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十勝国(とかちのくに) 4 
 北海道の道づくり第一号


 寛政11年(1799)、東蝦夷地が幕府直轄となるが、近藤重蔵は、
その前年下見巡察として国後・択捉島を見分「大日本恵登呂府」の
標柱を建てた。
ロシアの南下政策を防ぐには
ネモロ(根室)・クナシリ(国後)・エトロフ(択捉)のアイヌ人の支配が必要だった。

 江戸時代の交通手段は歩くか船である。
江戸から蝦夷のネモロ(根室)に行くには、津軽から松前に渡り、
後は永遠と東に向かって噴火湾・太平洋沿岸を見ながら歩き、
襟裳岬を回り十勝・厚岸・根室にいたるコースである。

この間で最大の難所が
幌泉(現えりも)から広尾間だった。

襟裳岬から百人浜を過ぎると庶野となり、猿留山道を経て目黒
(かつて目黒源吉という番屋の番人がいた)、ピタタヌンケプに達し
て十勝(広尾)に入っていくのだが、ピタタヌンケプから広尾間の
ルベシベツが難所であった。
この難所を近藤重蔵は自費で道の開削を命じた、これが北海道
の道づくりの始まりと言われる。
 

 この道が現在の国道336号となる開削であるが、道とはいって
も歩ける程度のものであった。明治以降、陸路を歩いて十勝国を
目指す開拓者はこの一本道が全てであった。


国道336号については、あらためて書くがこの道が舗装化された
のは昭和35年である。それも普通の国道工事の10倍近く高くつく
金のかかる「黄金道路」といわれた。

(写真は、広尾入口の黄金道路と黄金道路海岸におけるサーフィン)
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十勝国(とかちのくに) 3
  「国後目梨のアイヌ蜂起」

 十勝国の沿岸を和人が頻繁に通るようになったのは
1785年(天明5)からである。
1773年(安永2年)に松前藩より、商人・飛騨屋がクナシリ場所
での交易を請け負うようになり、労働力としてアイヌを酷使する
ようになっていた。
国後(クナシリ)はアイヌ人が住んでいるところで、和人が入り込
んで酷使・虐待(これが半端なものでなかった)を繰り返していた。

 そのころロシアの南下政策が始まり、アイヌ民族がロシア側に
付けば国土を失う危機感が生まれたのである。
 仙台藩の藩医で経世論家である工藤平助が「赤蝦夷風説考」を
著し、ロシアの南下と蝦夷地の無防備を訴え、これを老中田沼意次
に提出。田沼は幕府として初めて蝦夷地調査に派遣した。

 
 そうこうする内に、アイヌの怒りは収まらず1789(寛政元年)、
「国後目梨のアイヌ蜂起」が発生した。
松前藩はロシアのこともアイヌのことも幕府に報告していなかった。

 このことで、幕府は東蝦夷地を幕府直轄1799(寛政11)となり、
1804(文化元年)にアイヌ民族の宗教を含めた統括として蝦夷三官寺
(有珠の善光寺、様似の等澍院、厚岸の国泰寺)が建立する運びとなった。

北海道の東でノッピキならない事態が発生していたのであるが、
この事態を治めるために幕府が送り込んだ人物が近藤重蔵だった。
道南の松前から根室に至る陸上歩行が頻繁となり、十勝の広尾が中間点となった。
広尾は襟裳岬から北上して十勝に入る入口にあたる。
しかし、断崖が続く蝦夷三大険路の一つであった。

 
(写真は、襟裳岬)


 

十勝国(とかちのくに) 2
 陸の孤島 十勝


 1803年、十勝国にはアイヌ民族が1044人住んでいた
という記録がある。
釧路が1225人なので部落と呼べるものだったと思える。
しかし、アイヌ民族は農耕民族ではなく狩猟民族であっ
たため内陸は未開地であった。

 北海道には14の代表的な平野があるが、
十勝平野の面積は全北海道の10%ほどを占める。
この数字は、東京・千葉・神奈川の合計面積を上回る。
広大な台地性の平野で十勝大平原といわれている。


 西は日高山脈、北は石狩山地、東は白糠丘陵に囲ま
れており、南部は太平洋に面している。
この広大な平野は、明治の後期まで長く閉ざされた陸の孤島でもあった。



 
十勝国(とかちのくに) 1
 分領支配制

 十勝国とは、明治2年に新政府が北海道開拓にあたり
経費節約で「分領支配制」を実施した。
版籍奉還でお城や土地を剥奪された藩主に、北海道を
開墾すればその土地を与え領主とするというものだった。
 そのために北海道を11カ国86郡に分割した。
 (この制度は2年で廃止された)

 箱館府判事を任命されていた
幕末の探検家松浦武四郎が、蝦夷地命名の提案(後の北海道)
と道内を5国と11国とする案を提出し、11国案が採用された。
(十勝国は7郡だった)


 その11国とは
渡島、後志、石狩、天塩、北見、胆振、日高、十勝、久摺(クスリ・釧路)、
根室、千島である。
この国分けと名称が今日にまで残り行政分割の基となった。
国の分け方は難しいもので、いまだにしっくりとしない地区もある。
国政の選挙などがあると問題が出てくる。


 

十勝国(とかちのくに)

 慌ただしく衆議院選挙が終わった。
北海道のような大地を選挙カーで走り回るには時間が足りなさすぎた。
北海道12区などは、宗谷から知床まで優に600キロはあるだろう。
いずれにしも、自民党一色になった。
前回大敗し、その後亡くなった11区の中川昭一の婦人が土下座作戦
で弔い合戦に成功した。
 中川昭一の父親とは、中川一郎である。
十勝は中川一郎大国であった。

 農業王国といわれる十勝国について、北海道開拓の歴史を紐解き
ながら綴ってみたい。
道を作ることが、どれだけ重要で人生を賭けたものであるかを教えてくれる。

 
(写真は、十勝平野)


 
国道229号 続続 
 義経とアイヌ民族 

 
義経伝説は知床や十勝など全道にあるが、ここでは
江差から小樽までの国道229号の沿線を考えてみたい。
「義経」の話は、アイヌの人たちに好意的に受け取られ
ているということだ。つまり、アイヌ民族は義経に敬意を持ち、
和人たちはそれを利用したのではないかと思える。

 向山誠斎雑記・「丙辰雑綴」によると、1804年(文化元年)の
アイヌ人口は下記に示す通りで松前藩の時代には、この地域
には18ヶ所の場所があった。
(場所とは、アイヌとの交易の場所のことである)
国道229号沿線の町を改めてみてみると、アイヌの人たちが
軒並み住んでいた。
 1804年といえば、国後目梨のアイヌ蜂起1789(寛政元年)後、
東蝦夷地幕府直轄 1799(寛政11)、蝦夷三官寺建立1804(文化元年)
と幕府が蝦夷地に乗り出してきた時代である。


 

向山誠斎雑記・「丙辰雑綴」によると、1804年(文化元年)の
アイヌ人口は下記の通り。

   フトロ   太櫓   78人  

   セタナイ  瀬棚   74

   シマコマキ 島牧   158

   スツツ   寿都   65

   ヲタスツ  歌棄   204

   イソヤ   磯谷   133

   イワナイ  岩内   310

   フルウ   古宇   229

   シヤコタン 積丹   144

   ヒクニ   美国     96

   フルヒラ  古平   205

   上ヲイチ  上余市  201

   下ヲイチ  下余市  164

   ヲシヨロ  忍路   355

   タカシマ  高島   193

   ヲタルナイ 小樽   216


  江差から小樽まで、海岸に沿って北上すると現在の町の名前が
そのまま残っている。また、江差追分の歌詞をなぞってみるのも面白い。
江差から小樽までの道のりは、ニシン漁業とともにアイヌの漁村でもあった。
 
(写真は、アイヌと和人との交易製品で鷲の羽)




 
国道229号 続 
 義経・成吉思汗説 

 
現在の国道229号を、けもの道として江戸時代に、和人として
初めて歩いた人物がいた。
文化6年(1809)宗谷を目指し樺太に渡った間宮林蔵である。

 間宮林蔵は幕府隠密を勤めた役人だった。
間宮はアイヌ語を話せたので、日本海沿岸のアイヌ部落を頼りに
北上し道案内をさせたのではないかと思う。
1809年、間宮が樺太を探検し大陸につながっているのではなく島
であることを発見したが、もう一つの目的が幕府から隠密として命
を受けていた。

 それは、義経伝説の真偽を探ることである。
間宮はアムール川(黒竜江)流域の人々に義経のことを訪ねた。
すると「漢土の天使は(清王朝)日本人の末と聞いている。」と答えた
と報告している。
 間宮林蔵の報告を受けて、1823年に日本にきたシーボルトが
義経・成吉思汗説を打ち出す。
シーボルトは自国への報告の必要性からも間宮から蝦夷地のこと
を細かく聞いたものと思われる。
シーボルトがいなければ間宮海峡という日本人の名前は地図上に
現れてことはなかった。
シーボルトは帰国後、著書「日本」を著し、義経・成吉思汗説を主張した。

 
(写真は、稚内公園にある氷雪の門・40キロ先が樺太である)

 

国道229号 26 終点江差

 乙部の町を過ぎると江差町に入り、
国道229号と国道227号の交差点が終点である。
函館から渡島半島の山間部を回って日本海に出る所地点が
国道229号との交差点となる。
これから国道227号は海岸線を走り江差の市街地へと入り終点となる。

 
 小樽を起点として307キロの国道229号線は、
日本海沿岸を走るドライブコースとして快適な道路となった。

 この沿線は、山脈が海に突き刺さるように入り込んでいるため
断崖絶壁が続き、道の開削には崖を切り崩すか、崖と崖の間を
くぐる様にトンネルを小刻みに作っていくことで道をつなぐ方法し
かなかったのだろう。
 従って、明治20年代から進められた旧、旧旧道は事故が多く、
長いトンネル工事の技術が開発されるまで全線開通が難しかった。

 安全な道路に近づくにつれて、絶景の景観は遠くなり、延々とトンネル
を走ることとなった。
 かつて昔、見た景色は今はもう見ることができない。

 
(写真は、国道227号終点地。江差追分会館前)

 
国道229号 25 乙部町その4 
 義経伝説 

  乙部町には、源義経が蝦夷地上陸した時の最初の地であると
いう伝説が残っている。
北海道には100を越える義経伝説があるが、最初に上陸したのが
どこであったか?
 もっともらしく伝えられているので楽しい。

乙部の人たちは

『その昔、九郎半官義経が兄頼朝の追討を逃れ、乙部に蝦夷地
で最初の足跡を残しました。
 乙部には地名としてその逸話が刻まれています。
乙部岳は義経の別名九郎半官から九郎岳、静御前を思いつつも
越えなければならなかった峠は姫待峠と呼ばれています。
 また義経を追って乙部にたどり着いた静御前ですが、義経はす
でに乙部岳を越え、2人は会うことが出来ませんでした。
悲嘆にくれた静御前は、川に移った自分の姿を見て、もうこの世
に生きながらえる望みも力も失ったと、その川に身を投げてしま
いました。
 そしてこの川を姫川と呼ぶようになったのです』


乙部には「九郎岳」、「姫川」の名称の山や川が存在する。

(写真は、乙部の海)


 
国道229号 24 乙部町その3 
 箱館戦争官軍上陸の地 

乙部の町は、箱館戦争で官軍が初上陸した海岸。

 明治元年(1868)10月20日、旧幕府軍の榎本武揚が軍艦「開陽丸」
で鷲ノ木の浜(現森町)に上陸し、箱館へ進軍12月に五稜郭に蝦夷共和国を成立。

 これに対し官軍は、翌年(明治2年)青森で兵力をたて直し、4月9日、
1,500人の兵と「甲鉄」「春日」など軍艦8隻で乙部沖に到着、現在の乙部漁港
付近に続々と兵士が上陸した。


 その後、軍艦から旧幕府軍の陸兵への艦砲射撃などにより江差を奪還。
更に松前道・鶉山道(渡島中山峠)などから箱館へ進軍し、5月18日、榎本武揚
をはじめ旧幕府軍1,000人を五稜郭から投降させ、箱館戦争が終結した。
上陸した場所(現乙部漁港内)に碑が建っている。

(写真は、上陸した地点に碑が立っている)

2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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