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北海道の歴史を刻んだ人々070929.jpg

 

蠣崎波響(かきざき はきょう)2

 

寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で
松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市立図書館
に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」
11点が発見)を翌年冬に完成させ、これ後に彼の代表作となる。

寛政3年(1791年)3月に同図を携え上京、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。

この時、円山応挙についてその画風を学び以後画風が一変する。

文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に転封され、
波響も梁川に移った。
文政4年(1821年)松前藩が復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政963で没した。

画人では円山・四条派の円山応挙、岸駒、松村呉春、皆川淇園等と、文人では漢詩人菅茶山や六如、橘南谿、伴蒿蹊等と生涯を通じ交流があった。
また木村兼葭堂を通じ、大名家では増山正賢や松浦静山等と交流した。
京都をたびたび訪れ、松前藩家老であり、温和な性格で社交的な波響は歓待された。

森鴎外が『伊達蘭軒』で、波響を紹介している。
地元では度々展覧会が催されたが、全国的に知られたのは中村真一郎『蠣崎波響の生涯』からで
ある。自筆資料は函館市立図書館に所蔵されている

 


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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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