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中川町

1,898人(人口、2009331日)katakuri_2.jpg

 

中川町は、上川支庁北部に位置する町。

明治36年、入植希望者に御料地の貸付開始(中川町開町)。

 

中川町共和にカタクリの花の群生地があります。

 

白亜の時代には、クビナガリュウやアンモナイト等が生息し、

ニジマス、ヤマベ、イワナ、そして幻の魚・イトウが潜む、

日本最北の大河・天塩川が流れ、フキやタケノコ等の山菜が豊富な山々
に囲まれた町、それが中川町です。

稚内から、国道40号線を車で南に90分、旭川から北に3時間の位置にある中川町は、
化石の発掘作業が活発で、特にアンモナイトは、その膨大な発掘量から世界的にも名が
知れ渡っています。

 

kubinaga_kaseki.jpg  クビナガリュウの化石発見地
  中川町では1973(昭和48)年と1991(平成3)年にクビナガリュウの
 化石が  発見されています。
  1973
年に発見されたクビナガリュウの化石は、全長8メートルと推定され
  ています。
また、生息時代は約8000万年前で、むかわ町(旧穂別町)や
  小平町で発掘されたクビナガリュウ化石と同じ時代です。

1991
年に発見されたクビナガリュウはこれよりさらに大きく、全長11メートルの復元骨格として
エコミュージアムセンターに展示されており、これは国内では最大です。
生息時代は約8000万年前です。

 

 

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剣淵町(けんぶちちょう)

 

剣淵町は、上川支庁管内上川郡にある町。kenbuchi-museum_01.jpg

3,741人(人口、2009年3月31日)

 

北海道北部の名寄盆地の南部に位置しかつては
広大な泥炭地であった。
町名はアイヌ語の「ケネペツ」に由来する。

ハンノキ川という意味ですが
ハンノキは湿地帯に多い木で、
町内を流れる犬牛別川も同じような意味。
それだけに開拓は困難でした。

今では土地改良が進み当時の面影は殆ど残されていません。

中央部は剣淵川に沿って広がる平野には水田が広がり、
東西は丘陵部となって
畑作や果樹、牧場が広がる農村地帯です。

 

屯田兵資料館

剣淵町は屯田兵による最後の団体移住の地でした。

明治32年に377戸の入地及び団体移住などによって開拓が進められた。

その当時からの多くの資料が保存され、時代ごとに生活の変化がわかる様に展示、

農機具展示や貴重な生活用品等から遊び道具まで見学できます。

隣接して屯田兵屋があり屯田兵の入植当時からの農具や馬車、書物や各種生活用具が展示されています。

 



比布町(ぴっぷちょう)

 

比布町は、上川支庁管内上川郡にある町。16c56424.jpeg

4,271人(人口、2009年3月31日)

比布(ぴっぷ)の地名は、アイヌ語のピプまたはピピから出たもので
「沼の多いところ」あるいは「石の多いところ」の意といわれています。
昔は湿地帯が多かったことや、石狩川の川床には石が多かったため
ピプ、ピピが転訛し音訳して名付けられたと考えられています。

 

1895年(明治28年)滋賀、香川、愛媛の各県から比布原野に入植。

農業の中心は稲作だが、野菜や果物への転作も進んでいる。

特にイチゴは名産品となっている。

 

「ピップエレキバン」(家庭用磁気絆創膏)の
テレビコマーシャル(樹木希林と同社の横矢勲元会長共演)のロケーションに使用。
全国に町名が知られることとなった。

 

58d3ccde.jpeg   イチゴジャム

   比布名物のイチゴをじっくりと煮込んだジャム。手作りならではの
    おいしさが評判。

 

   苺せんべい

   パリットした歯ざわりでせんべいの中に、
    イチゴの風味をとじこめた。

 

   いちごワイン

   比布産のイチゴで作ったワイン。甘酸っぱいさわやかな風味。

 

和寒町(わっさむちょう)

4,069人(人口、2009331日)583a1661.jpeg

アイヌ語の「アッサム(at-sam)」
(オヒョウニレの木・()傍ら)
から地名がついたとされる。
「輪寒」「和参」と書かれた時代もあった。

 

和寒町は、上川支庁管内上川郡にある町。

かぼちゃやキャベツ、アスパラなどの野菜や、きのこの生産が盛ん。

キャベツを、収穫せずそのまま雪の下で保存する「越冬キャベツ」発祥の町。

 

和寒町

 南の比布町との境には塩狩峠がある。

 明治42228日、ここ塩狩峠の区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の
連結器が外れて客車が暴走しかけたところ、当時鉄道員でありキリスト教徒であった
長野政雄(ながのまさお)という男が列車に身を投げ、客車の下敷きとなり乗客の命
が救われたという事故が起こった。
現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くには、この事に対する顕彰碑が立てられている。
この実話を元に、三浦綾子が「塩狩峠」を著し、これを記念し塩狩峠記念館及び文学碑が建てられた。

写真右上⇒塩狩峠記念館



名寄市

30,919人(人口、2009年3月31日)

市名の由来はアイヌ語の「ナイオロプト」(渓流に注ぐ口)。
名寄川が天塩川に注ぐ様子をいったもの。

 

明治33年
山形県東栄村(旧藤島町、現鶴岡市)から開拓団が集団移住した。92ca5fad.jpeg

 


大関 名寄岩

銅像⇒名寄市西7条南12スポ-ツセンタ-前広場 

名寄という地名を全国に広めた
名寄市出身(生まれは小樽市)の力士

本名は岩壁静雄(1914年-1971年)、
初土俵以来44場所を努め、40歳で引退する。

最高位は大関で同じ立浪部屋の双葉山、羽黒山とともに「立浪三羽烏」と称された。

真面目、頑固一徹な人柄と一本調子な取り口から「怒り金時」とも。

名寄岩の人気が沸騰したのは2度目の大関陥落後で、40歳で金星と敢闘賞を獲得、関脇まで返り咲いた。

その劇的な土俵人生は「涙の敢闘賞」として舞台化、映画化もされたという。



士別市

22,666人(人口、2009年3月31日)

アイヌ語の「シュペツ」(大いなる川)から地名がついた。ec4b317f.jpeg

 

 明治32(1899)年に最北で最後の屯田兵の
入植(約100戸)によって開拓の鍬がおろされた
旧「士別市」は、昭和29年(1954)に当時の
士別町・上士別村・多寄村・温根別村の1町
3村が合併し、道内20番目の市として誕生。

 一方、明治38(1905)年の御料地貸下げによって
開拓の歴史が始まった旧「朝日町」は、昭和24(1949)年に
上士別村から分村独立し、昭和37(1962)年には町制を施行しました。

 平成16年4月には、「士別市・朝日町合併協議会」を設置し
平成17年9月1日、新生「士別市」を誕生させ、新たな歴史を刻み始めました。

 開拓の歴史は、天塩川流域の豊富な水と肥沃な大地や緑の山々などの
豊かな自然に恵まれるなか、屯田兵の入植や御料地の貸下げなどを背景に、
先人たちの開拓精神とたゆまぬ努力のもと、農林業を基幹産業として発展してきました

 

大正時代には澱粉製造、昭和初期からは製糖で知られ、現在も甜菜糖の工場があり、
主要な産業となっている。

弟一次産業が主たる産業であり、農業、林業、畜産業が経済の中核を担っている。

「サフォークランド士別」をキャッチフレーズに羊の牧畜に力を入れており、
市営の牧場にはサフォーク
種を中心に約30種類のめん羊が飼育されている。
郊外の観光施設「羊と雲の丘」「めん羊牧場」では、めん羊の放牧や飼育風景を見ることができる。



当麻町(とうまちょう)

総人口は7,626人

 

明治26年、広島・山口などから400戸の屯田兵が入植、
明治33年には17f0de85.jpegそれまでの永山村から分村し、当麻村と改称されました。

北海道のほぼ中央に位置しており、大雪山連峰を望み、
豊かな森林と肥沃な大地に恵まれています。

「旭川市」から北東へ約15㎞、車で約30分の距離に位置しています。

山と河川に囲まれ、南西部から北にかけては山林地帯を形成、
自然の丘陵が起伏しながら大雪連峰に連なっています。

 

北海道農協米対策本部が平成11年より発表している
米の総合評価で、当麻産米が『10年連続北海道一(全道一)』
となりました。
道の駅・当麻町物産館では『今摺米』として販売しています。


fe5524a4.jpeg4ddb8572.jpeg









当麻町には夏バラ日本一の評価を受ける『大雪の薔薇』、
初出荷ご祝儀価格で1玉65万円の破格値をつける高級ブランドスイカ
『でんすけすいか』(第35回日本農業賞大賞受賞)など、全国的に名の知られた
当麻町こだわりの一品がたくさんあります。



増毛厳島神社本殿

 

増毛町の創建以来の歴史を知ることが
出来る建物にee3645a0.jpeg増毛厳島神社本殿があります。

ニシン漁の繁栄の一端を感じる美術品の数々。

明治34年建立された厳島神社の本殿は、
海の守り神、総欅造り、銅板葺きで、
道内では珍しく彫刻が施された神社。

豪華なもので、当時の時代背景を見ることができます。
拝殿の絵馬や雲龍の天井画などは、北前船が活躍していた
時代の様子を伝えています。

2008年は増毛で終わります。
2009年は小樽からスタートします。お楽しみに!





雄冬岬tenbodai.jpg

 

 雄冬岬(おふゆみさき)の由来は、この辺りの断崖が
夕陽に照らされて燃えるように赤く見えたことから
アイヌ語の「ウフイ」(燃える)が転じたといわれております。

 昭和56年に国道231号線が開通するまでは、
陸路で雄冬に達することはできず、交通手段は船のみに
限られる「陸の孤島」でした。

 地域一帯は厳しい断崖絶壁の中に位置しており、
道路が未整備で訪問が著しく困難であったことから
「北海道三大秘岬」の一つとされていました。

(ちなみに後の二つは室蘭市の地球岬、根室市の落石岬)。

秘岬といわれるだけあり、展望台からは雄大に広がる
日本海と、ダイナミックな岸壁を一望できます。

雄冬岬



国指定重要文化財
 旧商家丸一本間家
 
100年前の明治時代の姿
をそのまま現代に伝えている旧商家丸一本間家。photo_image_01.gif

屋根瓦の一枚一枚には屋号が彫り込まれ、
壁面や門柱には洋風の装飾が施されるなど当時の
建築職人の心意気が感じられます。

「丸一本間」の屋号で、明治8年に雑貨店に始まる老舗。

呉服商、鰊漁の網元、海運業、酒造業などを営んだ商家で、
現存する呉服店舗は明治26年の築です。
 呉服蔵や醸造蔵、居宅なども残り現在では国の重要文化財に指定されています。
観光スポットとしても有名で広大な建物の内部を見学できるようになっています。
 


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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