北海道内のおもな義経伝説 9
⑨函館市 船魂神社・義経腰掛の松
津軽半島まできた義経一行。
風波が強かったので、船魂明神に祈り、 無事蝦夷に辿りついた。
この辺りは伝説がとても多く、義経が腰を掛けた松や、義経が弓で岩をつついて
湧出させたという湧き水もあった。
船魂明神に助けられた義経 (函館市、日和坂上)
義経一行が難所といわれる津軽海峡を渡って北海道へ来たのは文治5年(1189)。
津軽半島の三厩まできたものの風波が強い。
そこで信心深い義経は、船魂明神を一身に祈り、 無事渡海することができたそうです。
明神さまをまつる船魂神社は、最初は観音堂といわれており、
鰐口に応永元年(1394)と書かれていますから、 義経来道200年ほど後の建立になります。
神社横には穴があり、函館山の裏側の断崖絶壁、
山背泊寄りの穴澗に通じているともいわれています。
穴澗には多くの伝説が残され、 その主は大蛸、鰐鮫、白蛇などといわれ、 それをまつった
竜神さまがあると伝えられています。
神社境内には、 義経が弓で岩をつついて湧出させたといわれる湧き水が あったようですが、
今は枯れています。
⑧江差町 義経の馬岩
愛馬を残して北へ向った義経。
白馬はそのまま白い岩となり、今も主人の帰りを待ちわびて…
待ち続ける義経の愛馬。馬岩 (江差町鴎島)
桧山道立公園の中心地、江差町。
江差港の沖に鴎が翼を広げたような形をしている島が鴎島です。
鴎島の東側、えびす浜に面した波打ち際に、白馬が首をあげ
いなないているかのように見える岩があります
。ここに義経の愛馬が、今もなお帰らぬ主人を待ちわびています。
津軽の三厩で3日3晩渡海を祈り続けた義経は 白髪の老人に
3頭の白い馬を与えられます。
これが三馬屋(三厩)の地名の起こりと伝えられています。
さて、江差にたどりついた義経は、 ここに愛馬を残してさらに北へ向っていきました。
白馬はそのまま白い岩となって残っています。
⑦乙部町(爾志郡乙部町) 姫待ち峠・九郎岳・姫川
義経最初の地といわれる乙部町。
静御前が乙部まで追ってきていた。
知る由もない義経は、乙部岳を越え…絶望した静御前は川に身を投げた。
義経と逢えずに待ちわびた峠を"姫待ち峠"、 乙部岳を"九郎岳"、 ここから流れ出る川を"姫川"と呼んだ。
「その昔、九郎半官義経が兄頼朝の追討を逃れ、乙部に蝦夷地で最初の足跡を残しました。乙部には地名としてその逸話が刻まれています。
乙部岳は義経の別名九郎半官から九郎岳、静御前を思いつつも越えなければならなかった峠は姫待峠と呼ばれています。また義経を追って乙部にたどり着いた静御前ですが、義経はすでに乙部岳を越え、2人は会うことが出来ませんでした。
悲嘆にくれた静御前は、川に移った自分の姿を見て、もうこの世に生きながらえる望みも力も失ったと、その川に身を投げてしまいました。そしてこの川を姫川と呼ぶようになったのです。」
⑥寿都町 弁慶岬・義経の物見台
その昔、糠森という場所そのものが弁慶の土俵だったそうな。
「はっけよい!」力自慢の弁慶の大相撲。
弁慶土俵 (寿都町・糠森)
土俵づくりに使った糠の残りが岩となって出来たそうです。
土俵の大きさは幅20m、周囲に30cmの土盛りがされており、
あたりには4本の柱の跡、弁慶が履いていた大きな下駄の足跡、
上方には義経が座った物見台もあったということです。
力自慢の弁慶は、相撲の相手を手加減しません。
勢いあまって投げ飛ばされた人は、崖下に転げ落ち、 鼻血で岩を赤く染めました。
近くの岩が"赤岩"と呼ばれているのはそのためです。
向うところ敵なしの弁慶も、義経を相手に相撲した時だけは、 尻もちをついて負けたということです。
北海道内のおもな義経伝説 5
⑤岩内町 <雷電岬>
義経はアイヌの襲撃に遭うが、神罰と悟ったアイヌの人々は介抱し、
メヌカという娘が熱心だった。義経出発の朝――
「雷電」の地名は、「らいねん」?(岩内町、雷電)
義経一行は、雷電の険しい山間で当時のアイヌの首長チパの襲撃に遭い、
囚われの身となってしまいました。
勝利をおさめたアイヌの人々が、祝いの席を開こうとした時のこと。
突然祭壇の"イナウ"が倒れてしまいました。
これは、 義経を捕らえた神罰と悟ったアイヌの人々は、 一行を手厚く介抱することにしました。
傷も癒え、やがて春が来て、旅支度を始める義経一行。
そんな光景を目に涙をいっぱいためて見守る少女がいました。
チパの娘、メヌカです。 義経を介抱するうち、いつしか恋が芽生えていたのでした。
とうとう出発の朝がきてしまいました。
泣きくずれて別れを惜しむメヌカを慰めて義経は 「来年はきっと帰る、それまでの別れだ」と告げました。
「来年まで待っているわ」。 二人の交わした最後のことば"らいねん"がいつからか「雷電」の
地名になったということです。
弁慶を慰めた雷電の海刀掛岩 (岩内町雷電・国道沿い海側雷電岬)
義経一行の中で力持ちの弁慶は、いつも頼り甲斐のある存在でした。
雷電まで来た一行がちょっとひとやすみした時のこと。
いつもは片時も離さない刀ですが、 弁慶は近くの岩をちょいとひねって刀を掛け。
いつしかこの岩を「刀掛岩」、 この岬を「刀掛岬」と呼ぶようになりました。
また、一行が雷電にしばらく滞在している間、 弁慶はしばしば磯釣りを楽しんだそうです。
そんな時も刀掛岩がおおいに役立ったということです。
武器や財宝が眠っている?不落の洞窟 (岩内町雷電・刀掛岩の横)
刀掛岬を海伝いに船で南に回れば、
どこまで続くかわからないような洞窟があります。
内部の高さは約16m、幅4m、広いところでは20mほどで、 奥行きは約80m位まで確認されています。
以前迷って入った犬が寿都で発見されたことから、
洞窟は寿都までつながっていると言われています。
洞窟へは、船で渡るルートしかないため、 義経に関係のあったアイヌの首長チパが
武器や財宝を隠したという伝説が残っています。
刀掛岩の近くですから、弁慶が財宝の見張りをしていたのかもしれません。
また、この底しれない穴は「また来年」と言って 義経と別れたアイヌの娘メヌカが、
戻らぬ義経に失恋、 投身自殺をしたところとして「悲恋の穴」とも呼ばれています。
④積丹町 <チャレンカ・シララ姫伝説>
<神威岩伝説>
神威岬先端の岩。
義経に想いを寄せるチャレンカは、知らせず旅立った事を知り、
「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」という言葉を残して海へ。
岩と化した。
女性を乗せた船がこの沖を過ぎようとすると必ず転覆し、神威岩はかつて女人禁制だった
というから、穏やかでない。
ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園にふくまれる積丹町余別の西岸の景勝地。
日高の平取から雷電岬を越えて、岬の沖にさしかかった義経一行は、
荒波にもまれて今にも難破しそうになりました。
義経は、神威岩と海の神、風の神に祈りを捧げると、 ふしぎなことに
波も風もおさまり、無事通過できました。
一説には、平取のアイヌの娘、チャレンカもまた義経を慕って後を追い、 船の行く手をはばむために
身投げしたのが、 立岩として残っていると伝えられています。
神威岬はその昔女人禁制の地といわれ、 女性が乗った船がこの辺りを通るとチャレンカの恨みに
よって、 必ず転覆したと伝えられています。
現在、神威岬への遊歩道は"チャレンカの小道"といわれ、 野鳥のさえずりを聞きながら散策を楽しめます。
義経を追って、高波にのまれたシララ姫伝説
積丹岬の東、入舸は昔アイヌの人たちが住んでいたところです。
義経一行は、日本海沿岸を北上、 神威岬の沖を船で通過しようとしていました。 ところが、この辺りは、風の強さと潮の流れの早い難所。
荒海に櫂を流され、かろうじて入舸に流れつきました。 首長は娘のシララに義経を介抱させ、義経の傷も順調に回復していきました。 海辺を散歩する義経とシララの姿は、ほほえましい光景でした。しかし、ここも義経にとって安住の地でなく、 一族の再興をはかる大望を胸に船出をしたのです。 シララは岩伝いに船を追いましたが、 折りから満潮となった大波にのみこまれてしまいました。波間に沈んだかと思うとシララは浮かびあがり、 そのまま岩になったということです。
現在、"シララ姫の小道"と呼ばれる積丹岬周辺は、 奇岩の多いビューポイントです。
②旧厚田村(現・石狩市厚田区) 義経の涙岩
暑寒別天売焼尻国定公園のルーラン海岸の、突き出た奇岩。
追われた義経がここで酒を飲み、静御前を想い涙を流した。
アウトドアクッキングの味はどんな味?~アマシュケの岩燕伝説~ (浜益町)
浜益はアイヌ語でアマシュケといいます。
アマムは穀物、シュケは炊くの意味だそうですが、この語源となったのは、
義経一行がこの地で飯を炊いて食べたということにあると 言い伝えられています。
この地でも義経は、アイヌの娘と恋仲になりました。
一行が去る時、義経に"娘の身代わりに"と老婆が2羽の岩燕を贈りましたが、
すぐに舞い戻ってきました。
なぜなら娘は失恋の悲しみが深いあまり、 毒を飲んで自害してしまったのだそうです。
岩燕は今も浜益の洞窟に棲みついているそうです。
北海道内のおもな義経伝説 1
①稚内市 源義経試し切りの岩
第一清浜(オンロコマナイ)海岸に大きな岩が、さながら刀で二つに
切られたようになっているのがある。
昔源義経が逃れ逃れて、ついにこの蝦夷の最北端まできた。
長旅の疲れも加わり、かつても勇将のおもかげもなく、 義経の姿は
みすぼらしく見えたのでしょう。
アイヌの人たちに樺太に渡るための船を出してくれるよう懇願しても
真剣に聞く者はいません。 それどころか嘲笑する者さえいます。
コタンの人々は「あの刀も使いものにならないだろう」と云う声を聞いた義経は、
やにわに腰の大刀を引き抜き、そばの大岩めがけて切りつけた。
不思議なことにさながら大根でも切るが如く、この大岩はパクリと口を開いて二つになったと云う。
驚いた人々は、源氏の大将義経であったことを知り、 船を出して樺太に送り届けました。
アイヌの人々は、 この試し切りされた岩に一行の武運を祈願したということです。
1919年~ 日本の政治家
中川郡池田町長、参議院議員(2期)などを歴任した。
北海道中川郡池田町出身の政治家である。
1942年、明治大学大学専門部法科を卒業。十勝日日新聞の編集長を務める傍ら農民運動に携わり、日本社会党に入党した。
1957年、37歳の若さで池田町の町長に初当選。1957.5-1976.10(5回)
北海道で唯一の社会党町長として話題を集めた。
1977年に第11回参議院議員通常選挙に当選し国政に転出し、町長時代同様に日本社会党に属した。2期12年務めた後、1989年政界から引退した。
業績
丸谷金保の池田町長としての最大の業績は、十勝ワインを開発したことである。
生産・加工から販売まですべて地域住民と自治体が主体となって手がけ、外部資本の介入を許さない姿勢を貫いた。十勝ワインの開発への町をあげての取り組みは、今日では一村一品運動の元祖とみなされている。
甘く加工したワインが出回っていた当時の日本にあって本格的な辛口ワインである十勝ワインは1960年代までは「こんな酸っぱい酒が飲めるか」「税金で、まずい酒作ってどうする」等と非難されたが、1970年代に入って日本の食卓でも洋食が一般的になると高く評価されるようになり、売り上げも伸びた。この頃、東京にも十勝ワインと牛肉のレストランを開設し話題を呼んだ。
この業績により、丸谷は「ワイン町長」の愛称で親しまれるようになった。
丸谷はその後中央政界に転出するが、政治家として最も活躍したのは5期20年の池田町長時代だったといえる。