北海道開拓使時代の開拓長官と次官
(明治2年8月~明治15年3月)
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期 間 |
開拓長官 |
開拓次官 |
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明治2年(1869年)7月8日 - 7月13日 |
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明治2年(1869年)7月13日 - 8月24日 |
鍋島直正 |
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明治2年(1869年)7月24日 - 8月25日 |
清水谷公考 |
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明治2年(1869年)8月25日 - 9月13日 |
東久世通禧 |
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明治2年(1869年)9月13日 - 明治3年(1870年)5月9日 |
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明治3年(1870年)5月9日 - 明治4年(1871年)10月 |
黒田清隆 |
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明治4年(1871年)10月 - 明治7年(1874年)8月 |
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明治7年(1874年)8月 - 明治15年(1882年)2月 |
黒田清隆 |
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明治15年(1882年)2月 - 明治15年(1882年)3月 |
西郷従道 |
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北海道開拓使
わが国における近代的土地制度は明治維新の諸変革により封建的支配
の排除と土地私有権の確認によって確立された。すなわち,明治4年の
廃藩置県,明治5年の地所永代売買の解禁,地券制度の創設,明治7年
以降の主地官民有区分によって達成されたのである。
北海道でも当然これらの変革は行なわれたが,行政上の特殊地域であ
ったため,府県とは異なる法規によって異なる時日に行なわれた。
しかも単に時日と法律制度が異なっただけではなく,その過程が府県と
は巽なる重要な差異を持っていた。
それは次の3点に要約することができる。
第l 維新後大部分の土地は新しい制度の下では官有地に所属すべき
ものとなり,無主地国有の原則が北海道の大部分の土地に適用
され,そこに国家的土地所有の単一形態が容易に形成された。
第2 明治以前の北海道では農民による土地所有は極めて少なく、明
治政府の官有未開地の処分と殖民地選定区画事業によっで新た
に形成されていった。
第3 明治政府ははじめ官有未開地の農牧植樹適地は私有に移す方針を
とり、小農扶殖の目的から設けられた処分面積の制限は,その後
の開拓政策の転換から漸次ゆるめられて,我が国に未だかつてそ
の例をみない大土地所有を生んでいった。
府県における近代的土地制度確立の過程が封建的土地所有関係の改革
として行なわれたのに対し,北海道ではこうした関係は極めて小部分に
すぎず,大部分の土地は無主地とみなされるべきものであり,むしろ新
しい土地所有権の創設の過程であった。
開拓使設置
明治2年7月2日
新政府は明治元年4月に箱館裁判所(後の箱館府)を置いたが、箱館戦争の終結後、
明治2年8月にこれを廃止し、新たに開拓使を設置した。
これが明治15年2月までの北海道開拓の中心となった。
開拓使では明治2年9月に、第一回募移民として東京府から約500人の浮浪者を樺太・
宗谷・根室に入植させた。彼らには渡航費のみならず家屋、3年間にわたる食糧・開墾料
の扶助が与えられたが、気候・土壌が悪かったことも重なって扶助期間が過ぎると離散し
てしまった。移民に対する扶助の方法からすると、幕末期の御手作場の募移民の延長と
も思われる。
当時の中央政府は北海道開拓のみに専念することはできなかったから、すでに明治2
年7月の太政官布告をもって諸藩士族・庶民の開拓志願者に土地を割り渡すことにして
いた。これに対して、1省1府25藩8士族2寺院が応じて開拓を志願し、支配を命ぜられた。
(北海道分領支配制度)
この大方は志願のみで開拓の成績は芳しくなかったが、明治3年春から開始された
伊達士族の移住・開拓など、その後の見本となるような事例も見出される。
所在地:函館市湯川町2丁目28番地1
松倉川というのは函館市街地の東部(飛行場寄り)を南に流れ、湯の川温泉付近で支川の湯の川、鮫川を合わせ、津軽海峡に注いでいます。この川の河口に旅館・ホテルが22軒、公衆浴場が4軒という湯の川温泉街となっています。
一般観光客の入り口となっているのが市電の終点「湯の川駅」ですが、ここに小高い丘があり上ると「湯倉神社」があります。
湯倉神社のサイトによると、
「伝説では享徳二年(1453)頃、一人のきこりが家に帰る途中に小高い丘(現在の湯倉神社のあたり)で一休みをしていたところ、沼沢地で湯気が立っているのを発見し、近づいて手を入れてみたところ湧き湯でした。その後、きこりが病気になり腕の関節の痛みがひどくなったとき、湧き湯のことを思い出し、湯治をしたところ、程なくして病気が治りました。きこりはそのお礼にと薬師如来を刻み、小さな祠(ほこら)を建てて安置したのが、湯倉神社の起源であり、今日の湯の川温泉の始まりであります」
1911年(明治44年)、函館船渠を退社。
函館ドックの経営が軌道に乗ったところで勇退した龍吉は、残された
生涯を北海道農業近代化のためにささげることを決意し、当別におよそ
1,200町歩の山林農地の払い下げを受けて農場を建設。
日本の農業が鍬や鎌、牛や馬の力を利用した農耕具を使用していた
時代に、龍吉はアメリカから大型農機具を輸入し近代農業を実践しました。
当時の川田農場には西洋式の牛舎・サイロ・風力発電などもあり、その風景は
近在に類を見ない威容を誇っていました。
90代になり妻も子もこの世を去り「北海道で生涯を終えたい」と思い、
92歳の時にトラピスト修道院で洗礼を受け、3年後に生涯を終えました。
1978年(昭和58年)、渡島当別の川田農場の跡地に事績や関連資料を
展示紹介した男爵資料館を開設。
イギリスから帰国後
三菱製鉄所、日本郵船を経て1893年(明治26年)
横浜船渠会社取締役となり
1897年(明治30年)社長に就任。
その前年、父急死のため男爵を継いでいる。
1903年(明治36年)社長辞任。
この間、横浜船渠在勤当時の1901年(明治34年)、横浜の貿易商会
がアメリカから輸入したロコモービル社製蒸気自動車を購入、自ら通勤
などの際に運転した。
このことから、龍吉は日本最初のオーナードライバーであるといわれている。
この蒸気自動車はその後北海道にも持ち込んで使用。
1970年代後半に復元修理が行われ、復活走行も行っている
(1979年にNHK特集で龍吉を取り上げた際にも、その中のドラマパートで
龍吉を演じた愛川欽也が乗車して走行した)。
現在は男爵資料館(後述)で保存展示されており、国内に現存する最古
の自動車とされる。
1906年(明治39年)日露戦争時の造船不況に喘いでいた函館ドックは、
技術家であり造船事業経営の経験のある龍吉に会社再建の白羽の矢を
立て社長に招聘。龍吉は北海道へ渡ります。
強力な人脈を通じた株主探し、横浜から信頼の置ける技師や職工を採用、
職制の改革等、積極的な策を実践して会社再建に成功。
また、函館~当別の連絡船を運航する等、地域にも貢献しました。
1908年(明治41年)函館市の風景が
イギリスに似ておりジェニーのことを思い出しました。
ジェニーと一緒に食べたじゃがいもをこの地で育て食べてみたいと
思い立った川田龍吉男爵は、イギリスやアメリカから様々な種いも
を取り寄せて試験栽培を行ないました。
その中で「アイリッシュコブラー」という品種が北海道の地に
一番適しており、普及させることに努めました。
後に、このじゃがいもは「男爵様が育てたいも」から農家が
「男爵いも」と名付けられます。
北海道北斗市当別4丁目3-1
川田 龍吉(かわだりょうきち)
安政3年3月14日(1856年4月18日)-1951年(昭和26年)2月9日)。
実業家。
40歳の時に、父小一郎が男爵の爵位を授与されますが翌年に急死。
長男の龍吉が男爵を継承。
土佐藩士川田小一郎の長男として、
土佐郡杓田村古新地(現・高知市旭元町)に生まれた。
維新前の川田家は「年寄」(庄屋補佐)を勤める家柄で豊農であり
郷士という身分にありましたが、郷士は半農半の生活でした。
父親は岩崎弥太郎とともに三菱グループ創設に尽力し、
日本銀行3代目総裁となった川田小一郎。
英米系医学を教える慶應義塾医学所に入塾するが一年たらずで中退。
造船技術を学ぶために21歳でイギリスへ留学。グラスゴー大学で機械工学を
学び、ロブニッソ造船所で舶用機関術を修めましたが、しばしばスコットランド
の農村を訪れ、そこでじゃがいもに出会い「偉大な工業国は偉大な農業国」
であることを知ります。留学は7年もの長きに及びました。
イギリス留学時代、イギリス人女性ジェニーと知り合い恋人
となり、デートでは畑を眺めたり、温かいじゃがいもを食べたり
することが楽しみでした。
二人は順調結婚を約束しましたが、当時は国際結婚が難しい
時代で、承諾を得るために帰国したものの父親の大反対で婚
約は成立しませんでした。
ジェニーとの結婚は叶いませんでしたが、生涯に渡り誰に言う
ことも無く胸の中に秘めていました。
それは、川田龍吉男爵が亡くなってから30年後に発見された
金庫の中で大切に保管されていた金髪と90通にも及ぶラブレ
ターで明らかになりました。
函館美術館開館25周年記念として「没後40年 田辺三重松展」が開催
されています。会期:2011年7月16日(土)~9月19日(月)。
北海道でも人気がある田辺三重松は、やはり函館では「洋画家田辺」は
絶大なのでしょう。私が30年ほど前に函館の知り合いの家に泊まった時に、
田辺三重松の絵がありました。聞くと「家にしばらく泊まっていたんだよ」と
いうことでした。
今回の企画は油彩画約60点のほか素描・下絵原画等の未公開作品も展
示しております。20数年前に、札幌の北海道立近代美術館で田辺三重松展
が開かれておりましたが、これだけの作品を鑑賞できる機会はそうはないでしょう。
すでに田辺三重松については、2009年2月22日に紹介していますが、
今回は彼の生い立ちについて触れます。
明治30年(1897)函館区大黒町95番地(現在の弁天町5番7号)に、
母、田辺ヨシ(当時40歳)の子として生まれた。父親は、本願寺函館別院
で布教伝道につとめていた僧侶、松原深諦(まつばらじんたい)当時45歳である。
誕生のいきさつは、ヨシの夫の死後、呉服店の女主人として切り盛りをし
ていましたが、函館に来た松原深諦と恋仲になります。ところがこの事実は、
周囲にもあまり知られないままに、三重松は親戚の子として生まれ田辺家に
養子にきたとされていました。
松原は、三重県梅戸井村にある真宗本願寺派の光明寺という由緒ある寺の
嫡男であり、後には本願寺本山の執行長にまでなった高僧である。この布教
僧とヨシの結婚は、周囲の反対にあってかなわず、二人は引き離されるよう
にして三重県に帰った。
三重松という名前は、この三重からやってきた松原深諦をしのんでヨシがつ
けたものである。
札幌市[大通公園西十丁目]
題字 町村金吾
構想 加藤顕清
制作 野々村一男
台座の後ろには、ホーレス・ケプロンの功績を述べた碑文がある。
ホーレス・ケプロンは、アメリカ合衆国の人。明治四年わが国
政府の招きに応じ、合衆国農務長官の要職を辞して、開拓使教師
頭取兼顧問となり北海道開拓の大業に参画した。すなわち、多く
の外国人技師を指導して本道の実情をきわめ、卓越した識見と豊
かな経験に基づいて、北海道開拓の基本方策を進言し、開拓長官を
たすけて、その実現に努めた。その勲業まことに偉大である。
ここに、北海道百年を迎えるにあたり、その偉業を回顧し、功績
を永く後代に伝えるため、この像を建立する。
昭和四十二年十月
北海道開拓功労者顕彰像建立期成会
北海道の人口増
明治2年には約6万人に過ぎなかった北海道の人口は、
開拓使(明治2年8月~明治15年2月)、3県1局時代(明治15年2月~明治19年1月)
を経て北海道庁(明治19年1月~昭和22年5月)が設置された明治19年には、約30万人
となった。
その後、急激に増加を続け、明治34年には100万人を超え、開道50年にあたる
大正7年には217万人を数えるまでとなった。
また、明治19年には3万町歩(ヘクタール)にも満たなかった耕地面積も、大正7年には
約80万町歩に達します。
津軽海峡を渡った最初の士族を含めて、新政府の政策(移民・土地)を交えて
このコーナーでは綴ってゆきます。