2013/02/23 11:30:48
アイヌ商船往還の制
蝦夷の物産は、昔も今も変わらない。
16世紀においても京では珍しいものとして高値で取引された。
自由に和人と交易をしたいアイヌと、アイヌとの取引を独占したい蛎崎氏とは、
常に睨み合いが続いていた。
いつの世も同じで、蛎崎を通すことでアイヌは安値となり常に言い争いになっていた。
京への流通を持つ蛎崎は、アイヌには魅力的であった。
四代目蛎崎季広(すえひろ)は、いつまでもアイヌとの衝突をしていても得策ではな
いと考えて策を練った。1551年のころというのでザビエルが鹿児島に上陸したころの
ことである。
季広(すえひろ)は、アイヌの重宝する数々の宝物を与えて、彼らと親しくする姿勢をとった。
そうして「アイヌ商船往還の制」を定めた。
瀬田内(現瀬棚)の首長ハシタインを上ノ国に置いて西夷の首長。
知内の首長チコモタインを東夷の首長とし、諸国から集まる商人から徴集した税の一部を、
夷役と称して両首長に配分するというものである。
上ノ国から知内までを通る船は中間にある蛎崎がとる。更に、交易の場を松前(福山)に
限定するものだった。ただし、内地から来る商人にはこの制度は関係ないとし、奥地に入る
ものは取引自由。
両首長は了承し、一様100年に渡って続いていたアイヌとの戦いに終止符がうたれた。
しかし、これに乗じて五代目慶広の代に大きな展開をおこなうこととなる。
(写真は、中世の上ノ国の地形と館を表したもの)
PR