北方領土問題1
北方領土の歴史について。
領土問題は江戸後期の
大黒屋光太夫と高田屋嘉兵衛まで遡ります。
大黒屋光太夫(1751年-1828年)は井上靖「おろしや国酔夢譚」
高田屋嘉兵衛(1769年-1827年)は司馬遼太郎の「菜の花の沖」
として小説にもなっております。
大黒屋光太夫は現在の三重県鈴鹿市、
高田屋嘉兵衛は淡路島出身の廻船(運輸船)船頭でした。
高田屋嘉兵衛の銅像が函館にあります。
函館の護国神社へ通じる高田屋通り、函館山を背に3.6メートルの銅像が
建っております。高田屋の銅像はゴローニンを迎えるために函館に来航した
時を再現しているもので当時43歳。
帯刀し、右手には松前奉行からの論書を、左手には正装に着替えた際に
脱いだ衣装を持つ像。この銅像は北方領土の始まりでもあります。
高田屋嘉兵衛は1769年(明和6年)に淡路島に農民の子として生まれ
ましたが、漁業に従事し18歳で兵庫に出て廻船業者を志しました。
1795年(寛政7年)、高田屋嘉兵衛は庄内で1700石積の辰悦丸を建造し
本格的に廻船業として蝦夷地経営へ乗り出します。
1799年(寛政11年)、高田屋嘉兵衛は択捉島開発の命を幕府より受けました。
当時、国後と択捉の間は、潮流が早く、危険な水域とされ、交易品や人員を大量
に輸送する回船のルートを切り開く必要がありました。
高田屋は、国後島東端のアトイヤで20日間山に登り潮流を研究し、3筋の潮流
がそれぞれ別の方向に流れていることを知り海峡を直線的に渡るから危険なのであって
潮流の衝突を迂回すれば安全な航行ができると考えました。
栗林元二郎(芽室町出身)2
月寒の丘に八紘学園誕生
どんな手段を使ったかは分からないが、実際に斉藤子爵の紹介状をもって帰り、北大から佐藤昌介、南鷹次郎、拓銀の松本頭取、池田北海道庁長官などの支援を受けることになる。金がないから、ひたすら自分の信念を説くだけの戦法である。「狭い日本で農業を続けているような時代ではない。海外に雄飛する青年を育てよう」。
そこで学園には「八紘」の言葉を入れた。このあたりから「ホラ吹き栗林」の陰口が聞かれるようになるのだが、それはむしろ、彼を取り巻く一流人が、愛をこめて呼びはじめたものではないだろうか。
八紘学園は学園創設から7年の歳月をかけて磐石の基礎を作り上げた。
学園の名物の一つにジンギスカン鍋がある。これは昭和19年、月寒の二十五連隊が樺太(サハリン)に移動するとき、栗林が壮行会を開いたことに端を発する。兵隊たちにはヒツジの肉であることを伏せ、モンゴル帝ジンギスカンの「雪原の闘い」をはなむけの訓話とした。羊肉の食習慣は、大正時代にさかのぼるようだが、ジンギスカンと呼びはじめたのは栗林の訓話によるものと考えられる。
栗林元次郎が手八丁口八丁の人生を終えたのは、昭和52年2月。いまも残る栗林邸には、そんな彼の人生を物語る数々の遺品が保存されている。
栗林元二郎(芽室町出身)1
移民団長として開拓に成功
栗林元二郎は明治29年(1896)、秋田県雄勝郡川連(かわつら)村(現稲川町)の農家に生まれた。雄物川の流域はうち続く大水害で疲弊のドン底にあった。とくに明治43年の洪水の惨状は、90年を経た今日でもなお生々しく残っているほどだ。これらの洪水禍をきっかけに県南一帯に北海道移住熱が蔓延する。
元二郎のところへ村の青年たちがやってきた。北海道移住の団長になってくれというのである。22歳の春であった。頼まれれば嫌とはいえない性格である。二つ返事で引きうけた。親にも村長にも反対されたが、逆に郡長から激励の言葉と5円の餞別を贈られ、にわかに駻馬は嘶いた。「よし、おれは村よりデカイ農場を作って見せる」。
大正8年、彼のあとに従った移民団一行は80名。さっそく北海道庁へ顔を出し、芽室町上美生の土地を手に入れる。「すべて実行、なんでも実行」とつぶやきながら団員を督励し、3年目には200㌶の開拓を見事に成功させる。
北海道の移民担当になる
元二郎の実績に、北海道庁は功労賞で報いた。さらに北海道の嘱託として移民招致係になって欲しいと頼まれる。大正13年のことであった。
道庁嘱託の辞令を受けた元二郎は、突然「活動写真をつくる」と言い出して役人を慌てさせる。筋は東北からやってきた一農村青年が北海道で開拓に成功し、道庁の表彰を受けるというもの。なんのことはない元二郎そのものの伝記映画である。
どのように予算を工面したかは不明だが、主演は曾我廼家五郎、役者一行40名を札幌の円山公園に作ったオープンセットに缶詰にし、制作費1800円也でPR映画を作ってしまった。
この映画を担いで、元二郎は東北各県を興行して歩いた。映画が終ると北海道移住を説き、クライマックスには伊達一族の北海道開拓物語で盛り上げた。戊辰の役で、悲運を一身に背負った東北の雄藩「伊達家」の開拓成功譚は、東北人の涙を誘い、大地への夢をかきたてた。
これをきっかけに、伊達家から招待を受ける。どうやら歴史家と勘違いされたらしい。
人生の方向転換をする
彼が移民係としてどれほどの成果をあげたかは明らかではない。大正14年夏に、腹膜炎により手術5回、まさに九死に一生の体験をし、ガラリと人生観を変えてしまった。こんな体になっては、村よりデッカイ農場は作れそうにない。それならば若いものを教育して俺の夢を実現してもらうのだ。
退院後、彼は独学で教員資格をとり、札幌の殖民学校農学科主任講師に転身する。元二郎、並の開拓農民ではなかった。そして学校づくりの準備をひそかに始めた。とはいっても裸一貫無一文の身の上である。学校の立地は教員のいる札幌でなければならない。北海道大学には、数え切れないほどの専門家がいる。実習には100㌶以上のまとまった土地が必要だ。しかしその頃の札幌には、すでにそんな土地はなかった。
そこで彼は一計を案じる。第一級の人物を味方につけるのだ。目をつけられたのは斉藤實(まこと)子爵。のち総理になり、二・二六事件で暗殺される人物だ。伝手を頼って元二郎はグサリと斉藤子爵の懐に飛び込んだ。
北海道の歴史を刻んだ人々
吉田 善太郎(よしだ ぜんたろう)3
北海道農業専門学校の敷地内ある札幌軟石で作られたサイロ。さっぽろ・ふるさと文化百選および、都市景観重要建築物に選定されている
旧吉田牧場(現:八紘学園牧場地)
畜舎・サイロ(現:八紘学園資料館)
1904年(明治37年)に創設。その後、栗林元二郎(八紘学園の創始者)が資料館として保存。
1988年(昭和63年)さっぽろ・ふるさと文化百選第40号に指定。
2006年平成18年3月7日都市景観重要建築物等(現:札幌景観資産)第9号に指定。
別荘(現:八紘学園栗林記念館)
1909年(明治42年)に創設。その後、栗林元二郎が記念館として保存。
1988年(昭和63年)さっぽろ・ふるさと文化百選第40号に指定。
2006年平成18年3月7日都市景観重要建築物等(現:札幌景観資産)第8号に指定。
旧月寒村教習所(現:札幌市立月寒小学校)の創設に貢献。
旧月寒村役場(現:月寒公民館)の創設に貢献。
旧大谷地簡易教習所(現:札幌市立大谷地小学校)の創設・移転に貢献。
1893年(明治26年)、善太郎の敷地(現:栄通しらかば公園)付近に設立。
吉田の道普請(現:東北通)
この道路は開拓時代の農道で、善太郎の敷地を横断しており、実費で道路の補修工事をしていたため、近隣住民より称されていた。
吉田 善太郎(よしだ ぜんたろう)2
善太郎の死後
吉田一家は、善太郎の意志を受け継ぎ、農耕・牧畜業に専念する。
1918年(大正7年)12月1日善助より政府に、札幌郡白石村字野津幌(現:江別市野幌)の土地(畑五段五畝十七歩)を寄贈する。
1921年(大正10年) 善助の三男善哉が誕生する。
1924年(大正13年) 善助の所有地、篠路町拓北(現・北区あいの里)に水田耕作を行うため、旧石狩川(現:茨戸川)より灌漑用水路を引く、拓北用水路が開始。
1929年(昭和4年) 補修工事が施され、完成。
1928年(昭和3年) 善助は権太郎(善太郎の弟)の影響により、白老社台地区に移住し、アメリカよりサラブレッドを購入し、社台牧場を創設。経営・育成を行う。後に善哉は、千葉社台牧場(後の社台ファーム千葉)を設立し独立(社台グループ)、サラブレッド牧場の経営・育成に専念。
1932年(昭和7年) 善三の牧場地(現:東月寒公園一帯)の土地を黒澤酉蔵(雪印乳業創設者)の弟、黒澤和雄(豊平町議員)に売却(サイロ・畜舎は、後の東月寒白樺会館となる)。
1933年(昭和8年) 牧場地(現:八鉱学園一帯)の土地を栗林元二郎(現:八紘学園創設者)に売却する。
史跡・跡地など
吉田川
旧北海道農業試験場(現:北海道農業研究センター)敷地内の小川より水を引く灌漑用水路(吉田用水)を開拓し、下流に水田を(現:清田区北野地区)開設。後に川は整備され吉田川と命名された。
吉田善太郎功労碑
1910年(明治43年)用水路を作り、水田耕作や土地の寄贈など月寒の発展に貢献したことにより月寒公園(月寒神社境内)に建立。
吉田用水記念碑
1919年(大正8年)10月に用水路創設の起点地(現:清田1条1丁目北海道コカ・コーラボトリング)に建立。
吉田川公園
吉田川下流域(豊平区体育館付近)に隣接する公園。川の名称より命名。
吉田山公園・吉田山2号公園
かつて南郷一帯の丘陵(現:南郷18丁目駅付近)を吉田山と称されており、その名称より命名。
旧吉田農場・牧場→旧黒澤牧場畜舎・サイロ(現:東月寒白樺会館)
吉田 善太郎(よしだ ぜんたろう)1
1861年4月 – 1916年は、北海道札幌市の開拓功労者の一人。
陸奥国南岩手郡上田村(現:岩手県盛岡市)出身。
豊平村農会初代会長・藍綬褒章受賞。
開拓範囲
旧北海道札幌郡の開拓地・所有地
月寒村東月寒地区→現:札幌市豊平区(月寒東・羊ケ丘・福住)地区
白石村大谷地地区→現:札幌市清田区(北野・清田)地区
白石村大谷地地区→現:札幌市白石区(栄通・南郷・本通南)地区
白石村野津幌地区→現:江別市野幌地区など
来歴
1861年(文久元年)4月 善太郎の父、吉田善治の第一子として出生。
1871年(明治4年) 廃藩置県のため北海道札幌郡月寒村(現:豊平区月寒中央通7丁目月寒公民館付近)に入植し、木炭製造をする。
1881年(明治14年) 善治が死去。善太郎が家業(木炭製造)を受け継ぐ。
東月寒(現:栄通18丁目コープさっぽろルーシー店付近の公園一帯)に移住。
吉田農場(現:東月寒公園一帯)を開設し、東月寒の地を開拓し、農耕業・木炭製造業を営む。
1891年(明治24年) 灌漑用水路「吉田用水」(現:吉田川)が完成し、水田耕作が普及する。
善助が誕生(善太郎と前妻の間に一男一女を授かり、その後、後妻との間に四男一女を授かる)。その後、善三が誕生。
1893年(明治26年)、善太郎の敷地(現:栄通しらかば公園)付近に旧大谷地簡易教習所(現:札幌市立大谷地小学校)を創設に貢献。その後、1899年(明治32年)に現在の地に移設の際にも貢献した。
1897年(明治30年) 吉田牧場を開設(現:八紘学園牧場地)し、牧畜・農耕業を営む。
善助をアメリカに酪農留学させる。
1904年(明治37年) 畜舎・サイロ(現:八紘学園資料館)が完成。
乳牛(ホルスタイン種)20頭をアメリカより輸入(日本初の試み)。
1909年(明治42年) 別荘(現:八紘学園栗林記念館)が完成。
1916年(大正5年)死去。
宗谷総合振興局(商工業)
商業
平成19年商業統計調査における管内の卸売業及び小売業の年間商品販売額は、全道の1.2%を占める2,104億円で、平成16年と比較すると107億円減少。
町村別では、稚内市が管内の年間商品販売額の75.0%を占めています。
事業所数は1,057店と、全道の1.8%。平成16年と比較すると129店減少しており、減少率は10.9%で、全道平均の9.7%を上回っています。
こうした中、稚内市においては中心市街地活性化に向けた取組が進められているほか、地域の商店街ではポイントカード事業が導入されるなど、商業の活性化が推進されています。
工業
平成20年工業統計調査における管内の事業所数は188事業所であり、また、製造品出荷額等の総額は、約980億円で、全道の1.7%を占めています。
産業別では、食料品製造業の割合が89.2%と高く、全道平均の32.5%を大きく上回っており、また、その内訳としては水産食料品製造業が大部分を占めています。
また、市町村別では、稚内市が管内の製造品出荷額等の58.7%を占めています。
管内では、主要農産品である牛乳を使ったチーズなどの農産加工品や、ホタテ、ホッケ、オオナゴなど豊富な水産資源を活用した水産加工品、その他地域の資源を活用した製品の開発・検討が企業や研究会組織において進められています。
宗谷総合振興局(水産業)
全道の漁業生産量(H20)は、数量が約133万トン、金額が約2,806億円となっており、そのうち宗谷管内は、数量で約22万トン(全道2位)、金額で約338億円(全道4位)沿海12支庁のなかでは上位の水揚げを誇ります。
管内の魚種別では、「ほたて」が数量(約59%)、金額(約41%)ともに1位となっており、以下金額で、「なまこ」「ほっけ」「こんぶ」「さけ」「みずだこ」の順で構成されます。
管内の主要魚種は海域により大きく異なり、オホーツク海側は「ほたて」「さけ」「毛がに」が、日本海側は「うに」「こんぶ」「ほっけ」となっています。
持続的な資源の利用を図るため、毛がにの漁獲許容量を設定しており、また、資源の増大を図るため、さけ、にしん、ひらめ等の種苗放流やほっけ、かれい、たら、みずだこ、こんぶ、うに等の漁場の整備を推進しているとともに、漁業生産活動の拠点となる漁港(管内38港)については、生産性の向上や就労環境の改善などを目指し、岸壁・防波堤の整備や防風柵の設置を行っています。
離島地域における漁業就業者は急速に減少・高齢化が進んでおり、新規漁業就業者の確保が大きな課題となっています。このため、関係者で組織する地域漁業就業者対策協議会では、「漁業体験研修(漁師道!)」を実施するなど、地域が一体となった就業者対策に取り組んでいます。
また、若い世代を中心に進行する「魚離れ」の改善を図るため、主に小学生を対象とした地域漁業者(宗谷管内漁業士会)による『出前授業』を実施し、魚食文化や水産業に対する知識と理解を深めています。
宗谷総合振興局(林業)
管内の森林蓄積は、ha当たり98㎥で、全道平均118㎥を大きく下回っています。
これは、過去の伐採や林野火災などにより多くの森林が失われ、加えて宗谷の厳しい気象条件が森林再生を困難なものにしていることに主な要因があります。
このため、無立木地などへの造林、間伐など森林の整備を積極的に進めています。
長期化している木材価格の低迷や林業労働者の減少・高齢化など林業を取り巻く環境は依然として厳しいものがありますが、林業と木材産業の連携強化や森林の整備、木材の生産活動に不可欠な林道網の整備などによりコスト低減に努めています。
また、山地災害の予防・復旧や保安林の整備などを行い、私たちの貴重な財産である国土の保全や森林の持つ公益的機能の高度な発揮を図っています。
森林とのふれあいにより、森林の持つさまざまな働きに対する理解を深める機会として、地域住民、みどりの少年団、ボランティア団体などへの育樹指導や植樹祭開催などを通じ、道民との協働によるみどりづくりを進めています。
管内の農業は、昭和30年代の冷害などを転機として、それまでの馬鈴しょ等の畑作中心から酪農中心へと移行し、地域の気候風土に合った形態へと発展してきました。
広大な1戸当たりの耕地面積を背景とした大規模な草地型酪農が展開される道内有数の酪農地帯となっています。ただし、離島3町では、野菜を中心とした自給的な農業が営まれています。
生乳受託販売量は平成18年度の減産型計画生産により減少したものの、平成19年度から一転して増産型計画生産となり、約28万1千トンとなっております。
農業の国際化などにより畜産・酪農を巡る情勢が厳しくなっているため、管内の酪農経営も一層のコスト低減や良質乳生産の拡大が求められています。このため、計画的な草地整備改良の推進や放牧の導入など自給飼料の有効活用を進めるとともに、家畜ふん尿の適正処理と有効活用による環境調和型農業の推進に努めています。
また、農業者の高齢化や担い手の減少や、1戸当たりの飼養頭数の増加により農作業が重労働となっているため、営農支援組織の育成と、それを核とした協業化システムや、集約型放牧酪農も積極的に推進するとともに、ゆとりある安定的な酪農経営の実現を目指しています。