北海道の平野(伊達家の主な集団移住地)
江戸幕府時代の伊達藩は東北全域を領土とし家臣も大人数でしたので
明治維新後で禄高を減封され、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪され
侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられます。
北海道の平野(伊達家の主な集団移住地1)
⇒ 宮城県南東部、現在の亘理町(わたりちょう)周辺を治めていた亘理・伊達家は、
家臣たちと共に現在の「伊達市」へ集団移住した。
北海道の平野(伊達家の主な集団移住地2)
⇒宮城県北部、現在の大崎市「岩出山周辺」を治めていた岩出山・伊達家は、
家臣たちと共に現在の「当別町」(札幌市の北隣)へ集団移住した。
北海道の平野(伊達家の主な集団移住地3)
⇒宮城県南部、現在の白石市周辺を治めていた仙台藩重臣である片倉家(白石城主)は、
家臣たちと共に札幌市周辺「札幌市白石区・札幌市手稲区」と「登別市幌別」(室蘭市北東隣)
へ集団移住した。
北海道の平野(伊達家の主な集団移住地4)
⇒船岡は、亘理・伊達家の入植地に近い場所に入植した(現:伊達市舟岡)。
北海道の平野(伊達家の主な集団移住地5)
⇒角田からは、室蘭市に入植後、元家老等一部を残し現「栗山町角田」に入植した。
(次は十勝平野編)
北海道の平野(当別町編2)
1871年(明治4年)3月2日に北海道へ向けて出発。
移住者は約180人。しかし、「繋富」は土質が悪く砂地が多いため作物は育ちませんでした。
困窮を極め開拓使に嘆願したところ、同地を視察に訪れた開拓使長官より開拓地を移ること
を許され、今の当別を許可されます。
当別への移転は1872年(明治5年)を予定し、伊達邦直は岩出山に戻り再度移住者を募り、
第2回目の移住者は182人で第一陣と合流し当別の開拓に当たります。
当別町出身の小説家本庄陸男(1939年7月23日没)が「石狩川」として残し
今もなお長編歴史小説として親しまれています。
小説「石狩川」は北海道の開拓初期のことが良くわかりますので、北海道を
訪れる人や北海道の歴史を知りたい方には一読をおすすめします。
昭和31年に東映が小説「石狩川」を映画化しました。
「大地の侍」(大友柳太郎主演)です。
幻のフィルムとも言われていますが、当別町にある「伊達邸別館」で一部を観ることができます。
「どうしても北海道の旅」の写真は、この本庄陸男の文学碑です。石狩川河口の堤防に立っています。
本庄陸男の生誕の地は、現在ロイズの工場となり、こちらにも碑が立っております。
「いの一番にこの川を見つけたのは肥え太った鮭の群れでもあったろうか」が掘り込まれております。
北海道の平野(当別町編1)
北海道開拓の
歴史は明治維新後(明治2年)旧幕府家臣によって始まります。
江戸時代末期の仙台藩一門・岩出山「伊達家」当主伊達邦直は、
北海道開拓に身を投じ今の当別町の基礎を築いた人です。
伊達邦直は、明治維新後それまで一万四千石あった禄高を六十五石に
減封され、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪されました。
侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられ、伊達邦直は私財を処分し
得た資金で新政府の推し進めていた北海道開拓を志願します。
北海道開拓の願を許され1869年(明治2年)石狩国空知郡の支配を
命ぜられます。しかし、この地が問題でした。
空知郡は内陸部で物資の輸送等が困難のため海岸近くへの移転を
申し入れます。しかし、叶わず家老が太政官に申し入れたところ不届き者
で自宅謹慎を命ぜられる始末でした。
明治3年伊達邦直は北海道に渡り調査を行います。
政府から指定された入植地は大雑把な指定で、何処を開拓するかは
現地開拓使との交渉が必要でした。
空知郡では開拓の見込みが立たないことから、交渉の末厚田郡繋富
(シップ・石狩市厚田区聚富)の荷揚場を借用する事が認められます。
十勝平野
十勝平野(とかちへいや)は、
北海道東部の台地性の平野です。西は日高山脈、北は石狩山地、東は白糠丘陵に囲まれており、南部は太平洋に面しています。
十勝平野の面積は、全北海道の10%ほどを占め、この数字は、東京・千葉・神奈川の合計面積を上回ります。
平野の中を十勝川が流れており、中心付近には帯広市があります。
土地は火山灰を多く含み、農業は広い耕地に機械を活用した大規模農業が盛んであり、畑作や酪農が中心となっています。
農家一戸当たりの平均耕地面積は全国平均の約24倍
大豆、小豆、甜菜、じゃがいもなどの有数な産地であり、北海道一の畑作地帯である。
日本最大の食糧基地(2009年度の生産量)
小麦の生産数量
全国674,200t(全道59.3%・十勝24.5%)
甜菜(てんさい)の生産数量
全国3,649,000t(全道100%・十勝41%)
生乳の生産数量
全国7,881,000t(全道49.9%・十勝13.5%)
小豆の生産数量
全国52,800t(全道88.1%・十勝51.8%)
北方領土問題 84
ノモンハン事件 26
第二次ノモンハン事件
両軍が得た軍事的教訓
両軍とも、ノモンハン事件を局地戦とみなした。
ソ連は、ノモンハンでの勝因を押し広げようとしなかった。
ソ連軍の兵站組織は旧態依然で、量的にも不十分であった。戦車は歩兵支援のために分散され、戦略的規模で用いる機動打撃軍は作られなかった。
ソ連軍は、むしろ1939年のソ連・フィンランド戦争から、陣地防御への信頼を強めた。
1941年1月にジューコフが参謀総長になっても、目立った改革は起きず、赤軍は独ソ戦初期に壊滅的損害を被った。
日本は、軍部の威信低下を避けるため、国内に対して敗北を隠し、新聞はノモンハンでの日本軍の圧勝を報じた。
また、軍内部においては敗北の責任を参加将兵の無能と臆病、および政府の非協力に帰し、参加将兵に緘口令をしいた。一般の日本人が敗北の事実を知ったのは、戦後になってからだった。
陸軍はノモンハン戦後に「ノモンハン事件研究委員会」を組織しその敗戦の要因を研究したが、装備の劣勢や補給能力の低さを認識したものの抜本的なドクトリンの改革には結びつけず、“軍の伝統たる精神威力の更なる鍛錬を”と精神論に堕した。
太平洋戦争後半において新型の中戦車開発に経験は活かされたものの、生産も投入も間に合わず、また戦車の対戦車性能を改善する教訓も十分に生かされず、結果として第二次大戦末期に至るまで旧式な装備を使用する事となり連合軍戦車・対戦車装備との陸上戦で苦戦する一因となった。
反面、日本陸軍の航空機・装備開発や運用面では大きな影響を与えた。
防弾装備(防弾鋼板、防漏燃料タンク、風防防弾ガラス)の研究・装備、無線装備(無線電話)の質向上と効果的利用、単機空戦から編隊空戦への移行・強化、飛行戦隊(独立飛行中隊)と飛行場大隊(飛行場中隊)の空地分離など、陸軍航空の更なる近代化を重視する考えが内部に生まれた。
また、将来は陸軍航空隊の中核幹部となる若手将校・下士官らベテラン・パイロットを多数失ったことは、陸軍戦闘機隊の崩壊さえ招きかねない事態と危惧され、下士官からの叩き上げパイロットへの陸軍航空士官学校における部隊指揮官教育を経ての将校登用(少尉候補者制度)を積極的に進め、さらに少年飛行兵の募集を強化するなど、海軍に先駆けて航空戦力の拡充を図る端緒となった。
九七戦がソ連軍機に対してその旋回性能が最後まで強力な切り札だったことから、陸軍航空隊では格闘戦重視の軽戦闘機が主流となったが、一方で高速重武装(重戦闘機)へと発展を遂げている世界情勢もノモンハンでの戦訓と相まり強く認識され、太平洋戦争開戦に至るまで卓上では最後まで結論は出なかった。
そのため運動性重視の軽戦一式戦「隼」と、速度と武装重視の重戦二式単戦「鐘馗」の二つの単座戦闘機がほぼ同時期に採用・実用化され、のちにバランスの取れた四式戦「疾風」へと進化した。
北方領土問題 83
ノモンハン事件 25
第二次ノモンハン事件
他兵科との協同を軽視したのは日本軍戦車部隊も同様であった。7月3日に敵陣地に対する正面攻撃を実施した戦車第3連隊は、陣前に張られたピアノ線に履帯を絡めとられた。
装甲が薄い日本戦車は被弾すれば必ず撃破されるため、敵前での停止は致命的であった。
大損害を受けてから歩兵との協同行動の必要を認識したが、ノモンハンで再戦する機会は来なかった。
ソ連軍で最も損害の大きかった部隊は第11戦車旅団であった。
緒戦よりBT-5で戦闘に参加し大きな損害を出し、7月23日~8月28日の間にBT-7を155輌供給されていた。8月20日にはBT-5やBT-7など154輌で戦闘に参加、しかし続発する損害や故障に修理や補給が追いつかず、30日には稼働38輌・死傷者349名と、再び壊滅状態に陥っている。
戦後、ノモンハン従軍の元日本兵に日本のTV局が番組取材で収録した記録によると、ソ連戦車には乗員ハッチ外側から南京錠による施錠がなされていたとの証言がある。
逃亡を防ぐ目的及び督戦のための処置ではないかとの証言であった。
ハッチが外側から施錠されているため戦車が撃破された場合乗員は脱出できず、脱出していれば助かったであろう命が失われたことになる。
ノモンハン事件 24
第二次ノモンハン事件
日本の戦車は、比較的装甲の薄いソ連戦車との戦闘でさえも質・量ともに苦戦を強いられた。数ではソ連軍が500両以上の戦車を投入したのに対して、日本は中戦車38両と軽戦車(九五式軽戦車)35両の73両(他に装甲車が約20両)を投入したに過ぎず、また戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかったが、このわずか4日間で、73両の戦車のうち30両近くが撃破された。
関東軍中央は大きな損害を受けた戦車部隊を撤退させたが、これはさらに戦車を失うことで、もともと少ない戦車部隊の拡充が困難になることを恐れてのことであった。戦車部隊の撤退によって、現地部隊はますます歩兵による戦車攻撃に依存せざるをえなくなる結果となったが、多くの敵戦車を対戦車砲や野砲で撃破した。
ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦闘が繰り広げられた。日本軍歩兵は戦車に対して対戦車砲の待ち伏せで対応、さらに地雷工兵と火炎瓶部隊が加わった。
発火性の強いガソリンエンジンを装備するソ連戦車は、火炎瓶攻撃の前にたやすく炎上した。ただしソ連崩壊後に公開された資料により、地雷や対戦車砲で行動不能になった状態で炎上させられた物は多いが、機動力を失わない状態で撃破された物はごく少ない(対戦車砲による損害が75~80%なのに対し、火炎瓶によるものは5~10%)ことが判明している。
しかしソ連戦車隊は後に戦闘隊形を変更、前衛の戦車を後衛が支援する戦術で地雷工兵や火炎瓶攻撃を封殺、その成功率を激減させた。なお昔から日本語の資料では「機関部の周囲に金網を張って火炎瓶避けにしたり、発火性の低いディーゼルエンジン装備の戦車を配備すると、効果がなくなった」などと記述されているが、過去・近年のソ連・ロシア側からの研究ではこういったことは全く記述されていない。またBT自体もより詳しく考証され、ディーゼル型のBT-7M(後にBT-8)はノモンハン事件より後の12月から軍に引き渡されたことが記録されているなど、時期的にも否定的な要因が多い。