2010/08/18 00:43:31
中山 久蔵(なかやま きゅうぞう)3
文政11年3月21日
(1828年5月4日) - 大正8年(1919年)2月13日。
この頃の開拓使の方針はケプロンやクラークの提言に従い
米作りを止め、ジャガイモや小麦作りを奨励していたが
しかし、久蔵は米こそ農民の命と思い米作りに励んでいました。
1873年(明治6年・45歳)大野村(函館の北)へ行き、寒さに強い「赤毛種」の
種籾を分けてもらい水稲の試作を始めました。
水田の水温を一定に保つことが大事であると思い、大きな風呂樽を札幌から
取り寄せ、大きな石を焼き、それを風呂桶に入れ湯を沸かし、昼夜を問わず風呂
の湯を水田に運び、まさに執念ともいえる苦労を重ね、遂に発芽に成功しました。
その秋には反当り345kgを収穫し、北海道の米作りの夜明けとなりました。
久蔵が育てた赤毛種の種籾は空知や上川の農家に無償で配布され、
ここから全道に米作りが拡がりました。
今や北海道は日本一の米の生産量を誇り世界の米作りの北限地となっています。
その後、久蔵は56歳の時、自宅を改造し島松駅逓所の経営を始め、
今年(2010年)は、それから124年になります。
開拓期に重要な役割を果たした久蔵は、1919年(大正8年)91歳で亡くなりました。
現在、奇しくも島松沢の国指定史跡、旧島松駅逓所の横には
中山久蔵とクラーク博士の記念碑が並んでいます。
これも時代の流れでしょう。
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