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真弓(まゆみ)CIMG0500.JPG

 

(「檀」「檀弓」とも書く)・錦木(にしきぎ)科。                   

             

日本と中国の林に自生する。秋に果実と種子、紅葉を楽しむ庭木として親しまれ、盆栽に仕立てられることもある。

落葉低木、または小高木。雌雄異株。葉は対生で細かいのこぎり歯(鋸歯)があり、葉脈がはっきりしている。1年目の枝は緑色をしている。

花は初夏、新しい梢の根本近くにつく。薄い緑で、四弁の小花。果実は枝にぶら下がるようにしてつき、小さく角ばった四裂の姿。

秋の果実の色は品種により白、薄紅、濃紅と異なるが、どれも熟すと果皮が4つに割れ、鮮烈な赤い種子が4つ現れる。

市販のマユミは雌木しか出回っていないが、雌木1本で果実がなる。

剪定をする場合は落葉中に行う。成長は早い。若木のうちに樹形の骨格を作り、分枝させたら、その後の強い剪定は避ける。切り詰めすぎると花と果実がつかない。根が浅く、根元が乾燥しすぎると弱り、果実が落ちる。水分条件さえ良ければ剛健で、病害虫はあまり発生しない。実がかなり遅くまで残るので、秋と冬にはヒヨドリやメジロが食べに来る。

 

利用方法

材質が強い上によくしなる為、古来より弓の材料として知られ、名前の由来になった。

この木で作られた弓のことや、単なる弓の美称も真弓という。和紙の材料にもなったが、楮(コウゾ)にとって代わられた。現在では印鑑や櫛の材料になっている。

新芽は山菜として利用される。天麩羅やおひたしなどに向く。なお、種子に含まれる脂肪油には薬理作用の激しい成分が含まれており、少量でも吐き気や下痢、大量に摂取すれば筋肉の麻痺を引き起こすため、種子や種は食べてはならない。

 (支笏湖にて撮影)
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風不死岳(ふっぷしだけ)_mt-fuppushi.jpg

 

地質は安山岩質の成層火山で溶岩ドームを持つ。
支笏カルデラの後カルデラ火山である。
同じく後カルデラ火山の樽前山、恵庭岳より古く侵食が進んでいる。

山麓には幅が極めて狭く深い峡谷がいくつもあり、そのひとつが苔の洞門である。

 

千歳市にあるの第四紀火山。標高は1102.5m

「ふっぷし」という山名は、
アイヌ語のフップ・ウシ(トドマツのあるところ)から由来した地名です。
その名の通り、かつては見事なトドマツの純林に覆われていたが、
1954
年の洞爺丸台風で大量の風倒木を出し、往時の面影はない。



 

畔柳二美(くろやなぎふみ)

1912114-1965113日 小説家。
千歳市に生まれ、1928年北海高等女学校(現札幌大谷高等学校)卒業。

 

 

CIMG0502.JPG 畔柳二美の「姉妹」について

 作者畔柳二美(旧姓遠藤)は1912年(明治45年)114日、
 北海道千歳郡千歳村(現在の千歳市字水明郷)の王子製紙株式会社
 千歳第一発電所の社宅に、発電所技師であった父遠藤彌次郎、
 母サキの次女として生まれている。姉八重、弟彌弘、満、實の五人姉弟
                  であった。

 1918年(大正7年)発電所内の私立小学校に入学したが、一年程で
発電所の勤務が北海道虻田郡狩太村(現在のニセコ町)に移って、
狩太尋常小学校に転校し1924年(大正13年)三月卒業、同年四月に
札幌市の北海高等女学校に入学している。
そして四年制だった同校を19283月に満16歳で卒業したのであるが、
「姉妹」はこの頃の彼女自身の自伝的要素が色濃く滲んだ世界で構成されている。
 
女学校在学中から文学に深く親しんでいた彼女は、
佐多稲子(当時は窪川稲子)の「キャラメル工場から」に深く感銘を受けファンレター
を送ったのが切っ掛けとなって、文通が始まり、日本プロレタリア文化連盟(コップ)
発行の「働く婦人」を読むように勧められている。
1932年(昭和7年)彼女が20歳の頃であった。

 遠藤二美は1933年(昭和8年)3月にマリー・ルイズ美容学校に通うため
上京して東京生活が始まり、窪川稲子にも面識を得るようになった。

しばらく付合ううちに窪川稲子は彼女の人柄に好感を持って、作家仲間の結婚相手
にと考えたこともあったようだが、彼女には1935年(昭和10年)頃に知り合った
東京帝国大学法科学生の畔柳貞造がいて、やがて1936年(昭和11年)に結婚して
畔柳姓になっている。

 大学を卒業した夫の勤め先が阪神電鉄であったから、
1937
年(昭和12年)4月からの新婚生活は関西で始まっている。
当初は尼崎市出屋敷に新居を構えたが翌19385月には兵庫県武庫郡瓦木村
(現在の西宮市甲子園口)に移り、敗戦後の194811月に戦争未亡人となって
再び上京するまでこの地に住んだ。

 最愛の夫畔柳貞造との幸せな夫婦生活は、しかし僅か数年で不条理な時代の
流れによって断ち切られた。
1941
年(昭和16年)128日、米国、英国相手の太平洋戦争が始められて間もなく
1942年(昭和17年)4月に、貞造は赤紙の召集令状を受けて陸軍に入隊し、
やがて中国大陸からフィリッピンに転戦して1945年(昭和20年)1月にレイテ島にて
戦死を遂げるのであるが、その公報が妻の二美に届くのはようやく
1948
年(昭和23年)3月になってからであった。

 ささやかながら幸福な庶民の家庭生活や将来への人生設計が、赤紙一枚によって
無惨に奪い去られた戦争未亡人の憤怒、絶望、悲哀は、後々に
畔柳二美の好短篇小説「限りなき困惑」「川音」に結実することになる。
ちなみにこの二作品は1951年(昭和26年)の芥川賞候補にのぼっている。

 フィリッピン派遣軍に配属していた夫貞造の生存が絶望的となった
1946年(昭和21年)秋頃より、文学にたいする情熱をかきたてることで
人生を遣り直す意慾を持ち始めたのでもあろうか、佐多稲子との文通を再開していた
畔柳二美は小説の習作を送り指導を仰ぐようになった。

 1948年(昭和23年)夫の戦死公報を受取ってしばらく経った4月頃、
先に送ってあった短篇小説「夫婦とは」が佐多稲子のかなり高い評価を受けて、
やがてその推薦のもとに、再刊が予定されたいた『女人芸術』への掲載が決った。
そして無事の帰還を待った西宮の留守家屋に住まういわれもなくなったので、
佐多稲子の熱心な勧誘もあって194811月に再上京して武蔵野市吉祥寺に移ったのであった。

 1949年(昭和24年)1月発行の『女人芸術』に掲載された処女作「夫婦とは」は、
女性には珍しい鋭利な筆法で民主主義新憲法下での夫婦生活を諷刺した好短篇で、
当時朝日新聞の大阪本社学芸部に在籍していた澤野久雄が、署名入りの好意的な
書評を夕刊囲み欄に寄せている。

 満年齢37歳はやや晩生ではあったけれど、好調に文壇へのデビューを果せた畔柳二美
は、「一年に一作発表の心細い作家稼業」と自嘲していたが、
1950年(昭和25年)2月『人間』に「銀夫妻の歌」、1951年(昭和26年)7月同じく『人間』に
「限りなき困惑」、同年8月『文芸』に「川音」などを発表している。
これら一連の作品は、少女時代より正義感が強く世の中の不条理や矛盾に敏感に反応し
てきた畔柳の、いわば「抵抗の文学」ともいえる作品群であった。

 1953年(昭和28年)になって、親しく交際していた佐々木基一から、評論ばかりの堅苦しい
『近代文学』に、女流作家の小説を載せて柔らかくしたいので書いてみないかとの誘いを受け、
7月号に「姉妹」を発表している。
気楽な気持で書いたというこの作品が好評だったので続篇を書くように要請され、
翌年の2月号まで飛び飛びではあるが計四回の連載作品となった。
連載中から出版社の編集者の目にも留まり、佐多稲子からの口添えもあって
1954
年(昭和29年)6月に講談社から単行本として出版された。

CIMG0503.JPG 「姉妹」は前にも述べたように、畔柳二美の自伝的色彩の
 濃い世界で構成されている。
 北海道の山の中の発電所に育った二人の女学生、姉圭子
 と妹俊子を中心にして、大正末期から昭和の初めにかけて
 の世相や生活が、生き生きとした弾むような文章で綴られている。
 そして快活で鋭い感受性を持ち、人生や社会の不条理や矛盾に
                  精一杯反撥抵抗する妹俊子の性格と行動は、作者畔柳その人
                  を髣髴とさせるのだが、読者は思わず主人公を愛さずには居れなくなるだろう。
 そしてこの処女出版の長篇小説「姉妹」は、昭和29年度の毎日出版文化賞を受賞した。
作者自身は全く思い掛けないことだったようで、受賞の知らせを伝えられたとき、
「それは出版社が貰う賞なんでしょう」と他人事のような顔をしていたという。

 「姉妹」発売後の早い時期から映画化の話が持ち上がり、
1955年(昭和30年)4月に、独立映画制作中央映画配給により、
家城巳代治監督、新藤兼人・家城巳代治脚本、野添ひとみ・中原ひとみ
主演の映画「姉妹」が、全国の松竹系映画館で封切られている。

 この時期を境目として畔柳二美は所謂売れる作家の仲間入りをしたようで、
編集者の註文が殺到して経済的にも余裕が生じ、1956年(昭和31年)7月中野区野方に
手頃な新居を建てることも出来た。
しかし仕事を消化するのに夜昼を取り違える生活が続くようになり、いつしか執筆の無理が
積もりに積もっていたのだったか、晩年のほぼ二年間は体の不調をしきりに訴えるようになっていて、
1964
年(昭和39年)9月に東京大学附属病院木本外科に入院手術を受けたのだが、
すでに手遅れの腹部癌で、1965年(昭和40年)113日に野方の自宅で亡くなった。
明日が53歳の誕生日という前日のことであった。

 畔柳二美は「姉妹」「こぶしの花の咲く頃」「風と雲と」「大阪の風」「白い道」
「ポプラ並木は何を見た」ほかの長篇小説、「山の子供」「深夜の小駅」
「青いりんごのふるさと」ほかの短篇小説集、
そして随筆集一冊、外国小説の翻訳書一冊の、合計十八冊の著書を残している。

 「姉妹」やその続篇「こぶしの花の咲く頃」、ならびに「青いりんごのふるさと」や
「ポプラ並木は何を見た」などは、作者が生まれて少女時代を過ごした大正から昭和初期の頃の、
北海道の自然や人々の生活が舞台になっている、いわば「姉妹」の延長線上の作品群といえる。

それなりに社会や人生への鋭い観察や批判も含まれ、成長期の少年少女たちの撥剌とした
生態が爽やかな印象を与えてくれる。
けれども文学少女の頃より、ゴーリキーやチェーホフ、あるいはドストエフスキーやゴーゴリの
ロシア文学や、我が国のプロレタリア文学に親しんだ畔柳二美が、やはり本当に書きたかったの
は佐多稲子が評した「『限りなき困惑』級の作品」だったように信ずる。
「限りなき困惑」や「川音」を佐々木基一は戦争未亡人小説と名付けているが、
人々の生活や幸福を破滅させる邪悪な政治とか戦争にたいして異議を唱える「抵抗の文学」を、
畔柳二美にはもっともっと書き進めてもらいたかった。
けれどもその余裕を得られることもなく、余りにも早過ぎる死によって可能性は永久に断ち切られ
ることになったのである。
     (戦後の出発と女性文学 第
11巻 姉妹 畔柳二美 二〇〇三年5月発刊)



 



北海道出身の作家g_hisao_jyuu-2.jpg

 

久生 十蘭 (ひさお じゅうらん)

本名: 阿部 正雄190246- 1957106日 小説家、演出家。

函館市出身。推理もの、ユーモアもの、歴史もの、現代もの、 時代小説、ノンフィクションノベルなど多彩な作品を手掛け、博識と技巧で「多面体作家」「小説の魔術師」と呼ばれた。

 

旧制函館中学(現函館中部高等学校)を中退し東京の聖学院中学に移るが、そこも中退。1920年に帰郷して函館新聞社に勤務し、22年演劇集団「素劇会」に参加。1923年同人グループ「生社」を結成、1924年に同人誌「生」に8編の詩、1926年に処女小説「蠶」、処女戯曲「九郎兵衛の最後」を発表。また函館新聞の文芸週欄の編集をしながら、同欄で作品を掲載。

1928年に上京し、岸田國士に師事、岸田主宰の「悲劇喜劇」の編集に従事。

1929年から33年までパリに遊学、パリ物理学校でレンズ工学を2年、パリ市立技芸学校で演劇を2年研究しシャルル・デュランに師事する。帰国後、築地座で舞台監督を務める。

 

函館中学校の後輩である水谷準が『新青年』(博文館)の編集長を務めていたことから、同誌に、1933年に著名人探訪記事、トリスタン・ベルナールの翻訳、1934年にパリ滞在の経験を元にコン吉・タヌ子を主人公とした「八人の小悪魔」を始めとする連作集(三一書房版全集で『ノンシャラン道中記』に改題)、1935年に初の本格的な小説『黄金遁走曲』などを発表。当初は本名を用いていたが、1936年の『金狼』から久生十蘭の名義を使用し始めたほか、「谷川早」「六戸部力」「石田九万吉」の筆名を使った。

1936年には、岸田の推薦で明治大学文芸科講師を務め、演劇論を教えた。1937年、岸田を発起人として結成された文学座に参加、文学座研究所の講師を務め、内村直也『秋水嶺』を岸田と共同演出。1937年にはフランスの探偵小説、レオン・サジイ『ジゴマ』、ピエール・スーヴェルト&マルセル・アラン『ファントム』、ガストン・ルルー『ルレタビーユ』などを『新青年』別冊付録として翻訳、この原稿料で軽井沢千ヶ滝に別荘を購入、ここで『魔都』を執筆した。

1940年に岸田が大政翼賛会文化部長に就くと文化部嘱託となり、翼賛会宣伝部で「村の飛行兵」執筆。1941年に『新青年』の依頼で中支に従軍。1942年、大佛次郎夫妻の媒酌により三ツ谷幸子と結婚。1943年に海軍報道班として南方に派遣され、一時行方不明も伝えられたが、1944年帰国。同年銚子へ疎開、1945年会津若松に疎開、終戦後46年に銚子に転居、47年から鎌倉の材木座に住んだ。

1951年『朝日新聞』に『十字街』連載。19576月に食道癌により板橋の癌研究院に入院し、10月に自宅で死去。

筆名の久生十蘭は、しゃるる・デュランのもじりとも、「久しく生きとらん」、「食うとらん」の意とも言われるが、いずれも真偽は定かでない。

 

受賞等

1939年 『キャラコさん』で第1回新青年読者賞を受賞。

1952年「鈴木主水」により第26回直木賞を受賞。

1955年「母子像」(英訳 吉田健一)がニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙主催の第2回国際短篇小説コンクールで第一席に入選。

直木賞候補に、11回「葡萄蔓の束」、15回「三笠の月」、16回「遣米日記」、17回「真福寺事件」。




北海道出身の作家2201.jpg

 

藤堂 志津子(とうどう しづこ)

1949314-  小説家

本名は熊谷政江。札幌市生まれ。

札幌北高等学校、藤女子短期大学国文科卒。現在も札幌在住である。

 

19歳で詩集『砂の憧憬』を刊行する。広告代理店勤務を経て、1988年、『マドンナのごとく』で、北海道新聞文学賞を受賞、直木賞候補にもなる。

1989年、『熟れてゆく夏』で直木賞受賞、以後恋愛小説作家として活躍する。女性の心の内部をつく恋愛小説を多く発表している。

4797491027.jpg『マドンナのごとく』は1990年に門奈克雄監督、名取裕子主演で映画化され、藤堂もカメオ出演している。これは2人の自衛隊員を同時に恋人にする結末だが、ヒロインはそれを自ら「共同便所」と言ってみせる。ここには藤堂作品の原点があり、複数の男と同時につきあうような女を描きつつ、それを美化せず、恋愛の中の性欲、孤独、見栄、打算などを冷徹に描き出している。これが藤堂の作風で、特に1998年の『夜のかけら』以降に新境地を見せ、『昔の恋人』で高い達成に至った。またそれ以後は、30代後半、40代の女の恋愛とセックスを描いて、余人の追随を許さない。

 

1988年 『マドンナのごとく』で第21回北海道新聞文学賞

1989年 『熟れてゆく夏』で第100回直木賞

北海道栄誉をたたえて賞

1990年 札幌市民芸術賞

2001年 『ソング・オブ・サンデー』で第8回島清恋愛文学賞

2003年 『秋の猫』で第16回柴田錬三郎賞

 




紅桜公園(べにざくらこうえん)benizakura3.jpg

 

札幌市南区澄川にある私設の公園である。紅桜庭園、紅桜遊園地とも呼ばれる。

「桜山」と呼ばれる山林の一角にあり、春は桜、秋は紅葉の名所として知られる。

 自然を多く残した山林が広がり、日本庭園や釣堀、散策路等が整備されている。

 

主な施設

日本庭園

人工の滝(2ヶ所)

釣堀

食事処 紅桜本館

木乃実茶屋

茶室 寿光庵

開拓神社

開拓資料館

フォレストガーデン ベニーチェ札幌(結婚式場)

駐車場

 

かつてサントリービール紅桜庭園というビール園があったが閉鎖され、のち「ワンニャン村」が開設されたが、これも4年ほどで閉鎖された。しかしこれ以外の施設は現在でも営業中である。

所在地

北海道札幌市南区澄川389

 




北海道出身の作家saeko.jpg

 

氷室冴子(ひむろ さえこ)

 

本名:碓井小恵子(うすい さえこ)、1957111-200866日。小説家。

1980年代から1990年代にかけて集英社コバルト文庫を代表する看板作家であった。

 

岩見沢市出身。岩見沢東高等学校を経て藤女子大学文学部国文学科へ進学。

当時の知的流行であった構造主義に傾倒し、志賀直哉の文庫本をバラして11ページのペースで一字一句の文章を解析する学究生活を送る。

賞金目当てで1977年(昭和52年)、大学3年の夏に『さようならアルルカン』を小説ジュニア(現・コバルト)第10回青春小説新人賞へ応募して佳作を受賞。少女小説界へデビューするが、その時点では職業作家を目指してはいなかった。

 

大学は卒業するがオイルショックの影響で就職が出来ず、母親と喧嘩して家を飛び出して高校時代からの友人と共同生活を始める。手元にあったのは出たばかりの『白い少女たち』の印税60万円であり、家賃から雑費まですべて含めて月19000円の貧乏生活を開始。月に1本のペースで小説を書いては出版社に送りつける。学園コメディー『クララ白書』の印税を手にしたときは銀行預金の残高が4万円しか残っていなかった。

その後、宝塚歌劇をモデルにした漫画『ライジング』の原作を手がけることになり、生まれ育った北海道を離れて1981年(昭和56年)に宝塚へ転居。小説家であることを隠してファンクラブに潜入し、若手スターの追っかけをしながら原稿を執筆する。1年ほど宝塚で暮らし、ファンクラブ内では準幹部まで出世している。

b4230576.jpeg雑居時代』が重版を重ねることで職業作家としての道が確立し1982年(昭和57年)に札幌に戻り、長距離電話代の請求額にショックを受け1983年(昭和58年)に上京。

これと平行して『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などで好評を博し、『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立。

古代日本を舞台に設定したファンタジー『銀の海金の大地』シリーズ、小学校時代を舞台にした半自伝小説『いもうと物語』、結婚を迫る母親との攻防戦を描いたエッセイ『冴子の母娘草』などの作品もある。

徳間書店のアニメ情報誌『アニメージュ』で連載した『海がきこえる』は1993年(平成5年)にスタジオ・ジブリでアニメ化された。

1990年代後半以降は、目立った執筆活動は無かった。

2008年(平成20年)669時、肺癌で死去。51歳没




北海道出身の作家1907-2.jpg

 

岡田 三郎(おかだ さぶろう)

189024- 1954412

小説家。

 

松前郡福山町の鰊の漁師の家に生まれる。14歳で小樽に移住。

庁立小樽中学校(同校は現在、小樽潮凌高校となっておりその校歌を岡田三郎が作詞している。)を卒業し小樽で税務署員を務め、旭川で兵役につく。

画家を志望して太平洋画会研究所に入るが兵役後に文学志望へ転じ、徳田秋声に師事。

1907-1.jpg早稲田大学英文科在学中に『涯なき路』『影』を発表して文壇に登場。
1919年に大学を卒業すると博文館に入社し、『文章世界』編集部に入る。のち、実の姉である日本女子大学 英語の教師であった岡田一の援助により1921年(当時31歳)にパリに遊学。
彫りの深い美貌で知られ、当時フランス女性に日本人で本当に人気があったのは東郷青児と岡田三郎だけだと謳われた。

1923年日本に帰国してからは、短篇形式コントを紹介すると共に長篇小説『巴里』を発表。
1937年、妻子を捨て銀座のカフェで働く19歳の女給と名古屋に出奔し、スキャンダルとなる。
この駆落ち体験を題材に『秋』『玩具の勲章』『冬』『冬去りなば』などの作品を発表。

1932年(42歳)、徳田秋声を激励する為に結成された秋声会(あらくれ会)に阿部知二、井伏鱒二、尾崎士郎、榊山潤、中村武羅夫、樽崎勤、舟橋聖一、室生犀星とともに参加する。

1930年(40歳)日本キネマという映画会社を設立。加藤武雄原作の『昨日の薔薇』を岡田三郎の監督で、市政会館にて封切り。

前妻と別れてその女給と再婚したが結核で先立たれた上、敗戦後は時流から見捨てられた作家となった。やがて自らも病に倒れ、三児を遺して肺結核で窮死した。

岡田三郎の資料は、遺族より小樽市ライオンズクラブの支援によって開設された市立小樽文学館に寄贈され、常時展示されている。



北海道出身の作家itosei.jpg

 

伊藤整(いとう せい)

1905116- 19691115

評論家、詩人、小説家である。本名は(ひとし)。

東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。

 

20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。昭和初期にジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。『ユリシーズ』を翻訳する。

HTbookCoverImage.jpg北海道時代には詩作を中心に行い処女詩集『雪明りの路』で注目されるものの、上京後は詩作を離れて小説・評論に重心を移す。戦前・戦中は詩壇・文壇でのみ知られた存在だったが、戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。

 

北海道松前郡で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれた。

1906年に塩谷村(のち小樽市塩谷町)へ移住。

旧制小樽中学(小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)卒業後、旧制小樽中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京する。

1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結ぶ。

その後大学を中退し、1932年金星堂編集部入社。

1935年から1944年まで日本大学芸術科講師、1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、1945年から1946年帝国産金株式会社落部工場勤務、1946年北海道帝国大学予科講師、1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師(英語)、1958年東京工業大学教授昇格、1960年から1961年コロンビア大学及びミシガン大学で講義、1962年日本ペンクラブ副会長、1963年『日本文壇史』により菊池寛受賞、日本近代文学館理事、1965年日本近代文学館理事長、1964年東工大を退職、1967年日本芸術院賞受賞、1968年日本芸術院会員。1970年、没後『変容』により日本文学大賞受賞。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響しなかった。

19691115日、胃癌のため死去。




地崎宇三郎 (二代)

(ちざき うさぶろう・にだい)

 

189712- 1951629日、日本の政治家、実業家。

札幌市出身。秋田鉱山専門学校中退。

 

1919年に独断で大農法を試み失敗。勘当され各地を放浪したという。

その後北海道に戻り、小樽市にて小樽定山渓自動車道株式会社を設立して小樽-定山渓間の有料道路構想を立てた。父の支援によって後の北海道道1号小樽定山渓線にあたる道路を完成させ、バス運行を始めた。

 

1936年に父が没すると地崎組社長を相続し二代目宇三郎を襲名。

小樽新聞社社長も兼任して同社の再建に成功、北海タイムスとの統合も実現させた。この頃、「間宮海峡埋立論」を唱えていたという。

1939年札幌土木建築業組合副組合長、1941年北海道土木建設業協会副理事長。

さらに長男地崎九一を地崎組代表取締役社長に据えた。

終戦後は政界に入り北海道政治同盟を結成。1946年北海道から衆議院議員選挙に出馬して当選。進歩党(後の民主党)に所属し、野党連立のために奔走、1947片山内閣成立の影の立役者と言われた。民主党幹事長になるも、その5日後に公職追放。

1947年~1951年まで地崎組代表取締役会長になり、晩年は東京で過ごした。

 




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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