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函館中華会館

 

住所:北海道函館市大町1-12

公開:一般公開は、入場者の減少や建物の老朽化、日中関係が一時悪化したことなどを
理由に2005年から休止。201175日から8月16日まで期間限定で内部を開館し
ています。四川大地震の被災者の義援金に充てる目的。入館料大人600円。

 

函館華僑のはじまり (写真は函館山を背景にペリー像)
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 安政元年(1854)ペリー艦隊の来航により日米和親条約が結ばれ下田と函館が開港
され世界との交流が始まります。

この時、函館に来航したペリー艦隊の通訳が中国人「羅森」でした。

 安政5年の日米修好通商条約により貿易が本格化し、外国人の居住が認められます。
欧米商人に雇われた中国商人は買弁や番頭などの肩書で函館に来航し、海産物取引
などの仲介業務で増加していきます。

 完治元年(1865)に海産物取引が自由化され、長崎海産物取引独占体制が打破され
ると、函館も輸出が可能となり、欧米から独立した中国商人は直接函館に来航するよう
になりました。

  ・日米和親条約(安政元年)の外国人の居住規定

      下田は、港から7里(28キロ)が遊歩区域。

      函館は、5里(20キロ)。

  ・日米修好通商条約(安政5年)の外国人の居住規定

      居留する外国人は条約で決められた開港場に居住することが認められる。

      下田は、港から10里(40キロ)が遊歩区域。

      函館は、10里(40キロ)。

 

函館中華会館
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 函館華僑の人々の会合場所であった「三江公所同徳堂」が、1907年(明治40)の大火で
焼失したため、中国から設計責任者や工人達を招き、1910年(明治43)に同じ場所に煉瓦
造りで純中国式建築物が建てられました。中央に「三国志で知られる関羽」が、祀られ
てい
ます。関羽は商売繁盛の神様として中国全土に祀った「関帝廟」です。
 日本に関帝廟があるのは、横浜中華街と函館の中華会館だけです。

壁に赤レンガを使用し、釘を一本も使わない清朝末期の建築様式で、登録有形文化財及び
函館市景観形成指定建造物に指定されています。


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黒田清隆の像e5aa8239.jpeg

札幌市[大通公園西十丁目]

 

題字 町村金吾

 

構想 加藤顕清

制作 雨宮治郎

 

台座の後ろには、黒田清隆の功績を述べた碑文がある。

 

黒田清隆は鹿児島県の人。明治三年開拓次官、のち開拓長官に任

ぜられ北海道開拓の大任にあたった。清隆はその性、明察果断に

して、開拓の知識を先進国に学ぶ必要を痛感し自ら海外におもむ

き、知見を広めるとともに、ホーレス・ケプロンをはじめ、多数

の外国人技師を招き、その進言を入れ着々開拓の巨歩を進めた。

北海道開発の基礎は、まさに清隆の卓見により確立したものとい

ふべく、その勲業まことに偉大である。

ここに北海道百年を迎えるにあたり、その偉業を回顧し、功績を

永く後代に伝えるため、この像を建立する。

昭和四十二年十月

北海道開拓功労者顕彰像建立期成会

会長 廣瀬 経一
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榎本軍鷲ノ木上陸跡地e58def2d.jpeg

 

鷲ノ木史跡公園」

京都の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争で旧幕府軍は関東から東北に追い詰め
られていきます。榎本武揚率いる旧幕府海軍と脱走艦隊は、明治新政府とは別の
独立政権「蝦夷共和国」設立を夢見て北海道に向かった。北海道に上陸したのが
噴火湾中央部の鷲ノ木村
ここから箱館戦争が始まりました。

鷲ノ木海岸は現在の茅部郡森町にあり、今も鷲ノ木史跡公園」として残っております。

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「明治元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)
率いる艦隊が
上陸しました。上陸時の
鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ
(夕バ風)、暴風雪であったといわれる。

榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天(かいてん)、蟠龍(はんりゅう)、長鯨(ちょう
けい)、神速(じんそく)、鳳凰(ほうおう)、回春(かいしゅん)、大江(おおえ)で、このと
きの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人
以上と言われ、
上陸したのは主に陸兵でした。
 当時の
鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への
交通も開けていました。

 21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえて官軍と
撃戦となり、箱館戦争へと展開していく事になります。開戦とともに
鷲ノ木村は榎本軍
の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯の崎台場
(現
鷲ノ木)などが構築されました。
 こうして、明治二年五月の、函館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、
また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も
鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑
や慰霊碑などがあります。」

            平成二年七月三十日
             森町教育委員会


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滝本金蔵 4987df509.jpeg

 

 明治26年の北海道毎日新聞は、
当時の登別温泉を次のように報じている。

 

 

「浮世離れをした静かな所に入り、山高く水清く、
温泉また諸病に効き目があるので、常に浴客が絶えない由。
同所には目下滝本金蔵が旅店を営んでいるだけであるが、
昨今年中の浴客数を聞くに、14月まで45人、58月まで452人、
912月まで191人。
一年間で総人数688人なり。
中でも7月は一ヶ月間に165の多きに及ぶ」

 

滝本金蔵は、明治32年に73歳でその祖湯外を終えました。




江戸時代における蝦夷地の警備体制

万延元年(1860)時代

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五稜郭と箱館奉行所誕生の歴史5dbe748a.jpeg

 

写真は、五稜郭から写した「五稜郭タワー」です。

 

 

箱館奉行所は元々は箱館山麓にありました!
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箱館奉行所は、現在の元町公園に置かれていた江戸幕府の役所です。

今は、公園内に「箱館奉行所跡」の杭があるだけです。

安政元年(1854)の日米和親条約により、箱館と下田が開港されますが

この箱館を治めるために幕府が設置した「箱館奉行所」では、港湾から

近く防備上不利であったことなどから、内陸の亀田の地に移すことにな

りました。

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誰が五稜郭を作ったのか?

蘭学者の武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)に新しい要塞の設計を命じます。

「武田は緒方洪庵塾に入門し、洋学諸術を学び、ペリー艦隊が浦賀に来航した際

には佐久間象山の門下にいた。様式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに

明るく、箱館開港後は箱館諸術調所の教授として活躍していた」

安政4年(1857)から五稜郭の築造が始まり、7年後の元治元年(1864)に役

所建物などがほぼ完成。箱館山麓の奉行所が移転して五稜郭の中で業務が開始

れ、蝦夷地の統治や開拓、開港地箱館の諸外国との交渉など幕府の北方政策の拠

点となりました。

 

明治維新後解体!

大政奉還により明治新政府の役所に引き継がれますが、戊辰戦争最後の戦いと

なる箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年(1871)に開拓使に

より奉行所庁舎を含むほとんどの建物が解体され、大正時代以降は公園として一

般に開放されていました。

 

平成22年に復元!
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函館市では、五稜郭内にあったが箱館奉行所が失われたままでは本来の姿が理

解されにくいことから復元の整備を進めておりました。史実に忠実な復元が進み

平成22年に140年の時を超えて箱館奉行所が再現されました。

 

但し、復元範囲は当時の13あたります。




滝本金蔵 3b489a0a4.jpeg

 

明治に入り、幌別役所より湯守であることを許可され、
登別村に旅人宿を開きます。

  明治5年には室蘭と札幌を結ぶ道路が開設され、
これまでよりも人で賑わいました。

   金蔵は里に漁場を開き、温泉開発の資金を得て
明治14年、私費で温泉と里を結ぶ道路
(紅
葉谷の上を通る新道)を開削します。

明治21年に平屋の一部を二階建てに改築し
これま
では外湯だけであったのを、別に湯室を建て増して内湯を設けます。
「湯元の滝本」の始ま
りでした。

  また、全額私費を投じ必死の思いで開通を願った「馬車道」開通は豪雨出水
や脳溢血で
半身不随となり、戸板に乗り担がせて道路工事の指導をしたと伝わります。
この道が苦難
を重ねながら明治24年に完成します。
7
キロのこの道は、2千万円(4千万円相当)。
温泉への山道を走る4人乗りの客馬車はハイカラ馬車と呼ばれ、ユーモア溢れる金蔵
により御者は豆腐屋用の愛らしいラッパを吹かせて客馬車を走らせていました。

この事がたちまち温泉の名物となり、当時の落語家である橘円太郎が話の中に取り上
げて人気を集めたことから、円太郎馬車とも呼ばれるようになりました。

   政府はこの美談を讃えて、明治24藍綬褒章を下賜しました。




滝本金蔵 28df653cf.jpeg


幌別に着くと金蔵は、家族をつれて、登別川の奥地の
温泉の湧き出るところに行きまし
た。
彼の目の前で、温泉が、白煙とともに凄まじい勢いで
吹き上がっていました。

 金蔵は、温泉が佐多の身体に効くということを確信し、
彼女に温泉に入るようにいいます。

 佐多がおそるおそる温泉に入って、わずか数日。
佐多の身体はみるみる回復していきます。

 痛みやかゆみは治まり、彼女は元気を取り戻していきました。
彼はこの効き目を多くの人
に知らしめようとします。
そして、この温泉場所に小屋を建て、湯守になることを決心し
ました。

金蔵は、早速湯治場を建築し、そこでささやかな温泉経営を始めます。

    しかし、登別川の奥地は里から来るには、あまりにも遠くて不便でした。
しかも、熊など
の獣害も心配され、客足はなかなか伸びません。
そのため彼らの最初のお客は、近在のア
イヌ民族の人々でした。
金銭を持たない彼らに対しても、金蔵夫婦はあたたかく迎えまし
た。
次第に評判が評判を呼び、幕府の役人や硫黄山の労働者、さらに白老の
仙台藩陣屋や
南部藩出張陣屋の武士も訪れるようになっていきます。

そして、幕府にも金蔵たちの努力
が認められ、それらの功績を認めて
金蔵を永久湯守とする沙汰が下されます。

   金蔵は、一層温泉場開発に力を出していきます。




滝本金蔵 1f82c5b8f.jpeg

 

滝本金蔵は
 温泉の町「登別」第一滝本館の創始者です。

 金蔵は1826年、武蔵国児玉郡本庄
        (現在の埼玉県本庄市)
 の
野村家生まれで生家は農業でした。
 実家の家督は、長男が継ぎます。

 手に職をつけようと、10代の半ばで江戸に出た金蔵は大卯の
 棟梁に弟子入りし、江戸でも腕利きの職人となっていきました。

  料理店の娘だった佐多と世帯を持ち婿養子として滝本家に入りました。

 そのとき、蝦夷地(箱館奉行所役人の新井小一郎)で職人の募集という
 話にであいます。
 当時の蝦夷地は新興地で行くまでの旅費は無料。
 さらに、開拓した土地は自分のものになるというふれこみでした。
 32歳の金蔵はそれにかけることにします。


滝本金蔵1858年(安政5年)2月、募集に応じて山越内場所
(現八雲町山越)長万部
後手作場として入植します。
妻の佐多とともになれない鍬をもち開墾し始めた頃、佐多
の身体に偏重がおきます。
原因不明の皮膚病が佐多を襲い全身に広がっていきました。

  開墾など到底できなく、ついには、子どもの世話もできなくなるほどでした。
当時、入植者が他の土地へ移住することは、禁じられていました。

  しかし、あまりの不憫さに長万部の雇い主は、場所請負人に、
金蔵親子の移住許可を提出。

 その場所は幌別、病にきく温泉があるといわれているところでした。

 移住許可の申請が聞き届けられ、金蔵たちは長万部から幌別に移ることができました。




華族(かぞく)制度 その3

 

子爵

公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家

武家からは維新前に諸侯であった家が子爵相当。

分家で本家が高い爵位を持っている特例として子爵をあたえられた。

   子爵を与えられた分家華族としては、近衛秀麿家(公爵近衛家の分家)、

徳川武定家(侯爵水戸徳川家の分家(松戸徳川家))

松平慶民(侯爵福井松平家の分家)の3家。

「国家に勲功ある者」明治維新前後に活躍した者の家が子爵に叙せられた。

 

男爵

明治維新後に華族とされた家(附家老家、奈良華族等)が男爵相当。

押小路家・壬生家2家は堂上家に準じて男爵を与えられた。

大社の世襲神職家14浄土真宗系の世襲門跡家4も男爵

琉球王家の尚氏の分家であった今江家今帰仁家2家も男爵。

「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者。

公家の叙爵にあたって家格はある程度考慮。

武家は徳川家以外は石高のみが選定基準となった。



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
男性