忍者ブログ
2025 12
≪ 2025 11 1 2 3 4 5 67 8 9 10 11 12 1314 15 16 17 18 19 2021 22 23 24 25 26 2728 29 30 31 2026 01 ≫
*admin*entry*file*plugin| 文字サイズ  

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



アイヌ民族の蜂起 34

 シャクシャインの戦い(8)

  シブチャリ(静内)を出たシャクシャインの軍勢は、海岸沿いに西へ西へと進み、
仲間を増やし一行がシコツ(支笏)に着いた時には、そこにも日本海の余市・積丹
の手勢も到着していた。
  しかし、やはり石狩のハウカセの姿はなかった。
  増毛の襲撃はあったが、石狩ではなかった。石狩は中立に回ったのだ。
 しかし、軍勢は2000人を越えていた。

 シャクシャインは、たとえハウエルが動かなくても瀬棚のアイコウインと恵山の
ヒコジロウが野田生で待っていると信じていたので作戦を変えることなく松前を目指
すことを決行した。

 浦河のツノウシとマクワ、幌別のチメンバ、新冠のウエンスルシを大将とする先陣が
シコツを出発し、シャクシャインが後陣として続いた。
一行は、二年前に噴火した樽前山の隕石が打ち寄せた浜辺を進み、エトモ(室蘭)へ
到着した。エトモでも待ち構えていた手勢で更に人員は増えた。
 しかし、これを見ていた虻田アイヌは松前に走った。

 エトモ(室蘭)を過ぎると、6年前の有珠山噴火で吹き出した溶岩や、折り重なる倒木、
さらには降り積もった隕石が足場を奪った。
ここからが戦線を左右する通行の難儀続きの場所であった。

有珠の先は、礼文華・静狩峠という蝦夷の島で一、二を競う交通の難所であったのだ。

     寛文9年(1669年)7月のことであった。

(写真は、アイヌの弓と矢)
PR


アイヌ民族の蜂起 33

 シャクシャインの戦い(7)

  6月14日からのシコツ(胆振・支笏)近辺での和人船襲撃は、シャクシャイン勢に
とっては思った以上の戦果であった。
襲撃の手口は、荷揚げの手伝いや再会の挨拶、商いのふりをして和人船に乗り込み、
突然切り込んで、周囲の小舟から毒矢を降らせるというものだった。
乗組員を殺して食糧や武器を奪うというものであった。
 シャクシャインの元には、東・西蝦夷と各地からの戦果が次々に知らせられた。
増毛からの戦果に皆喜んだ。石狩が立ち上がったと思ったのである。
 
 7月に入ると、松前まで攻め上ろうという次の作戦が釧路や十勝の衆から開始された。
厚岸の衆がまず釧路・十勝沿岸を南下し、白糠や音別の衆と合流しながら襟裳岬を越
えて、シブチャリ(静内)に集まってきた。
 シブチャリに着く頃までには800人ほどに膨れ上がった。
このような戦いで集まる集団は初めてであった。しかし、群集心理も重なり武器や食糧
を手にしているので、意気盛んであった。
 

 7月中旬、いよいよシブチャリに集まった800人が動き出した。
 
  「   和人船襲撃により、松前までの食糧と武器は手に入れた。
        東も西も島中のアイヌは同心となった。
        更に仲間を増やし、一挙に松前まで攻め入ろう。
         シコツ(苫小牧)には石狩と余市の衆が待ち、
       ノダオイにはセタナイや内浦の衆が待っている。

                さあ出発だ                   」

        シャクシャインが大号令をかけたのである。

  (写真は、霊送りの化粧ょ終えた熊の神)



アイヌ民族の蜂起 32

 シャクシャインの戦い(6)

  寛文9年(1669年)7月5日のとこであった。今度は西蝦夷の異変が伝えられた。
大船清三郎の持ち船に乗っていた水主(かこ)が、深手を負って松前にたどりつき
襲撃されたことを語ったのである。
 東蝦夷異変の第一報が届いたのは前月の21日だった。
その15日後に西蝦夷もシャクシャインに加担したことを知った。
松前藩は、これで蝦夷地には誰も味方がいないことを悟ったのであった。
松前藩の家臣は80余名ほどであったので、町が騒然となり津軽に逃げだそうとし
たのは当然であった。
 

 松前藩は、すでに第一報を江戸に送っていたが、続いて第二報の使者を江戸と
東北の藩主あてに走らせた。
使者には「百挺の鉄砲を貸してほしい」と伝えさせたのであった。
 百挺しか持たない松前藩が、ここまでに鉄砲を貸して欲しいと頼んだ数は五百挺
にもなっていた。

 和人地と蝦夷地の境には関所を設けていた。この場所は現在の熊石であった。
 7月6日、松前藩は西蝦夷の番所である、相沼内・熊石・関内に松前左衛門、蛎崎
采女らを大将に雑兵を含めて500人を送った。
熊石から50キロ北には、セタナイ(瀬棚)首長のアイコウインがいたので、それを封じ
込めようとしたのである。
更に、人を増やし7月初旬には1000人を越えるほどのものものしさであった。
 
(写真は、アイヌのヨロイ)

アイヌ民族の蜂起 31

 シャクシャインの戦い(5)

  寛文9年(1669年)6月25日、松前藩は重臣を江戸の北条正房のもとに派遣した。
また、弘前藩にも通報した。

         松前藩の使者が江戸に着いたのは7月11日。

           弘前藩に着いたのが6月30日であった。


 江戸藩邸では、この報を幕府に知らせるべきか迷い13日になってようやく報告した。
弘前藩は、松前藩が幕府へ報告したのを確かめてから幕府へ報告をした。
こうして、幕府は松前氏の一族で旗本の松前八左衛門泰広に出陣を命じ、弘前藩に
も出兵を命じるとともに盛岡藩・秋田藩にも松前藩から要請があり次第出兵するように命じた。
幕府がアイヌ民族の蜂起に直接指揮をとったのはこれが最初であった


   当時の松前藩の和人人口は約1万5千人、うち家臣団は80余名。

     これに対してアイヌの人口は2万余人とみられていた。
 

(写真は、アイヌの皿敷)

アイヌ民族の蜂起 30

 シャクシャインの戦い(4)

  アイヌは和人船の襲撃によって食料は確保したが、武器となる鉄砲や刀は
わずかなものであった。松前藩はアイヌに武器を渡すのを禁じていたのである。
アイヌは戦うための武器が必要だった。
これは松前藩も同じことがいえた。
武器の調達が勝敗を分ける戦でもあった。
 襲撃された和人は一人残らず殺されてしまったが、この様子を見ていたアイヌ
の中に松前藩に味方するものがでてきたのである。

 有珠虻田のアイヌが、松前に走ったのである。
これが寛文9年(1669年)6月21日のことであった。
報を聞いた松前藩藩主は、11歳の松前矩広(松前10代目)であった。
家老の蛎崎蔵人と蛎崎広隆。
奉行役の蛎崎作左衛門、松前儀左衛門、佐藤権左衛門。
国縫は内浦湾の中間地点で松前から4日路であった。
国縫の地には砂金の採掘小屋があり、内地からの人夫も大勢いたので防禦に
好都合であった。
 
 6月23日、蛎崎作左衛門が80人ほどを引き連れて出発。
その後新田瀬兵衛ら100人。
更に金掘り人夫ら345人を送った。
 6月末には、国縫には525人の体制となっていた。
 
(写真は、アイヌの太鼓とバチ) 

アイヌ民族の蜂起 29

 シャクシャインの戦い(3)

  シャクシャインを首長とするアイヌ民族蜂起は松前藩(和人)とアイヌ民族の
交易における差別と誤魔化しが不満として積み重ねられていた。
しかし、その不満の導火線に引火したのは、松前藩が加担していた首長オナビシ
と、独自のアイヌ文化を主張するシャクシャインとの漁労権争いだった。
 
 静内町は北海道の東の文化と西の文化の接点ともいえる地域で、静内川上流
から西方のシュムンクルと同川下流から東方のメナシウンクル両集団の接点でも
あった。
シュムンクルに属するハエの首長オニビシとメナシウンクルの首長カモクタイン、
そしてその死後跡を継いだシャクシャインとは漁労権を巡り抗争を続けていた。

 両者の争いは松前藩を仲介に一度は停戦となりましたが、その後再発し、オニビシ
が殺された。その姉婿ウタフが松前藩に援助を要請に赴いた帰りに病死すると、
シャクシャインはそれを松前藩による毒殺とアイヌに伝えたことから、アイヌと和人との
抗争へと発展したのである。
 
(写真は、蝦夷地の地図)

アイヌ民族の蜂起 28

 シャクシャインの戦い(2)

  寛文9年(1669年)6月の異変はシラオイ(白老)だけのことではなかった。
蝦夷のアイヌが蜂起したのである。
  東蝦夷地は幌別から白糠までの間で11隻、
  西蝦夷地は歌棄(寿都)から祝津(小樽)のあいだ、および増毛で8隻の
  船が襲撃され、舟子・鷹待など東蝦夷地で120人、西蝦夷地では153人、
  合計273人の和人が殺された。
  その内松前藩以外もの者は198人であった。
  いまだかってない、全道的なアイヌ民族の大蜂起であった。
シャクシャインは大兵を松前に向けて進撃させた。
ただし、内浦湾東部のアイコウインは動かず、石狩は増毛を除いて中立を守った。
 

 松前にこの報が届いた時、住民はあわてて津軽・南部に逃げようとした。
和人の動揺がいかに大きかったかを物語る。
藩は脱出を禁じ、兵をクンムイ(国縫)に派遣した。国縫には藩の砂金掘りの
要害があったのでこれを守備させたのである。
この国縫が戦場の場となるのである。

江戸に報告をし、亀田・熊石方面にも兵を回した。
これに対して、江戸幕府も動いたのでいよいよ大事ととなった。
 

(写真は、静内にあるシャクシャインの像)

アイヌ民族の蜂起 27

 シャクシャインの戦い(1)
  寛文9年(1669年)6月21日、
東蝦夷地のシラオイ(胆振・白老)アイヌが、突然異変を松前藩に知らせてきた。
 
   6月14日にシコツ(胆振・支笏)近辺で、アイヌ民族が和人を襲い、
 鷹待(鷹を捕まえる者) をはじめ船頭達を殺害したということであった。

松前藩はこの報に大いに驚き、23日、その真相を探るべく急遽噴火湾沿岸の
クンヌイ (国縫)に数名の家臣を派遣して、同地の親松前藩のアイヌを奥地に
忍び込ませた。

 しかし、正確な情報をつかめないまま、
7月5日には、遂に西蝦夷地のアイヌ民族も蜂起した旨の通報に接するに至った。
松前藩が最も恐れていた事態が生じたのである。

   これが近世最大のアイヌ民族の反松前藩・反和人の戦いとなった
        シャクシャインの戦いの始まりであった。
 
(写真は、シャクシャイン蜂起時代)

アイヌ民族の蜂起 26

 アイヌ勘定

  松前藩のアイヌとの取引内容は、徳川家康より黒印状を与えられてから
一層悪化していった。その一つに「アイヌ勘定」がある。数え方に卑怯な方法を用いた


 例えば、鮭の商いに「はじめ・1・2~10・おわり」と言って二匹を誤魔化すのである。
数が多いとなると更に「真ん中」を入れて三匹の誤魔化しとなる。
鮭一匹であれば、三匹で済むが10匹を束ねて10束を数えると30匹がタダとなる。
落語の「時蕎麦」の商法を用い、怒ると「アイヌ勘定もわからないのか」と嘲笑うのである。

    アイヌが漆器を好むと解れば粗悪な塗りで作らせ、
    刀と言っては竹光を渡し「抜いたら罰があたる」。

   更に、従来鮭百匹に対し米一俵(二斗入)で取引されていたものが、
   突然米一俵を小さくして(八升入)同じ取引となっていった。

蝦夷地のアイヌ民族が立ち上がる、シャクシャインの蜂起は、起こるべきしておきた
民族の怒りだったのである。
 

(写真は、鮭)

アイヌ民族の蜂起 25
 砂金と鷹待

  蝦夷の松前藩は、他の藩のような米高がなく本州商人から入手した
米・酒・煙草・鉄製品・古着・漆器などを藩主の商場に行き、アイヌ側の
干鮭・熊胆・鹿皮・オットセイなどと交換し、その物品を松前で本州商人
に売却して利益を得ていた


 和人地のエリアがあったが、砂金と鷹だけは別物であった。
特に鷹の売り代金は藩主財政の三分一前後をしめていた。
幕府の軍事権力のシンボルともいえる放鷹・鷹場制度、鷹・鷹の獲物を
めぐり献上・贈答の儀礼が蝦夷の鷹を後押ししていた。
 17世紀の後半には、この鷹待(鷹を捕まえる者)が蝦夷地に多数入り込み、
静内のシャクシャイン蜂起の一因ともなった。

 アイヌの首長たちは、江戸幕府の情報源となり、本州商人にとっては
蝦夷地を知る情報交換を対等のものとしていた。
更に、松前藩にとっては砂金も鷹もアイヌ漁猟とは関係ないため、蝦夷の
奥までの出入りを許可し、しかも税の対象とし大きな資金源であった。
 
(写真は、鷲の羽)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
11 2025/12 01
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
HN:
上家二三夫
性別:
男性