菅野豊治(すがのとよじ)1
土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者
(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)
白い農機で知られているスガノ農機は、
プラウの専門トップメーカーです。
農業の原点である耕(たがや)す分野で農家の人と
一緒に土づくりのお役に立とうと励んでいます。
1980(昭和55)年、茨城県稲敷郡美浦(みほ)村に
大きな工場を建てました。
現在、日本のプラウ市場の8割はこの工場で生産し、日本農業機械
の業界では、中堅のメーカーに発展しています。
このように発展したのは、もちろん2代目の良孝(りょうこう)
社長や現在の3代目祥孝(しょうこう)社長の大変な努力もありますが
その原点となっている菅野農機具製作所の創立者、菅野豊治を語らず
にはいられません。
2.豊治(とよじ)生誕100年
1894(明治27)年9月1日。豊治は7人兄弟の6番目として、
現在の岩手県江刺市で生まれました。
12才のとき、豊治は父や母たちと一緒に上富良野村へ開拓農民
として引っ越してきました。
そして、16才のとき近くの松岡鉄工場に丁稚奉公で入りました。
朝は暗いうちから鉄を焼いて打って、クワやマサカリなどを作り、
夜は早く仕事を終わらせて、友達の佐藤敬太郎たちと、金子商店の
前で楽しく遊んでいました。
1917(大正6)年2月2日。
24才のとき、豊治は現在の上富良野農協の近くで
菅野農機具製作所を始め、クワ・マサカリや山林用具などを
作りながら、プラウの修理もしていました。
またそのとき、両親をよんで一緒に生活を始めました。
次の年の春には、プラウの修埋が120台にもなっていました。
研究熱心な仕事ぶりは評判が良く、お店の中はいつも農家の
人々が入れ替わり立ち替わりで、にぎわっていました。
この時代の開墾は、道具もそろっていなかったので大変苦労していました。
また、未墾地でのプラウ耕(こう)は、石や木の根などが多いためプラウが
曲ったり減ったりします。豊治はそれを一生懸命に修理をしていました。
そんな姿を見ていた三枝甚作は、豊治の熱心な仕事ぶりにほれこみ
「プラウ作りをやってみないか」とすすめました。
やがて、そのことがきっかけになり、豊治が26才のとき、甚作の娘サツを
伴侶(はんりょ)として迎えたのでした。
豊治は29才のときカリエスにおかされ、長い闘病生活に入ることになって
しまいました。
しかし、注意深い療養と厚い信仰によって予想以上に早く健康をとり戻す
ことができました。
その間、1番弟子の18才の佐野長吉とサツが家業を守りつづけました。
この闘病生活によって、豊治には人間の運命感と、いかなる困難にもたえ
しのぶ強い精神力ができあがったのです。