<札幌大通公園のはじまり 火防線>
札幌中心部は開拓使により、北海道の中心となるように計画的に
建設された珍しい町です。
北海道の中心を札幌とした理由ですが、箱館府が置かれていた箱館
(函館)は旧・蝦夷地の人口・産業の中心でしたが、位置が南に偏りす
ぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになったものです。
明治2年、北海道の中心となる都市を建設するために札幌に来た
佐賀藩士島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所
を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めます。
街の中心部(本府)はちょうど豊平川の扇状地の先端部に位置しており、
それより北は泥炭地でした。当初は市街地を南北に広げる予定でしたが、
こうした理由により、東西にまずは街を広げていきました。
区画サイズは60間(約109m)四方(11,644m2)で、京都にならって
条丁目の碁盤の目。本通は幅11間(約20 m)、中通は幅6間(約11m)
そして中央部に東西に引かれた道路が大通、 幅58間(約105m)あり
ました。
のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は、厳冬の中で予
算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任さ
れます。
代わって赴いた岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、明治
4年5月に開拓使庁が札幌に移りました。
岩村通俊が明治4年までに火防線となる「大通」を境に北を官庁、
南を商業地としました。大火の延焼を防ぐための空き地を確保する
もので、この線がたびたび火災の広がりを食い止めました。
<札幌神社/現北海道神宮>明治2年9月1日
明治天皇の詔により、北海道開拓の守護神として、開拓三神(大国魂神おお
くにたまのかみ・大那牟遅神おおなむちのかみ・少彦名神すくなひこなのかみ)
を祀る北海道鎮座祭が東京で行われました。
その後、当時の開拓使長官や開拓判官の島義勇らによって札幌に移されました。
現在の北海道神宮の入り口に、島義勇の銅像があります。
(明治4年に現在地に建てられ、札幌神社と名づけられました)
北海道の開拓当時樺太・千島に進出を進めていたロシアに対する守りと
いうことで、正門が北東を向いています。
北海道神宮となったのは、昭和39年のこと。
今は外国からの観光客もたくさん訪れております。
毎年6月14日~16日は北海道神宮例大際(札幌まつり)で、15日は例大祭、
16日は神輿渡御で、4基の神輿に7台の山車が繰り出され、さらに囃子の役
を果たす万灯や維新勤王隊、祭典を運営します。
<士族の廃業>士族の反乱 最後が西南の役
今で言う士族の転業は、そのほとんどが上手く行かず破綻していきます。
当然、新政府に対する不満が噴出。
明治4年には、香川、岡山、兵庫などで暴動。福岡では6万人を超す大規
模なものまで発生しました。
更に、組織だった反乱で、明治7年佐賀の乱、明治9年神風連の乱(熊
本県)、秋月の乱(福岡県)、萩の乱(山口県)、そうして明治10年最後の
反乱となるのが西郷隆盛率いる西南の役でした。
これらの反乱に止めを刺したのが、明治9年の廃刀令と家禄の廃止(秩
禄処分)でした。しかし、新政府はこの対策として<士族授産>を施策の
ひとつとして位置付け明治23年まで続きます。
<士族の廃業>廃藩置県 廃業者194万人
明治元年、明治維新により武家社会は終ります。
廃藩置県(4年)、田畑売買禁止の解除(5年)、地租改正(6年)と立て続
けに封建的な土地制度を廃止。
農民に土地の所有権を認めるとともに地価の3%を地租とする大改革でした。
旧藩では、士族を農工商の職業につかせることを奨励します。
政府は、明治6年より、家禄奉還を願い出た士族には就産資金や公債を保
証、荒蕪地・山林等の格安払下げなどの制度を設けて士族の救済を図りま
す。当時の武士階級は約194万人、この制度が廃止(同8年)される2年
に、約13万5千人もの士族が家禄を奉還、このとき払い下げられた土地は
約8万5千haにも達しました。
開拓使時代の政策と移民 明治2年~3年
明治2年 ●移民政策 移民扶助規則
(6千坪の未開地と共に家屋、家具、農具など支給・3年は米と
塩噌料が与えられる)
移民(送出地⇒入植地)
▲開拓使による募移民 東京⇒樺太
◎土地政策 太政官布告
(第734・蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙
之通被仰出候)北海道分領支配(自費開拓)
明治3年 ●移民政策 東地御親料規則 移民規則
移民(送出地⇒入植地)
▲開拓使による募移民 越後⇒ 札幌
▲魚場持による募移民 奥羽⇒ 根室
▲開拓使産物掛による募移民 能登⇒ 野付
▲仙台藩による移民 仙台⇒ 沙流
▲斗南藩による移民 津軽⇒ 瀬棚
▲伊達邦成家中 亘理⇒ 有珠
▲片倉邦憲家中 白石⇒ 幌別
▲石川邦光家中 角田⇒ 室蘭
北海道の石川啄木の歌碑
石川啄木は明治45年に亡くなりますが、明治40年21歳の時に北海道
にわたります。
明治40年5月函館に移り、9月札幌、更に9月末には小樽、明治41年
1月釧路、3月には釧路を離れる短い期間でしたが、代表的な歌を数多
く残しております。
この間の歌を明治43年、啄木24歳の時に東雲堂書店出版、処女歌集
『一握の砂』として世にだします。
北海道には41の歌碑が刻まれ、銅像とともに親しまれております。
函館市4・倶知安町2・小樽市3・札幌3・岩見沢市北村1・美唄市1
砂川市1・釧路市26。
ちなみに、最もたくさんの歌碑があるのは、岩手の69(盛岡52)です。
歌別の数では
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
が最も多く11箇所。北海道にはありません。
北海道で最も有名な函館大森浜の啄木小公園の
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
は全国で5箇所。一握の砂「我を愛する歌」から。
歌の碑文は、『一握の砂』(5章からなる)のものですが
「忘れがたき人々」の章が主なものです。
小樽市の水天宮にも昭和55年に建立されております。
「かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人人の 声の荒さよ」
函館 湯の川温泉発祥の地は湯倉神社 2
所在地:函館市湯川町2丁目28番地1
一説では、湯倉神社があるこの丘はアイヌのシャチ跡(砦跡)ではなかったとも
言われております。日高の静内に全市を見渡せるシャクシャインのシャチ跡があ
ります。湯倉神社の境内に立ちますと重なる印象が幾つかみつかります。
確かな話しではありませんが、シャチ跡として思い当たるものがあります。
この道南には14世紀以降に和人の流亡者の移住がさかんで、彼らは渡(わたり)
とよばれていました。彼らは志海苔<現函館空港付近>から今の上ノ国町までの
海岸線に12の館を築いていました。
志海苔にあったのが、志苔館(古くは志濃里館(しのりたて)・小林良景館主)で、
アイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点でした。
この志海苔という地名は、松倉川から更に東に志海苔川という細流が流れており、
かつて、この川砂から砂鉄がとれておりました。そのために和人の鍛冶屋村があり、
農具、工具、刀などを打っており、製鉄技術を持たなかったアイヌは鉄製品な
どを交易していました。
康正2年(1456)、アイヌ少年が志濃里(志苔)の鍛冶屋にマキリ(アイヌ刀)を
注文します。ところが、できあがったマキリは粗末で値段も法外なものでした。これで
口論となり怒った鍛冶屋が、斬れるか斬れないか試してやるといって、その小刀で
アイヌ少年を刺し殺してしまいます。
これが誘因となり、アイヌと和人によるコシャマインの戦いが始まり、志苔館はコシャ
マインの戦いでアイヌに攻め落とされてしまいます。
この刺殺に触れて、司馬遼太郎は「この鍛冶のいやらしさに、当時からこんにちに
いたる「和人」というものの象徴を見る印象がある」と「北海道の諸道」で書いています。
ともあれ、湯倉神社のキコリの話しが1453年ころ、アイヌ少年が殺されたのが
1456年となるので、この丘に当時アイヌの砦があったのかも知れません。
ちなみに、コシャマインの戦いは1458年(長禄2年)に、だまし討ちでコシャマイン父子
が上磯町七重浜付近で射殺されアイヌ軍は崩壊します。この党首が後の「松前藩」の
始祖となる花沢館(上ノ国)の客将武田信広でした。