北海道の歴史を刻んだ人々
菅野豊治(すがのとよじ)5
土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者
(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)
従業員は15才の少年3人と14才の祥孝しかいなく
仕事はだんだん忙しくなっていきました。
豊治は祥孝に
「ここから日本中にプラウを出すのだ」と
毎日毎日説き聞かせ、夢を与えました。
幼少だった祥孝は、
「ここに消えた満州の工場を再現するのだ」
と思っていました。
そして、後になってもっと深い意味があることにきづき
農業参画へと心を動かされることになったのです。
商売を始めようとしていた豊治の友人数人が
銀行から資金を借りるための連帯保証人の最後の一人
になってほしいと、豊治の所へ頼みにきました。
豊治は、みんなの前でただ断るのではなく
「付き合いや義理で保証人になってはいけない」
「先を見通して成功するか失敗するか、はっきリ言えなけ
れば本当の保証人の資格はない」
「商売を始めるあなたが、まずしつかり信用をつけるべきだ」
と、言い聞かせました。
そして、彼らは商売を始め、数年後に失敗して倒産してしまいました。
このような厳しい豊治にも、人一倍の面倒を見る世話好きなところがありました。
ある時、宗派の違うお寺のふたば幼椎園の存続間題に力を貸したことで、
園児から「おじいちやん!おじいちやん!」と、先生以上に慕われていました。
何年もたった今でも聞信寺(もんしんじ)の住職の説教の中で、そのことが語られています。
また、冗談話をしながら酒でも飲めば浪花節をうなるという、おおらかで心の広い人でもありました。
豊治には、強い奉仕の精神もありました。
ある時、会田久左ヱ門は上富良野町の
発展を願って、十勝岳にある現在の
凌雲閣温泉の開発に挑みました。
それに対して、町の人々は、だれ一人
として応援しませんでした。
しかし、豊治だけが損得なしで温泉づくりを
めざす彼の生きかたに感動し、道のない山を
社員らと一緒に登り、物心両面から支援しました。
そして、ついに開発を成功させました。
また、聞信寺の幼椎園の仕事など数えあげればきりがなく、
町内で一番たよりになる親父さんでした。
豊治は、満洲からの引き揚げ船の中で歌を詠んでいました。
それは、晩年の人生観をよくあらわしています。
「ふるさとえ 錦着(にしきぎ)忘れ 丸裸(まるはだか) 寒さ身にしむ 朝な夕なに」
「落ちぶれて 袖(そで)に涙の かゝる時 人の心の 奥ぞ知らるゝ」
忘るるな人のご恩を
(この歌は、菅野家の墓に歌碑として建立されている)
また、同時に次の歌も詠んでいます。
「ふるさとえ 錦着どころか ぼろも着ず ふんどし一つの 軽き旅かな」
1965(昭和40)年2月21日、社業が順調に発展している時に、豊治は事務所で、
突然心筋梗塞に襲われ、72才を一期として生涯をお終えました。
1978年(昭和53年)2月、穐吉元専務らの呼びかけで、
創業者胸像建立期成会がつくられ、社員と関係有志の
寄付などにより、創業者夫妻の立派な胸像ができました。
それは、創業者の偉業を受け継ぎ、社業発展の糧とす
るためでした。
そして1991年(平成3年)、現在の祥孝社長らが心に思い
つづけていた、菅野豊治の記念館「土の館」が建設されま
した。
その場所は、豊治と豊治の友人や恩人の墓所(ぼしょ)がある
上富良野町の西山の台地です。
そこは、自い噴煙が天にあがる十勝岳連峰が一望できる場所です。