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滝川市

(人口44,060人 2009630日)

滝川市(たきかわし)は空知支庁管内にある都市。8a0525ef.gif

語源は、アイヌ語の「ソーラプチ」=「滝下る所」を意訳したもの。

空知川の中流には滝のような段差がありアイヌの人々から
「ソーラプチペツ」=「滝のかかる川・滝の川」と呼ばれており、
滝川という地名がつけられました。


 滝川市の歴史は、明治23年北海道庁令第1号によって
滝川村戸長役場がおかれたことに始まります。

この年、北方の警備と開拓のため屯田兵440戸が入植し、
27年には江部乙に400戸の屯田兵が入植して開拓が進められ、
 これら屯田兵の往来と生活物資の供給、上川道路の開削に伴う資財の供給で
滝川は大いに栄えました。

明治31年上川鉄道の開通、水害の発生で滝川市は、交通の要衝としての地位を
失うとともに水害の被害で大きな打撃を受けましたが、大正2年滝川と道東を結ぶ
上富良野線(現根室本線)の開通によって再びその地位を回復しました。

昭和に入ってから石炭産業の隆盛によって赤平・芦別など産炭地からの石炭をはじめ
とする物資の輸送が活発になり、 滝川市発展の礎となりました。

 

NHK朝の連続テレビ小説「チョツちゃん」の舞台として有名になりました。

近年では石狩川河川敷にグライダー飛行場を建設し、グライダーによる町おこしが有名です。

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赤平市

13,161人(人口、2009年6月30日)

地名はアイヌ語の「アカピラ」に由来し、「山稜のガケ」という意味。cb7af86e.jpeg

 

1891年(明治24年)入植開始

1918年(大正7年) 茂尻炭礦開坑

1937年 (昭和12年) 年昭和電工・豊里炭砿開坑

1938年 (昭和13年) 住友鉱業・赤平炭砿・北海道炭礦汽船
                                 ・赤間炭鉱開坑

1967年 (昭和42年) 昭和電工豊里炭鉱閉山

1969年 (昭和44年) 雄別茂尻炭鉱閉山

1973年 (昭和48年) 北海道炭礦汽船赤間炭鉱閉山

1994年 (平成6年)  住友石炭鉱業赤平炭鉱閉山

 

1891(明治24)年に熊本や三重県から渡ってきた開拓者が入植しました。

明治30年には道路が、大正2年には鉄道が開通しました。

大正7年に、茂尻炭礦が開鉱し、「石炭のまち」の歴史が始まりました。
その後も人口が増加し、大正11年4月1日、歌志内村から分村して2級町村赤平村が誕生、

さらに昭和18年2月11日町制を施行、そして昭和29年7月1日道内18番目の市となりました。

 

昭和35年には、人口もピークの59,430人を数えましたが、

昭和30年代後半から、石炭産業の衰退を余儀なくされ、

平成6年には最後の一山が閉山し、赤平の「石炭の歴史」に幕を下ろしました。

 

bd58a265.jpeg  住友赤平炭鉱用機械類
 1963(昭和38)年に約20億円を費やして建築された住友赤平
  炭鉱立坑は、閉山まで使用され、
現在も建物や各種機械などの設備
  を当時のまま保存。

 市の中心部に位置し、1999年に公開された高倉健主演の映画
   「鉄道員(ぽっぽや)」にも、
舞台となった架空の町にある炭鉱の立坑と
して登場した。

 観光スポットのエルム高原リゾートには、森林公園や温泉、キャンプ場などの施設がある。

稲作のほかイチゴや果樹栽培なども行われ、特産品にはコチョウランや石炭を模した「塊炭飴」などがあります。

 

 



夕張市f06ddb3c.jpeg

 

1960年(昭和35年)には北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)・三菱(大夕張鉱業所)
の三大鉱業所を中心に北炭機械工業(鉱山・産業機械製造)、北炭化成工業所
(コークス・化成品製造)などの関連産業も発達し、116,908人の人口を抱える都市
となった。

しかし、昭和30年代後半以降エネルギー革命が進行、海外炭との競争、相次ぐ
事故、国の石炭政策の後退に直面。

鉱業者側も手をこまねいていたわけではなく、鉄鋼コークス用などの原料炭
(高品位炭)など価格の高い炭種の供給に活路を見出すべく、大きな期待と
成算を持って三菱南大夕張炭鉱、北炭夕張新炭鉱が開発されたが、その後の
鉄鋼不況により需要は伸びず、
1973年(昭和48年)に大夕張鉱業所が閉鎖して以来閉山が相次ぎ、
1981年(昭和56年)には市内屈指の規模を持ち基幹事業所だった北海道炭礦汽船(北炭)夕張新鉱で北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生し、後に夕張新炭鉱を運営してきた北炭夕張炭鉱株式会社は倒産、石炭産業の衰退に拍車がかかった。

石油ショックの克服を大義名分とした官・民の多岐にわたる国内資源振興策も決定打とはならず、その後の安価・良質の海外資源へのなだれ現象、そして政府の合理化政策の前に各炭鉱の経営はジリ貧となっていき、企業は国内の炭鉱から次々撤退。

国内第一の規模・炭質を誇った夕張もその例外ではなかった。1990年(平成2年)に最後まで残っていた三菱石炭鉱業南大夕張炭鉱が閉山した。

夕張は元々炭鉱により開かれた町で、大規模な農業にも向かない地域だった上、石炭産業以外の産業基盤が皆無同然だったため雇用の受け皿がなく働き手の若者が都市へ流出し、人口が激減。街には高齢者が残る結果となり、少子高齢化が進んだ。

現在では、歌志内市、三笠市に次いで、全国で3番目に人口が少ない市で、人口密度は全国の市で最も低い。これに加え1991年より北海道開発局によって夕張川に夕張シューパロダムの建設が計画され、これに伴い大夕張地区の住民188戸が移転した。

2006年よりダムは本体工事を開始し2013年に完成する予定である。

ダム完成による莫大な固定資産税収入や水源地域対策特別措置法による周辺地域整備のための国庫補助などで新たな観光拠点育成としての期待がある一方、世界で唯一の橋梁形式である三弦橋の水没や公共事業依存への懸念が出ている。

 



夕張市

11,534人(人口、2009630日)rekishimura0031.jpg

    ・1874年(明治7年)北海道開拓使雇ベンジャミン・スミス・ライマン
      探検隊が夕張川の上流に炭層の存在を推定。

    ・1888年(明治21年)北海道庁の技師、坂市太郎がシホロカベツ川
   上流にて大炭層の露頭(「夕張の石炭大露頭」)を発見。

    ・1892年(明治25年)夕張炭山の採炭開始、北海道炭鉱鉄道
   追分-夕張間開業(現在の石勝線)。

    ・1893年(明治26年)角田村(現在の栗山町)・長沼村とともに、由仁村に併合される。

 

夕張市(ゆうばりし)は、空知支庁の市。

北海道の中央部に位置し、かつては石炭炭田の中心都市として栄えた。

夕張メロンの産地として知られる。

しかし、2006年には深刻な財政難のあおりを受け、2007年(平成19年)3月6日をもって財政再建団体に指定され、事実上財政破綻した。

地名の由来はアイヌ語の「ユーパロ(鉱泉の湧き出る所)」。



三笠市
10,925人(人口、2009年6月30日)cd60bbd5.gif

    ・1868年(明治元年) 幌内で良質な石炭が発見される
  ・1879年(明治12年)幌内炭鉱が開かれる

・     ・1882年(明治15年)官営幌内鉄道全通(北海道で最初の蒸気機関
      を用いた鉄道)幌内駅開駅。幌内太駅開駅

 

三笠市(みかさし)は、空知支庁管内南部にある市。

炭鉱で栄え、街も賑わいを見せていたが、相次ぐ閉山で人口が激減。過疎の町となった。

北海道の石炭と鉄道、『北海盆唄』発祥の地であり、三笠メロンや邦梅園の梅等が有名。

地名の由来は、空知集治監にあった裏山が奈良の三笠山に似ているという、囚人が望郷の念をこめて当時から三笠山と呼んでいた。明治39年(1906年)、市来知・幌内・幾春別の三村合併のときにこの山の名を取って三笠山村とした。
 昭和17年に三笠町が誕生し、昭和32年に三笠市(北海道内で22番目の市)となりました。

また、「エゾミカサリュウ」「アンモナイト」をはじめとした多くの化石を産する、地質学的にも重要な地域と言われております。

 
                                 歴史

                                        008a501a.jpeg1億数千万年前・・・  三笠市がまだ、海の下にあったころ。

 アンモナイト(イカ・タコの親戚)が遊泳し、エゾミカサリュウ
 (大型肉食爬虫類)が往来をしていました。
 時は流れ、地殻変動を繰り返しているうちに、地球は「石炭」
 というエネルギー資源を作り出していました。
 
 それから、またゆっくりと時は流れ、人の目は北海道の開拓に向けられ
 始めました。

 
e23c078c.jpeg 明治元年(1868年)に、幌内で燃える石「石炭」の炭層の露出面が発見
 され、 明治12年(1879年)幌内炭鉱が開坑されるとにわかに人の往来
 が盛んになり、明治15年(1882年)6月に市来知村が開村されました。
 このときが三笠市の誕生です。

 この年の6月に、北海道開拓を目的として空知集治監(現在の刑務所)が
 市来知(いちきしり)に設置され、11月には幌内炭坑から掘り出された
                                         石炭を輸送するための鉄道が幌内と手宮(小樽)間に北海道で最初
                                        (全国で3番目)に開通しました。
                 明治19年(1886年)には幾春別炭坑が開坑し、以後石炭のまちとして栄えてきました。

昭和32年には桂沢ダムが完成し、湖が誕生。
その桂沢湖周辺からはアンモナイト化石やエゾミカサリュウ(国の天然記念物に指定)等の化石が発見され、アンモナイト化石のまちとしても注目を集めています。
 この他、北海道の鉄道発祥の地にちなんだ鉄道記念館、日本一のアンモナイト化石の量を誇る市立博物館、1万6百本の梅林の広がる邦梅園、道の駅サンファーム三笠と農の館など見て、学んで、楽しむ施設が一杯です。



岩見沢発祥の地902675da.gif

岩見沢市の北側を流れる幾春別川沿いに、開拓当初宿泊所が設け
られたのが岩見沢の始まりといわれています。
昭和58年に開基百年を迎え、現在の北本町東1丁目に発祥の地と
して公園を整備しました。

ed82149b.jpeg岩見沢発祥の地記念公園



幾春別川の紹介

幾春別川は、北海道の夕張山地中央部に端を発し、三笠市、岩見沢市を貫流して
北村で石狩川に合流する、流路延長59km、流域面積332平方kmの河川です。

上流部には深い山々に囲まれた桂沢湖があり、川が刻んだ周囲の渓谷からは、
エゾミカサリュウやアンモナイトなど、数多くの貴重な化石が出土しています。
中流部から下流部にかけては、石狩平野を蛇行しながら流れ、周囲の水田地帯を潤しています。

 

        hyoushi.jpg北海道にまだ人があまり住んでいなかったころ、幾春別川
    にはさけはもちろん、多くの魚が住んでいました。 
    
     
やがて、三笠で石炭が発見されると、鉄道が敷かれ、
    多くの人々がやってくるようになり、岩見沢のまちができあ
    がってきました。 



      
岩見沢という地名にも残っているように、石炭を掘る人々は、幾春別川のほとりで
    湯浴みをし、仕事の疲れをいやしていました。

    このころのいわみざわの街は、幾春別川や石炭と一緒に発展し、人々の生活も川と密接に
    関わっていました。 
しかし、人々があつまり、石炭が盛んに掘り出されるにつれて幾春別川
    は汚れていきました。

     炭鉱が最も盛んだったころには、上流から流れてくる石炭のカスで、
    川は真っ黒に汚れていきました。 
      
また、昔から幾春別川は大雨のたびに洪水を繰り返してきたことから、
    人々の暮らしを守るため、大掛かり な工事が行われ、川はまっすぐになり、コンクリート 
    の護岸も増えていきました。
      昭和32年には、三笠市の桂沢に大きなダムもつくられました。 
 
    これにより川の水の流れはよくなり、洪水はずいぶん減りましたが、その反面で、あんな
    にたくさんいた鮭はいなくなり、ほかの魚も減っていきました。 
 

   川で遊ぶ子どもたちの姿も減っていきました。

   何年もそんな状態がつづきましたが、石炭があまり使われなくなって上流の炭坑が減る
   と徐々に川はキレイ になり、少しずつ川の良さが見直されはじめました。

   そして平成3年10月、おおよそ100年ぶりにサケが帰ってきました。
   このことをきっかけに、幾春別川にさけをもう一度呼び戻そうと、翌年から稚魚の放流が
   開始されました。

   平成5年には岩見沢市で「幾春別川をよくする市民の会」がつくられ、
   続いて三笠市や北村にも、市民の会 がつくられました。
   現在、これらの団体が中心となって、幾春別川を良くしていこうと努力しています。



岩見沢市 4f13726b.gif

昭和35年岩見澤~新篠津を結ぶ岩見澤大橋が完成すると、石狩川
北岸地帯の豊富な資源開発と生産物資の集散地の拠点となり、空知
における行政・産業経済・教育文化などの中核として確たる地位を築き
あげてきました。

また、この度合併した北村、栗沢町と岩見沢市との関係も非常に深く、
北村は、明治27年山梨県に本拠を構える北村雄治氏が土地の貸し下
げを受け北村農場を開設し、地名を開拓功労者の姓をもって北村とし
ました。
明治33年7月当時の岩見澤村より分村し、戸長役場を開設しました。

ebae715a.jpeg 北村中央公園ふれあい広場

 一方、栗沢町は、明治23年和歌山県の山田勢太郎氏が入植し、
 岡山農場をひらきました。

 その後も岐阜、富山、香川、滋賀、徳島など各県から入植が続き、栗澤
 の大地を切り開いてきました。

 地名をアイヌ語の「栗の多い澤」(ヤム・オ・ナイ)から栗澤と
 し、明治25年2月栗澤村が分村し、その後、明治30年2月戸
長役場を開設しました。

このように、北村、栗沢町は、明治中期まで岩見澤村として一つの地域でありました。
両町村それぞれが分村の歴史を経て、これまで100年あまりが経過しましたが、平成18年3月27日再び新しい岩見沢市を構成することとなりました。


幌内炭鉱horonai_18.jpg

 

幌内炭鉱(ほろないたんこう)とは、三笠市(開山当時は幌内村)に存在した炭鉱。

お雇い外国人による指導で、石炭層の発見~採炭から輸送に至るまで機械化が
進められた、日本の近代炭鉱の先駆け的存在。

明治期の近代化から太平洋戦争後の復興期まで、縁の下で日本を支えた歴史的
に重要な炭鉱の一つである。

独立系の炭鉱会社も数社が開発を手がけたが、開発の主力を担ったのは北海道
最大の炭鉱会社、北炭。

北炭の本鉱の立坑は、延長1,000mを越える日本最大規模となった。

最終的に北炭の生産量は、100万トンを越えている。

 

概要
 1879(明治12)年に開坑した道内最初の大規模炭鉱。

1989(平成元)年に閉山しました。閉山後、構造物の大半は取り壊されたましたが、現在もコンクリートの基礎等が残っています。コンクリート台座などが残されている他、幌内神社や関連施設、坑口跡など炭鉱跡が自然と同化していく姿を見ることができます。

「空知に残る炭鉱関連施設と生活文化」は平成13年に北海道遺産に選定されました。

 

69006c69.jpeg 幌内神社

 音羽坑口が開坑された翌年の明治13年に立てられました。
 今では訪れる人もなく、倒壊寸前です。





horonai_13.jpg 幌内炭鉱音羽坑口

 幌内神社下にある、明治12年に開坑の道内最古の坑口です。
 当時の鉱夫の8割は囚人であり、一般人は2割でした。
 当然、処遇は大きく違い、過酷な労働を強いられ
 命を落とした人は少なくありませんでした。

 



岩見沢市

91,062人(人口、2009年6月30日)


アイヌ語の地名が多い北海道において、岩見沢は数少ない
和名の都市です。1adb710c.jpeg

明治11年に幌内煤田を開採のため、開拓使は札幌~幌内間の道路
を開削に当たり、当市の北部、幾春別川の川辺に休泊所を設け、
ここで浴(ゆあみ)して疲れをいやしたといわれています。
当時の人々にとって、この地は唯一の憩いの場所として、
「浴澤」(ゆあみさわ)と称するようになり、これが転化して「岩見澤」
(いわみざわ)と呼ばれるようになったといわれています。

 

岩見沢市(いわみざわし)は、空知支庁南部の市、空知支庁所在地。

平成18年に栗沢町・北村を編入合併した。 

 

 明治15年11月13日、幌内煤田鉄道の幌内~手宮間が全線開通し、うっそうとした未開の地に文化の光が差し始めました。
 明治16年に公布された移住士族取扱規則により、この地に札幌県勧業派出所が設置され、
明治17~18年には、山口県・鳥取県ほか10県からの士族277戸、1,503人の集団移住により、初めて開拓の鍬は打ち下ろされました。
 明治17年10月6日、設村の告示により岩見澤(イワミザワ)村となり、戸長役場、郵便局も設けられ、開拓の事業も順調に進み、活気のある村となってきました。
 明治22年には、岩見澤・滝川・忠別太(現旭川)間、明治23年には岩見澤~夕張間に道路が開通しました。また、明治24年に岩見澤~歌志内間、同25年に岩見澤~輪西(室蘭)間の鉄道が開通し、岩見澤駅も元町から現在地に移転、新市街地が形成されるとともに、陸上交通の要衝となりました。
 明治30年10月には空知支庁が設置され、同33年7月、1級町村制による岩見澤村となり、人口も12,518人、村勢は急速に伸展しました。
 昭和32年桂沢多目的ダムの完成によって、上水道拡張事業、都市計画も急速に進みました。
 

 

ふるさと百餅祭り

1983年、岩見沢開基100年を記念して、有志数名ではじめた祭り。
 五穀豊穣、商売繁盛、健康長寿、岩見沢の発展を祈念し、世界一の大臼(直径2、4メートル)、重さ(3、5トン)と杵(200キロ)で1俵(60キロ)の餅を、百餅若衆の音頭に合わせてヨイトマケ方式でつきあげる、ダイナミックな祭りです。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
性別:
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