北海道の歴史を刻んだ人々
菅野豊治(すがのとよじ)2
土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者
(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)
4.初代の町長だ
豊治は、各地ヘプラウの説明に歩きまわっていました。
ある農協へ手みやげを持って訪ねたとき、「産地はどこか」と、
聞かれ、「上富良野村」と、答えると、「それならダメだ」と、
手みやげだけ食べられた日もありました。
そのため、プレートに『上富良野町』とほって出荷し、
豊治は、「私が初代の町長だ」と、笑っていました。
ある日、豊治の店に乞食のような旅人が訪ねてきました。
服装はきたなくても、豊治はひとりの人間としてあたたかく
迎えました。
そして、何が気に入ったのか酒まで飲ませて家に泊めたので、
家族はブツブツ文句を言いました。
次の朝、旅人は家族がまだ寝ている間にひとつのメモを残して
出ていきました。そのメモには三層鋼板(さんそうこうはん)の作り方
が書かれていました。きっと豊治のプラウづくりに役に立つと思ったのでしよう。
その後、豊治はメモをヒントにして研究をかさね、ついに菅野式炭素焼プラウを完成させました。
しかし、畑の土質がいろいろあって、すべての畑でじようずに耕すことができませんでした。
そこで豊治は、出張で汽車に乗ったときは、停車の間に近くの畑へいって土を集め、
試験管に地名を書き込んで、工場にたくさん並べていました。
その集めた土で、それぞれの土質にあうプラウの研究をかさね、粘土質用・火山灰用・水田用・
泥炭(でいたん)地用などに合うプラウを完成させました。
その努力が認められ、北海道庁の奨励農機具に6寸深耕プラウと8寸深耕プラウが指定され、
日本甜菜(てんさい)製糖株式会社を通して製造、販売されました。
そして、各地の展覧会や審査会で、いつも上位入選し、菅野式プラウの名声を広く高めたのでした。