深川の歴史 その6
(深川の小史より)
開拓の様子
冬期間に木を切り倒し、雪解けを待って刈り取った雑草に
火をつけて野焼きを行い、その後を鍬で掘り起こすという
大変な苦労であった。
木の少ない土地では、プラオを付けた馬で掘り起こす者もいた。
深川地区では収穫した作物の買い手がいなかったため、
金に換えるため滝川まで運ぶ必要があった。
広い北海道を開拓するためには、多くの人手が必要であったが、
人手を集めるのはなかなか困難であった。
北海道開拓使次官黒田清隆は、ロシアの屯田兵制度を取り
入れることとした。
1875年(明治9年)、はじめて琴似村(現札幌市)に入植して以後
次々と屯田兵が入植してきた。
深川地区には、1895年(明治28年)、一已に200戸、納内に100戸
翌年も同数が入植した。
屯田兵は、家族とともに入植したが兵隊の訓練が主で、土地の開拓は
ほとんど家族の仕事であった。
一已や納内地区は、それまで大きな木が繁り、ササや草が背丈よりも
高く伸び、昼間でも薄暗く、隣の家も見えない状態であった。
開墾は、朝早く起きて木を切り倒し、日が暮れると、倒した木や枯草を燃やした。
日中は、燃やしたところを耕して畑にしてゆくというものであった。
一鍬一鍬手でおこす作業であったが、木や草の根が固く大変な作業であった。
耕した畑には、ソバ・大根・バレイショ・豆・アワ・トウキビ等を植えていた。
1898年(明治31年)ころには、稲も作るようになり、また、リンゴの木を植えたり、
カイコを育てるようにもなった。
このころの食べ物は、イモ・アワなどが主で、味噌や醤油はみんな自分で作っていた。
家は、天井が張ってなく冬などはとても寒く、吹雪いた夜には寝ている布団の上に雪が
積もったほどであった。
また、熊が毎日のように家の傍までやって来た。蛇や狐も多くいた。
屯田兵が開拓を始めてからは、この辺りの土地は、どんどん畑に変わり見違えるようになった。
残されていた屯田兵屋は、平成5年、深川市生きがい文化センターに移設され修復して保存されている。
屯田兵とは、農業をしながら国を守る兵隊のことである。
深川の歴史 その5
(深川の小史より)
1889年(明治22年)、
三条公爵、蜂須賀(はちすか)侯爵、菊亭(きくてい)侯爵たち6人
の華族が雨竜原野の土地を政府から借り受け資金を出し合って
華族組合雨竜農場を開くこととし、
1890年(明治23年)から開拓を開始したがなかなか進まず、
めいめいで農場をつくることとした。
菊亭侯爵は、100戸の農家を入れ、約1,600ヘクタール開拓しようと
1893年(明治26年)深川で土地を借り、北海道の新十津川、本州の十津川
まで農家を集めに行ったもののなかなか計画通りには集まらなかったが、
同年、新十津川から大和団体が、1897年(明治30年)、石川県から加賀団体が
入植し、ようやく望みが果たされた。
この深川の菊亭農場に開拓に入った人たちのことをメム100戸団体と呼んでいる。
開拓に入った人たちはまず家を作らなければならなかった。
家といっても、立木を倒し、何本かの丸太を組み合わせて、草で屋根をふくという粗末なものであった。
家族は力を合わせて朝早くから暗くなるまで働いた。木を切り倒し、ササや草を焼き、
その後を一鍬一鍬掘り起こしたが木やササの根が入り組んでいたため仕事がはかどらず大変な苦労であった。
開拓のころのメム地区は、見渡す限り、カヤ・ハギ・クマザサ・ヨシ等の雑草やアカダモ・ヤチダモの大木が
多く繁っていた。
また、熊の足跡がいたるところにあり、草で作った笛を吹いて用心していた。
馬が熊に殺されることもあった。
こうして切り開いた土地に、エンバク・イナキビ・アワ・ソバなどを植えたがせっかく作った作物も、
熊に荒されたり、イナゴやヨトウ虫に傷められたり、水害や冷害で良く実らないこともあった。
開拓者は、厳しい自然と苦しい生活に耐えながら家族が力を合わせて働いた。
深川の歴史 その4
(深川の小史より)
深川本通りと渡船
上川道路が出来た後、今の道道旭川深川線、道道深川雨竜線が
つくられた。この道路は、深川本通りと呼ばれた。
雨竜から深川を通り神居古潭(かむいこたん)までの道路は、
雨竜原野を開拓するために1891年(明治24年)つくられた。
この道路は、上川道路と同じように、樺戸監獄署の服役者で作られ
たが工事は大がかりなものでなく細い道であった。
はじめの頃の深川本通りは、雨が降ったり、石狩川が増水する度に
ぬかるみが出き、馬車が動けなくなるような道路であった。
また、木の切株や、ササの切口が残っていたため人や馬が怪我をする
ことが珍しくなかった。
このため、割木を敷いたり砂利を入れて改良を図った。
この道路は、石狩川の右岸に広がっている雨竜原野の開拓に大きな役割を果たした。
しかし、深川と音江の間にある石狩川には橋がなく、そこをわたる人々は渡船を使っていた。
1892年(明治25年)、奥芳松(おくよしまつ)が渡船をはじめて以来、メム地区から納内地区
までの間に10ヵ所ばかりの渡船場が作られ、多くの開拓者や屯田兵が利用した。
渡船は、川の両岸にワイヤーを張りそれをたどりながら舟を動かすもので、風の強い日や、
増水のときは大変危険であって、舟が転覆し多くの人命が失われたこともあった。
冬は、氷の上に丸太を置き、その上に板とムシロを敷き雪をのせて水をかけてこおらせ、
氷橋を作り人や馬が通行したが冬の初めや、雪解けの頃は大変危険であった。
1917年(大正6年)、現在の深川橋の近くに船橋が造られた。
船橋は、川の両岸にワイヤーを張り、木の舟を沢山ならべ、その上に厚板を敷き並べたもので
あったが、増水のときや冬期間は使えなかった。
その後、1931年(昭和6年)に旧深川橋が、1932年(昭和7年)には旧納内橋が完成した。
深川の歴史 その3
(深川の小史より)
上川道路が開通してから上川方面にも開拓者が
どんどん入るようになり人の行き来が増大した。
旅人の泊まるところや、交通に必要な馬を貸すところを
駅逓といい、駅逓は上川道路の所々に作られた。
1889年(明治22年)、音江法華(現深川市音江)にも駅逓が作られ、
第2美英舎と名付けられた。
その後、駅逓を中心に運送業を営むものが多く現れた。
当時は駄鞍(だぐら)追いという一人の馬丁が先頭の馬にまたがり、
背中の両側に荷物を積んだ5~10頭の駄馬を引き連れて荷物を運搬するというものであった。
上川への交通が多くなるにつれて、駅逓の近くには、商店、食堂、宿屋等が出来てきた。
その中でも音江は最もにぎやかであった。
1892年(明治25年2月4日)には、深川村が誕生した。
深川の歴史 その1
(深川の小史より)
上川道路
1886年(明治19年)、北海道開拓使は、北海道庁となった。
北海道庁は、北海道の開拓を進めるため上川(現旭川)の開発を
急がなければならないとの方針で札幌から上川へ通じる道路を作ることとした。
当時、札幌から岩見沢までは道路があったが、それから北は原始林のままで、
上川まで行くには丸木船で石狩川をさかのぼるしか方法がなかった。
北海道庁の命を受けた高畑利宜(としよし)は、石狩川をさかのぼり査を行い、
工事には、樺戸集治監の服役者を使った。
服役者たちは鋸や斧を用いて原始林を切り開き、90日余りのうちに市来知(いちきしり=現三笠市)
から上川まで幅1.8メートルで、長さ約90キロメートルの仮道路が開通した。
1887年(明治20年)から3年間で砂利を入れたり道路幅を5.5メートルに拡幅し、
馬車の通行が可能となった。
この道路は上川道路と呼ばれ国道12号の始まりである。
歌志内市
市内を西に向かって二分して流れる「ペンケウタシュナイ川」
の名に由来しており、アイヌ語で、「砂のたくさんある沢」という意味です。
明治24年に北海道炭砿鉄道株式会社の鉄道開通の際、その意をとって
歌志内と称し、これを地名とした。
かつて石炭産業で栄え、ピーク時の1948年には46,000人の人口
を記録したが、その後石炭産業の衰退により減少し、
現在は日本一人口の少ない市かつ
日本で唯一人口が1万人・5千人を下回る市となっている。
2007年(平成19年)11月には5,000人を割り込んだ。
最寄り駅は砂川駅。
かつては歌志内線が通っていたが、1988年に廃止された。
砂川市
砂川の語源は、アイヌ語のオタ・ウシ・ナイを意訳したもの。
「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川を意味しています。
明治19年北海道庁の初代長官に就任した岩村通俊 は上川地方
の開発を進めるため、同年 高畑利宜に昼なお暗い原始林に覆わ
れていた岩見沢から忠別太(旭川)までの道路の開削を命じた。
囚人約500人を使って進めたこの工事により道路が開通し、
さらに明治20年に歌志内炭鉱の開坑したことから、この地は忠別太
方面と歌志内方面の交通の要所となり、人口は徐々に増加していった。
かくて明治23年に奈江村が設置され、「まち」としての第一歩が記された。
明治24年には歌志内の石炭を運び出すため、岩見沢-砂川間、砂川-歌志内間に鉄道が開設し、
「砂川駅」が設置される。この頃から砂川市街が形成され始めた。
道庁は鉄道工事に前後して砂川付近の土地区画測量を行い農民に貸し付け、これにより農民が入植。
市街地には商店、飲食店が増加していった。
明治23年には11人だった人口も27年には2,331人にまで増え、30年には歌志内が分村するが、
33年には7,000余りにまで至った。36年には砂川村と改称し、更なる発展が期待されていった。
美唄市
1886年(明治19年)
富山県人福島磯次郎が市来知村(現三笠市)から
美唄川南岸に移住、渡し守を開業し最初の移住者となる。
空知支庁の中央部に位置し、市内を南北に
国道12号と函館本線が平行して縦貫している。
市内を縦貫する国道12号は、日本の道路で最も長い直線区間である。
東部は夕張山地につづく丘陵・山岳地であり、かつては石狩炭田の
一部で豊富な石炭を産出し、道内有数の採炭地であった。
美唄労災病院が早期より炭鉱事故による脊髄損傷者など中途障害者の
リハビリテーションに力を入れていたことから、他都市と比べて福祉施策が行き届いている。
駅や道路等の公共施設、商業施設等ではバリアフリー・ユニバーサルデザインが積極的に
取り入れられている。
国内でも有数の穀倉地帯であり、「きらら397」や「ほしのゆめ」等の北海道産ブランド米を
生産しているほか、北海道各地に先駆けて、美唄産米を用いた「米粉」利活用について前向き
に調査・検討を重ねている。
2006(平成18)年に全国の米農家1782戸が出品した「第8回全国食味分析鑑定コンクール」
総合部門で美唄産の「おぼろづき」が北海道の米として初めて金賞を受賞した。
花卉や農作物を数多く出荷しており、特にグリーンアスパラガスは
全国でも一二を競う出荷量を誇る。
特産品農産物『ハスカップ』は日本一の収穫量を誇り、数々の加工品に利用されている。
6月下旬~7月上旬には8つのハスカップ農家ではハスカップ狩りを楽しめる。
「恋つむぎ」という糖度12.5度を超える非常に甘いイチゴを生産しているが、
品質管理上長距離輸送ができないため、市内でしか出回らない幻のイチゴである。
昭和53年に陸上自衛隊美唄駐屯地が開設されており、現在も駐屯している。
なお、創立当時の主要部隊は30型ロケットを主装備とする第126特科大隊であったが、
平成5年の部隊再編成により、現在は地対艦ミサイルSSM-1を有する第2地対艦ミサイル連隊が
駐屯している。