2013/02/25 09:35:42
アイヌ民族の蜂起 21
徳川家康の黒印状
豊臣秀吉が死んだ翌年(慶長4年)1599年冬、蛎崎慶広は大阪城で家康に
蝦夷島地図や家譜を献じ、姓を松前と改めた。
慶長5年から6年にかけて、福山城(松前城)を築いた。
アイヌに対しては城、幕府に対しては館と称した。
慶長9年(1604)正月、征夷大将軍家康より黒印の制書を受ける。
定
一、 諸国より松前へ出入の者共、志摩守へ相断らがして、
夷人と直商売仕候儀は曲事たるべき事
二、 志摩守に断無くして渡海せしめ売買仕候者、急度上致すべき事付、
夷之儀は、何方え往行候第たるべき事
三、 夷人に対し非分申しかける者堅く停止の事右条々もし違背之輩においては、
厳科に処すべきもの也。仍って件の如し。
慶長九年正月二十七日 御黒印 松前志摩とのへ
秀吉の制書が交易徴税権の承認であったのにくらべ、家康の制書は一歩進んで、
松前氏の許可なく蝦夷交易ができないことを認めたものだった。
アイヌ民族の大蜂起が起きる65年前のことだった。
(写真は、徳川家康の黒印状)
徳川家康の黒印状
豊臣秀吉が死んだ翌年(慶長4年)1599年冬、蛎崎慶広は大阪城で家康に
蝦夷島地図や家譜を献じ、姓を松前と改めた。
慶長5年から6年にかけて、福山城(松前城)を築いた。
アイヌに対しては城、幕府に対しては館と称した。
慶長9年(1604)正月、征夷大将軍家康より黒印の制書を受ける。
定
一、 諸国より松前へ出入の者共、志摩守へ相断らがして、
夷人と直商売仕候儀は曲事たるべき事
二、 志摩守に断無くして渡海せしめ売買仕候者、急度上致すべき事付、
夷之儀は、何方え往行候第たるべき事
三、 夷人に対し非分申しかける者堅く停止の事右条々もし違背之輩においては、
厳科に処すべきもの也。仍って件の如し。
慶長九年正月二十七日 御黒印 松前志摩とのへ
秀吉の制書が交易徴税権の承認であったのにくらべ、家康の制書は一歩進んで、
松前氏の許可なく蝦夷交易ができないことを認めたものだった。
アイヌ民族の大蜂起が起きる65年前のことだった。
(写真は、徳川家康の黒印状)
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