深川の歴史 その4
(深川の小史より)
深川本通りと渡船
上川道路が出来た後、今の道道旭川深川線、道道深川雨竜線が
つくられた。この道路は、深川本通りと呼ばれた。
雨竜から深川を通り神居古潭(かむいこたん)までの道路は、
雨竜原野を開拓するために1891年(明治24年)つくられた。
この道路は、上川道路と同じように、樺戸監獄署の服役者で作られ
たが工事は大がかりなものでなく細い道であった。
はじめの頃の深川本通りは、雨が降ったり、石狩川が増水する度に
ぬかるみが出き、馬車が動けなくなるような道路であった。
また、木の切株や、ササの切口が残っていたため人や馬が怪我をする
ことが珍しくなかった。
このため、割木を敷いたり砂利を入れて改良を図った。
この道路は、石狩川の右岸に広がっている雨竜原野の開拓に大きな役割を果たした。
しかし、深川と音江の間にある石狩川には橋がなく、そこをわたる人々は渡船を使っていた。
1892年(明治25年)、奥芳松(おくよしまつ)が渡船をはじめて以来、メム地区から納内地区
までの間に10ヵ所ばかりの渡船場が作られ、多くの開拓者や屯田兵が利用した。
渡船は、川の両岸にワイヤーを張りそれをたどりながら舟を動かすもので、風の強い日や、
増水のときは大変危険であって、舟が転覆し多くの人命が失われたこともあった。
冬は、氷の上に丸太を置き、その上に板とムシロを敷き雪をのせて水をかけてこおらせ、
氷橋を作り人や馬が通行したが冬の初めや、雪解けの頃は大変危険であった。
1917年(大正6年)、現在の深川橋の近くに船橋が造られた。
船橋は、川の両岸にワイヤーを張り、木の舟を沢山ならべ、その上に厚板を敷き並べたもので
あったが、増水のときや冬期間は使えなかった。
その後、1931年(昭和6年)に旧深川橋が、1932年(昭和7年)には旧納内橋が完成した。