩野吟子が移住し、産科・小児科
萩野医院を開業した町である。
渡辺淳一伝記的小説『花埋み』で、NHKテレビ「風雪」などで紹介された。
この瀬棚郷土資料館は一見の価値がある。
別な機会に開拓移民を紹介したいが、明治3年に須築に旧会津藩士高橋新衛門他12戸が、翌年には斗南藩士が、明治25年には福島県丹羽団体が入植している。
2012/12/06 07:34:32
国道229号 18 島牧村
弁慶岬を過ぎると日本の渚100選にも選ばれた
美しい海岸線の島牧村に入る。
島牧も鰊の採れたところで松前藩はシマコマキ場所を開いていた。
また、御多分に洩れず交通は難所の陸路であった。
渡島国から天塩国への途上、南の瀬棚郡から狩場山
(標高1,520m道南最高峰)・茂津多岬(伝説を秘めた
奇岩怪石や大絶壁が続く景勝地)が難所となって島牧
へは舟に頼っていた。
安政年間(1854年)に江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の
商人松前屋庄兵衛らが私費を投じ須築(現在の久遠郡せたな町)
からコタニシ(現在の島牧郡島牧村原歌のあたり)に至る狩場山道
を開削し陸路での移動を可能としたとある。
これが現在の国道229号の前身である。
1997年8月25日午後2時30分頃、島牧村持田の
国道229号第2白糸トンネルの瀬棚側坑口で大規模な岩盤崩落事故があった。
更に、28日午後1時30分頃に2回目の崩落が発生し、
前年の2月10日におきた古平の「豊浜トンネル」の約5倍規模の岩盤崩落だった。
しかし、幸いなことに崩落のあった区間は交通量が少なかったこともあり、
巻き込まれた車両などは無く犠牲者は出なかった。
この崩落事故で、隣にある第1白糸トンネルも崩落の危険性があるということで、
復旧は山側に大きく迂回するトンネルを新たに建設することとなった。
平成11年4月8日に新トンネルが供用開始となり、1年8か月ぶりに島牧と瀬棚が
行き来できるようになった。
2012/12/05 07:41:46
国道229号 17 弁慶岬
寿都の市街地を過ぎると政泊に達し、寿都と島牧の
境界に突き出た岬が弁慶岬である。
更科源蔵の「アイヌ語地名解」によれば、この岬の先端が
裂けたようになっていてこの岩と岬の間をベルケイ(裂けたところ)
と言ったのを和人がベンケイとなまったという説。
松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には、ここをベニツケウと称し、
その形が獣の背に似ているところから付けられたという説。
一方、義経伝説は武蔵坊弁慶が甲冑を曝されたところで
弁慶岬ともいう。奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、
この地に滞在していた。
弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って
蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端
に立って海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることは
できなかった。
そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことを、弁慶が
同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶岬と呼ぶよう
になった伝説が残り、その姿を再現した銅像が建てられた。
昭和63年、弁慶岬に高さ3.6mの大きな弁慶像が建てられた。
台座にはこの地で援軍の船の到着を待っていた弁慶の気持ちを表わす
「想望」の文字が台座に刻まれている。
2012/12/04 10:11:07
国道229号 16 寿都町
雷電トンネルを抜けると、そこは江差追分の
「忍路高島 及びもないが せめて歌棄(うたすつ) 磯谷(いそや)まで」
と唄われた寿都(すっつ)の古い海岸線に入る。
寿都町には、磯谷から政泊までの229号線に9の海神社がある。
この町も長い歴史を持つ鰊で栄えた港町だ。
歌棄(うたすつ)には「追分記念碑」があり、
向かいあった場所には明治12年に橋本与作が建てたといわれる
「鰊御殿」がある。
橋本与作は仕込屋というのは網元や漁師に品物や金を貸し、代金
を数の子、身欠鰊、鰊粕等で返済してもらってこれを売る商売。
創業者橋本与作は長栄丸、金栄丸など五百国積みの自家弁財船
で膨大な利益をあげ、当時で最高級の家を建てたのがこの建物。
また、義経の家臣、佐藤継信の末裔(まつえい)が建てた漁場建築
「佐藤家」がある。
この建物には現在も人が住んでおり、ニシン場時代の資料や文献
が保管されている。佐藤継信は源平屋島の合戦で義経めがけて飛
んできた矢を身代わりになって受け、戦死した忠臣といわれている。
建物内の長押には、家紋の「源氏車」をかたどった金具を打っている。
佐藤家は、嘉永5年(1852)以降に歌棄、磯谷二場所の場所請負人
を勤め、維新後は駅逓取扱人を命ぜられた同地方随一の名家。
積丹半島開発および漁法改良に尽力した開発功労者としても著名である。
(写真は、佐藤家)
2012/12/03 07:33:45
国道229号 15 雷電岬
北海道の海岸線は源義経の伝説だらけだが、岩内から寿都に入る
雷電峠も例外ではない。
この峠も北海道難所の一つだった。
それゆえ伝説「義経雷電越え」の伝説が生まれ、雷電岬の突端の
刀掛岩も弁慶にちなむ。
昭和38年に雷電トンネルが開通し、国道229号で寿都方面への通過が
平坦なものとなった。
「雷電」地名の由来
源義経伝説。
義経一行が日本海に上陸をし、この雷電の山間でアイヌの襲撃
に遭い囚われるが、このアイヌの酋長の娘と恋仲になり、別れの朝
「来年はきっと帰る、それまでの別れだ」
と告げ「来年まで待っているわ」 二人の交わした「らいねん」が
いつからか「雷電」の 地名になったということ。定かではないが。
(写真は雷電海岸のカスペの岬にある有島武郎文学碑)
2012/12/02 08:11:37
国道229号 14
岩内町
泊村を過ぎると岩内町である。
岩内も古い漁港で、往年は江差とともに千石場所といわれ、鰊の漁期には
内地から数千人のヤン衆が入り込み賑わいを極めた。
東京から歌舞伎の吉右衛門でも幸四郎でも興行を打ったと言われるほどの
由緒を持った町である。
また、文豪の往来も激しく幸田露伴、巌谷小波なども縁があり、
この町に夏目漱石の本籍もあったという。林芙美子も「アスパラガス」発祥の地
としての原稿もある。
しかし、何といっても小説でいえば
有島武郎「生れ出づる悩み」、八木義徳「漁夫画家」、水上勉「飢餓海峡」であろう。
これらが今は美術館や石碑として残り過疎を避けられないが、
隣村の原発のおかげで民宿と飲食街だけは群を抜いている。
(写真は、岩内から見た泊村原発3基と岩内郷土資料館)