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吉葉山 潤之輔 3
 
涙の初優勝、そして横綱昇進
1954年(昭和29年)1月場所、全勝で悲願の初優勝、
大雪の中の優勝行進(現在の優勝パレード)は「雪の全勝行進」と呼ばれ
全国から集まったファンが大喜びでその姿を見送った。

その興奮ぶりは後の貴ノ花や千代の富士の初優勝、
若貴フィーバーにも匹敵するものであったという。
成長途上に兵役にとられた悲運、兵役中受けた銃創が尾を引き肝心なところで怪我
に泣く悲運、小部屋の悲運、ライバル鏡里と比べて強豪と当たることの多かった
(当時は系統別総当り制だが部屋により対戦相手に違いがあった)

悲運、照國と優勝決定戦になったものの大関昇進が即決されなかった悲運、
14勝を挙げながら平幕下位の時津山に全勝で優勝をさらわれる悲運など、
いわゆる“7つの悲運”を乗り越え晴れて横綱になった。
 
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吉葉山 潤之輔 22db33145.gif
 

復員後
4年にわたって戦場におり、死んだとの情報が入っていたことも関係し、
痩せこけて帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたという。

その後は胃袋とあだ名されるほどに食事を摂り、
人一倍稽古もして失なわれた4年間を取り戻すべく必死だった。
1947年(昭和22年)6月場所十両東4枚目の位置で復帰、翌11月場所で入幕した。
新三役(関脇)で迎えた1950年(昭和25年)9月場所、13勝2敗の成績を挙げたが、
優勝決定戦では本割でも負けた相手である照国に敗れた。
新関脇での13勝は15日制となってから五ツ嶋に次いで2人目で現在まで最多である
(後に、琴欧州も達成)。
翌場所も13勝2敗であったが、今度は照國が全勝した。
しかし、関脇で2場所連続13勝が評価され大関に昇進する。
皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があり横綱昇進を期待されたが、優勝がなくなかなか届かなかった。

1953年(昭和28年)5月場所では14勝1敗であったが、平幕の時津山が全勝した
(当時は下位の力士がいくら勝っても三役と当てることはまずなく、吉葉山としては阻止するすべがなかった)。このように、吉葉山の土俵人生には悲劇が纏わり付いていた。



吉葉山 潤之輔 1yoshibayama.jpg
(よしばやま じゅんのすけ、本名:池田 潤之輔(いけだじゅんのすけ)

1920年 (大正9年)4月3日- 1977年 (昭和52年)11月26日)は、
厚田郡厚田村(現、石狩市)出身の大相撲力士、
第43代横綱。身長179cm、体重143kg。
 
大相撲入門
幼少時は裕福だった網元の家庭だが3年続けての業績不振により倒産。
北海道製糖(現日本日本甜菜製糖)に就職するが、
「学歴がなくては出世は無理」と考え、勉学に励もうと一念発起して列車に乗って上京、
この時近くに大きな体をした少年がいたらしいが途中で姿を消してしまう。

上野駅に到着すると力士2名に出迎えられ高島部屋に連れて行かれた。
実は先述の姿を消した大きな少年(結局この少年は上京を中止した)が高島部屋に
入門を希望していたのだが、彼と間違われて連れて行かれたのだ
部屋で人違いであることを説明したが、高島親方夫人に説得されそのまま入門した。
四股名は北海道製糖に因み北糖山にした。
 
1938年(昭和13年)に盲腸炎(虫垂炎か?)を患い、生命も危なかったが、
吉葉庄作医師の手で全快し恩に報いるべく四股名を吉葉山に改名した。
 
だが幕下優勝を果たし十両昇進目前の1942年(昭和17年)に軍隊に応召し、
戦地で少なくとも銃弾2発の命中を受ける。
このうち1発は貫通だった。
本土には死んだとの情報まで伝わり部屋の名簿からも名前が消されていたが
1946年(昭和21年)6月になってようやく復員することが出来た。



義経伝説 32e75c203.jpeg

寿都町・岩内町境の雷電岬は、
弁慶がアイヌに来年またくると約束したところだという。
 
 
積丹半島神威岬から舟出した義経を追って、
乳のみ子をかかえたメイコが岬から身を投げてメイコ岩になり、
それ以来、メイコのたたりで女を乗せた船は神威岬で必ず沈没したという。
松前藩女人禁制の由来もある。
 
平取には義経神社がある。


義経伝説 2478px-Minamoto_Yoshitsune.jpg


各地に足跡を残し、アイヌのメイコとねんごろになり、
宝物を盗んで大陸に渡ったという伝説があります。
 
義経伝説は、北海道各地に足跡を残しました。
義経が刀を掛けた木とか、弁慶が尻餅をついた跡とか、
義経の射た矢が届いた場所とか、話は全道に存在します。
アイヌを助けて悪鬼を退治したり、粟や稗の栽培を教えた話もあります。


 義経伝説 1
 

義経伝説とは、鎌倉に送られた義経の首級は偽者だったからです。
藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に急襲された源義経が、衣川で自害したのは
文治5年(1189)のことでした。



 
北海道には義経伝説が数多くあります。yositunezu.gif
日本海側の場合は樺太もしくは高麗を経て満州方面に渡り、太平洋側では最後に千島を経てカムチャッカ方面に渡って行くのが多いようです。義経が大陸に渡り満州王朝の祖となる話しや、蒙古のジンギスカンになるものもあります。
 
    地図にピックアップした義経伝説はあくまでも一部です。
道内には120カ所以上あると言われます。
また、まちはおおまかな位置を入れています。


厚田村
 
厚田村(あつたむら)は、北海道石狩支庁北部にあった、
厚田郡に所属していた村。
村名の由来は、アイヌ語の at-ta アッタ(オヒョウニレの樹皮・採る)に因む。
オヒョウニレの樹皮はアイヌの服飾原料・繊維として重要であった。
厚田川の支流に、上流に沼があって水質の変化した
at-woro-us-nay
アッウォルシナイ(オヒョウニレの樹皮・うるかす・いつもする・川(河谷))
があったと伝承がある。
 
200510月1日、浜益村と共に石狩市へ編入され、
                         厚田村区域は、石狩市の地域自治区「厚田区」となった。
 
安政5年(1858年)に和人が初めて越年し、漁場開拓が始まりました。
                        厚田は、鰊との歴史です。厳しい自然に耐え、苦難をのりこえ、
                        新しい環境と条件を築いた先人たちの努力は、まさにはかりしれないものがあります。
               1600年代からニシンなどの漁場として開かれ、
                        江戸時代には松前藩によってアツタ場所が開かれていた。
 
1848(嘉永元年)厚田神社が創建される。
1869 北海道11国86郡が置かれた際、石狩国厚田郡が置かれた。
19024月1日   厚田郡厚田村、別狩村(べつかり)、小谷村(こたに)、押琴村(おしこと)、
                       古潭村(こたん)、安瀬村(やすそけ)、濃昼村(ごきびる)が合併、
                        二級町村制施行、厚田郡厚田村
19074月1日 厚田郡望来村(もうらい)と新設合併し、一級町村制施行
2005 石狩市に編入合併。厚田郡消滅。
 


北海道出身の作家
 
今 日出海 3
 
1932(昭和7年)、開設された明治大学専門部文芸科の講師となった。
1935(昭和10年)、請われて、雀承喜主演の映画「半島の舞姫」を、新興キネマ東京撮影所で制作した。
1937(昭和12年)、パリに半年近く滞在した。
1939(昭和14年)、明治大学教授となった。
1941(昭和16年)11月、陸軍の報道班員に徴用され、三木清・尾崎士郎・石坂洋次郎・火野葦平らと、太平洋戦争初期のマニラに約1年滞在した(『比島従軍』、創元社1944)。
1944(昭和19年)12月に再度徴用されたときは、マニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸し、ルソン島北部への約5ヶ月の逃避行ののち、被弾を修理した新司偵に乗って、制空権のないバシー海峡を越え、台湾へ脱出した。さらに台北からDC-3で、戦闘末期の沖縄上空を飛び、福岡雁ノ巣飛行場へ帰った(『山中放浪』、日比谷出版社1949)。
1945(昭和20年)11月、文部省社会教育局文化課長となり、翌月同芸術課の初代課長となった。
1946(昭和21年)1月、本間雅晴中将の戦犯裁判の証人に喚ばれ、戦後のマニラに飛んだ。同年7月、白洲次郎の仲立ちで、吉田茂首相にGHQの横暴を直訴し、以後吉田に親炙した。その秋、第1回の芸術祭を催した。
1947(昭和22年)12月、芸術課長を辞し、約1年病臥した。
1950(昭和25年)、『新潮』2月号に掲載した「三木清における人間の研究」で、三木清を批判した。小説「天皇の帽子」で、第23回直木賞を受けた(兄の東光も同賞を6年後に受賞)。その後も旺盛な執筆活動を続けた。
1966(昭和41年)、網膜剥離で片目の視力を失った。
1968(昭和43年)6月、佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官となり、約4年間勤めた。
1972(昭和47年)10月から、国際交流基金の初代理事長を8年間勤め、モナリザの日本初公開(1974年)、および、パリの唐招提寺展を実現した。
1974(昭和49年)、勲一等瑞宝章を受け、1978年(昭和53年)、文化功労者に選ばれた。1980年(昭和55年)、国立劇場会長となった。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。
1984年(昭和59年)7月30日没。80歳。鎌倉カトリック墓苑に葬られた。
 



北海道出身の作家
 
今 日出海 2
1924年(大正13年)に開場した築地小劇場を観て演劇に熱中し、1925年に村山知義・河原崎長十郎・市川団次郎・池谷信三郎らが結成した劇団『心座』の演出に加わった。
また、中学のころからセロを始め、音楽に打ち込んでおり、高校以来の親友諸井三郎が、1927年(昭和2年)に始めた音楽運動「スルヤ」に関係した。
1928年(昭和3年)、東大仏文科卒。就職できず法科へ入り直したが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学。
矢代幸雄の『黒田清輝美術研究所』(現在の東京国立文化財研究所)の嘱託として西洋美術史を一年あまり研究し、また、妻桂子を得た。女優の藤間春枝(のちの吾妻徳穂)との仲が新聞ダネになった。
1929年(昭和4年)、心座から中村正常・舟橋聖一・池谷信三郎ら右派が独立した『蝙蝠座』に加わり、翌年第1回公演を打った。
1928年に『文芸都市』誌、1930年(昭和5年)には『作品』誌の同人となり、のちに『文学界』誌の同人に加わり、評論・随筆・翻訳を載せた。左翼に同じぬ正統芸術派的立場であった。
 



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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