2011/08/07 00:58:45
<札幌大通公園のはじまり 火防線>
札幌中心部は開拓使により、北海道の中心となるように計画的に
建設された珍しい町です。
北海道の中心を札幌とした理由ですが、箱館府が置かれていた箱館
(函館)は旧・蝦夷地の人口・産業の中心でしたが、位置が南に偏りす
ぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになったものです。
明治2年、北海道の中心となる都市を建設するために札幌に来た
佐賀藩士島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所
を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めます。
街の中心部(本府)はちょうど豊平川の扇状地の先端部に位置しており、
それより北は泥炭地でした。当初は市街地を南北に広げる予定でしたが、
こうした理由により、東西にまずは街を広げていきました。
区画サイズは60間(約109m)四方(11,644m2)で、京都にならって
条丁目の碁盤の目。本通は幅11間(約20 m)、中通は幅6間(約11m)
そして中央部に東西に引かれた道路が大通、 幅58間(約105m)あり
ました。
のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は、厳冬の中で予
算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任さ
れます。
代わって赴いた岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、明治
4年5月に開拓使庁が札幌に移りました。
岩村通俊が明治4年までに火防線となる「大通」を境に北を官庁、
南を商業地としました。大火の延焼を防ぐための空き地を確保する
もので、この線がたびたび火災の広がりを食い止めました。
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