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アイヌ民族の蜂起 4
 京の流刑人たち
 

 津軽半島の龍飛岬から、渡島半島の白神岬までは19.2キロである。
鎌倉や京の中央政権から遠い奥東北や北海道は蝦夷と呼ばれていた。
 ましてや、津軽海峡を越えると支配は全く及ばないところであった。

  この海峡を第一陣の27年後、1216年(建保4年)に第二陣が渡った。
京の流刑人たちである。時代は鎌倉幕府の第2代執権、北条義時である。
 (義時は北条政子の弟)
 京都にはびこる強盗や盗賊を捕まえたが、そのうちの50人ほどを蝦夷に
送った。この後、数年に渡って蝦夷への流刑が続けられた。


 アイヌたちは、恐れる素振りも見せず迎え入れた。
そうして、蝦夷地に渡った者はアイヌ民族と一緒に暮らすようになった。
奥州藤原の残党と流刑人たちは、先住する人を支配しようとする意図など
まったくなく、多くの者はアイヌに深い恩を感じていたのである。
 虚勢や権力を見せたとしても、人数も少なく、生活の糧を得るにはアイヌ
に教わらなければ生きていけなかった。
 生活のために京や津軽から取り寄せた米、絹、鉄製品などをアイヌにも
惜しみなく分け与えていた。
 この生活が、第三陣の軍団によって一変してしまう。


(写真は、エゾニュー)
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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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