北海道の歴史を刻んだ人々
菅野豊治(すがのとよじ)4
土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者
(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)
10.青酸カリを手に
日増(ひま)しに暴動は激しくなりました。
みんなの食事がもう少しでできあがるという時に、
危険を感じた通訳の人は「早くここを出たほうがよい」
とすすめました。
出発の時に豊治は、万一虐殺されるときのことを考えて
全員に青酸カリを渡し、「いざという時に飲め」そして、
「何も持たないほうが安全だ」と言い聞かせました。
そうして、みんなが心に覚悟をきめて、着の身着のままで、
夕方六時ごろ、豊治は塀の門をゆっくり開けて、逃げてきた
人たちと一緒に息をこらして声もださず、静かに一列になって歩き始めました。
暴徒たちはそれを見ていたのですが、危害を加えることはいっさいしませんでした。
これで、すべてが白紙になり、裸一貫になったのです。
それから収容施設の生活が始まり、厳しい寒さが病気や飢えに追い打ちをかけるのでした。
死体は山のように積み上げられ、とてもこの世とは思えない悲惨なものでした。
他の人々は、逃げている途中で少しでも体が弱った人がいれば、みんなの足手まといに
なると言って捨てられ、また生まれたばかりの赤ちやんは、いつのまにか背中で死んでいる
という状態でした。
涙なしでは語れないと、当時13才だった現在の祥孝社長は、振り返り話しています。
1946(昭和21年)8月12日。
大陸の夢が砕かれた豊治は、
故国の日本に船で帰ることになりました。
その2カ月後の10月14日、故郷の上富良野に家族そろって到着しました。
しかし、着の身着のままでの北国の10月中旬は、とても寒いものでした。
豊治には、住む家がありませんでした。
しかし、少年のころから親友だった佐藤敬太郎は、そのことを両親に話しました。
両親は、こころよく自分たちが畑への通い小屋に移り住み、豊治一家に自宅を貸しました。
借りた家の屋根裏から星が見えました。
その星を眺めながら寝た豊治は、「極楽のようだ」と言っていました。
裸一貫で帰ってきた2カ月後の雪深い12月に、豊治は疲れた体と、痛んだ心を休める
暇もなく間口3間、奥行6間の大きさの工場を建て、再び商売を始めました。
一文(なしで帰つてきたというのに工場の棟上げの夜、棟梁から手伝いの大工まで、
どうやって準備したのか祝儀袋を渡してお礼を言いました。
52才の豊治は、心魂(しんこん)をかたむけてプラウの製作に打ち込んでいました。
この情熱と闘志に人々は心をうたれ、やがて「豊治が帰ってきたぞ」と、村中に知れわたりました。
農家の人々は、6年前に豊治が満州へ出発するときに、品物の代金をゼロにしてもらったことを
忘れていませんでした。朝、工場の前にはイモ、麦の俵が積んであり、入口のムシロ戸の中に
は米、ソバ、野菜、豆。そして、ドブロクまでいろいろな品物が毎日届けられていました。
こうして、お互いの厚情のきずなは一層深くなっていき、豊治にとっては、報恩(ほうおん)と
感謝の日々だったのです。
菅野の製品は、満州から引き揚げてきたときから、
白い塗装(とそう)になりました。
塗装(とそう)を「なぜ、白にしたのか」と聞かれたとき、
豊治は「自はごまかしのできない、混ざっていない色である」
そして「商売はつねにお客さまに裁かれて存在している」
「白はどこにあっても目につく、したがってお客さまが何年もかかって
使い終わるまで、良質の性能を維持する製品を造らなければならない
」「ご愛用者に感謝の気持ちで、農業に役に立つ仕事をするのだ」と、説明していました。
現在、そのことばは、「白の理念」として、社訓になっています。
長男の良孝は、シベリアからまだ復員していなかったため、
次男の祥孝は、豊治の向こう打ちを手伝っていました。
祥孝は、朝も晩も仮住まいの家から工場までの2.5kmを、
大きな大八車を引いて通っていました。
その大八車にはりんご箱が積んであり、道路に落ちている馬ふんを
拾い集めていました。
そして、そのりんご箱が馬ふんでいっぱいになると、工場の横に積み
上げておき、農家の人々に、「たい肥に使ってください」と、あげていたのです。
父に「土づくりの手伝いをするのだよ」と言い聞かされていたのですが、
子供であった祥孝にとって、その馬ふんひろいは大変に嫌な日課でした。