2009/09/21 00:37:49
深川の歴史 その5
(深川の小史より)
1889年(明治22年)、
三条公爵、蜂須賀(はちすか)侯爵、菊亭(きくてい)侯爵たち6人
の華族が雨竜原野の土地を政府から借り受け資金を出し合って
華族組合雨竜農場を開くこととし、
1890年(明治23年)から開拓を開始したがなかなか進まず、
めいめいで農場をつくることとした。
菊亭侯爵は、100戸の農家を入れ、約1,600ヘクタール開拓しようと
1893年(明治26年)深川で土地を借り、北海道の新十津川、本州の十津川
まで農家を集めに行ったもののなかなか計画通りには集まらなかったが、
同年、新十津川から大和団体が、1897年(明治30年)、石川県から加賀団体が
入植し、ようやく望みが果たされた。
この深川の菊亭農場に開拓に入った人たちのことをメム100戸団体と呼んでいる。
開拓に入った人たちはまず家を作らなければならなかった。
家といっても、立木を倒し、何本かの丸太を組み合わせて、草で屋根をふくという粗末なものであった。
家族は力を合わせて朝早くから暗くなるまで働いた。木を切り倒し、ササや草を焼き、
その後を一鍬一鍬掘り起こしたが木やササの根が入り組んでいたため仕事がはかどらず大変な苦労であった。
開拓のころのメム地区は、見渡す限り、カヤ・ハギ・クマザサ・ヨシ等の雑草やアカダモ・ヤチダモの大木が
多く繁っていた。
また、熊の足跡がいたるところにあり、草で作った笛を吹いて用心していた。
馬が熊に殺されることもあった。
こうして切り開いた土地に、エンバク・イナキビ・アワ・ソバなどを植えたがせっかく作った作物も、
熊に荒されたり、イナゴやヨトウ虫に傷められたり、水害や冷害で良く実らないこともあった。
開拓者は、厳しい自然と苦しい生活に耐えながら家族が力を合わせて働いた。
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