忍者ブログ
2026 01
≪ 2025 12 1 2 34 5 6 7 8 9 1011 12 13 14 15 16 1718 19 20 21 22 23 2425 26 27 28 29 30 312026 02 ≫
*admin*entry*file*plugin| 文字サイズ  

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



明治5年 <簾舞(みすまい)通行屋>
札幌市南区簾舞1条2丁目
 
簾舞通行屋(みすまいつうこうや)は、明治4年に開通した「本願寺道路」
宿場で開拓使によって明治5年に建築されました。

本願寺道路は深い原生林に囲まれた幅3m以下の道路で、明治期にはすで
に湯治場だった定山渓まで休息する場所はここだけでした。
当時の政府の命を受けて屋守となった九州出身の黒岩清五郎は、この辺
りの最初の定住者として、通行人に宿を提供しつつ周辺の開拓に取り組みます。

札幌に残る唯一の通行屋であり、地区最古の開拓農家であり開拓使初期の家屋構造
を伝える建物として、今では簾舞郷土資料館「旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)」として札幌市指定の有形文化財となっております。






PR


明治4年<本願寺道路(現在の国道230号の基礎)>
 
本願寺道路が作られた経路は、明治2年に札幌に北海道の本府を置くことが決
まると、ロシアの南下政策の脅威に対抗するため、大量の移民入植が必要でした。

そのためには箱館から札幌へのルート開拓は急務とされました。
このとき財政難の明治政府は、徳川家の恩顧であった東本願寺を動かして道路開
削を出願させます。

現在の国道230号は、札幌市を起点とし、久遠郡せたな町を終点とする208.2km
の一般国道となっていますが、当時のルートは伊達市から洞爺湖沿岸を経た後に
現在の230号線ルートに入り、旧平岸村へ至る街道でした。
明治3年、東本願寺代表現如らによる北海道開拓活動として伊達~札幌を直結する
通称「本願寺道路」の開削工事を開始。
工事の労働には僧侶のほか、士族と平民の移民、アイヌが従事し約103kmの道路
を開削し一年余で完成させます。



明治4年<廃藩置県>約200万人の大量解雇
 
明治4年7月14日に、藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化しました。
明治2年6月17日、274大名から版籍奉還が行われ土地と人民は政府所轄となって
おりましたが、各大名は知藩事(藩知事)として統治したので江戸時代と同じでした。
廃藩置県は全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものでした。
 
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられます。
各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣されました。
明治4年10~11月に3府72県に統合されます。
その後、県の数は明治5年69県、明治6年60県、明治8年59県、明治9年35県
と合併が進み、明治14年の堺県の大阪府への合併をもって完了。
更に、明治22年に3府43県(北海道を除く)となって現在の形に落ち着きます。



 
明治4年<みそ・しょうゆ醸造所/官営工場の始まり>篠路村
 
石狩郡篠路村に本道初のみそ・しょうゆ醸造所が造られました。
これは北海道における官営工場のはしりとなります。
開拓の初期、生活物資の大半は本州から運ばれていました。
しかし、北海道へ移民を進め新しい産業を起こすには開拓使自ら事業を進め
るほかなかったのです。こうして、生活に何よりも必要なみそ、しょうゆの
官営工場が生まれました。

篠路が選ばれたのは、石狩、札幌への交通の要地であり、原料になる大豆、
米、麦などが容易に手に入ったからです。
当時は石狩湾から石狩川(現在の茨戸川)をさかのぼり、茨戸を経て、伏籠川
から札幌へというのが物資運搬のルートでした。

「しょうゆには<松><竹><梅>のラベルが張られ、<菊><福寿>などの特製品も作
られました。
官営によるこの篠路工場も、明治11年9月、宮城県の士族「沢口永将」に払い
下げられますが、経営は振るわず引き揚げることとなります。



さっぽろ・ふるさと文化百選 「大友堀跡」大友亀太郎>
 
札幌市北区北13条東16丁目
 
札幌村の開拓<大友亀太郎>
 
明治維新の10年前(1858)、江戸幕府の開拓政策に沿って現在の道南地区、
木古内町と七飯町に開墾で来た人がおります。現在の小田原市出身の幕臣
「大友亀太郎」で、二宮尊徳の門下生でした。
田畑の土地開発と48戸の農家の入植を8年間かけて成し遂げます。

 その後「蝦夷地開拓掛」に任命され、石狩国札幌郡(現在の札幌市東区
の開拓に入ります。当時の札幌は原生林そのままで、農民入植地として適
切な土地を尊徳の教えに従い測量を交えて探したそうです。
その結果フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を、官による援助や
保護のもとに入植させる農場を指す「御手作場(おてさくば)」として定めました。

道路や橋などの建設工事に着手します。
当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われ、この工事の中に、およそ4キロ
メートルに渡る用排水路の建設計画が含まれていました。これが、後に創成川
の土台となる「大友堀」でした。
「大友堀」は現在のススキノ近くから水路を造り、伏古川まで通じるよう指導しま
した。未開拓の土地に用排水路が設けられたことで、街づくりの起点となり現在
もこの大友堀は、創成川の一部分として残されています。
河川や肥沃な土地に恵まれたこの一帯は、近年まで札幌黄を生み出した玉葱
耕作など、新しい形態の農業が行われ「札幌元村」として定められました。

 北海道の開墾開拓に日本人のプロが派遣された第一号だったのでしょう。
しかし、明治維新後、体制が変わった政府と意見の相違があったことなどで明治
3年に亀太郎は小田原市へと帰省しました。
大友亀太郎の役宅場所が後に「札幌村郷土記念館」として札幌市より史跡の
指定を受けました。この場所が札幌市北区北13条東16丁目にあり、資料を含め
て展示されております。「大友堀」の経路を含めて、当時の札幌の地形など興味
深い解説が聞けます。



開拓使時代の政策と移民 明治8年~11
 
明治8 移民(送出地入植地)
         ▲屯田兵入植(第一回)  奥羽 琴似
 
明治9年 移民(送出地入植地)
         ▲屯田兵入植        奥羽 発寒
 

明治10年 ◎土地政策 

    北海道地券発行条例(土地の所有権を認めた地券を発行)
 
明治11 移民(送出地入植地)
         ▲尾張徳川家による移民  愛知 山越
         ▲農社「共同社」による移民 ―   檜山
         ▲屯田兵入植              岩手  江別
 



庚午事変(稲田騒動) 北の零年
2005年公開映画のモデル  吉永小百合主演

淡路島(洲本)⇒日高(静内)

江戸時代の淡路島は徳島藩の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていた。
明治政府は明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もその身分に応じて減ら
すことにした。稲田家当主は士族の千石給与となったが、稲田家臣は卒族にされ僅か
の手当てとなり生活に対する不安は大きく、また稲田家との主従関係が断ち切られた。 

稲田家臣は士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこした。
この稲田側の動きは蜂須賀本藩家臣の激しい怒りをかい、明治3年5月13日の早朝、
蜂須賀家臣らが洲本下屋敷町の稲田邦植の別邸などを襲い、無抵抗の者を殺傷し火を
放った。この年は庚午のとしであったところから庚午事変ともよばれている。
この事件に対する政府の処置は厳しく、首謀者10名が断罪(のちに切腹)、27名
が流罪、その他禁固、謹慎など多数を数えた。

一方稲田家側は稲田邦植以下全員が北海道開拓を命ぜられ、翌年静内に移住した。
総勢1137戸546人が移住を終えたのは明治4年5月2日であった



北海道の歴史(年表)明治3年~明治5年

1870年(明治3年)


2月13日 樺太開拓使を置く。            
5月13日 淡路で庚午事変(稲田騒動)が起きる
5月17日 北海道に屯田兵が入植する。          
9月25日 囚人に刺青することを廃止する          
函館外人墓地・嘉永7年(1854)、ペリー艦隊来航のとき死んだ2人の水兵の埋葬場所に提
  供したのがここでした。在函5ヵ国の領事からの要望で正式に外国人墓地として定められ
  道をはさんで山側がロシア人墓地。海側のプロテスタント墓地にはイギリス・ドイツ・
  アメリカ・イタリア。          
伊達市の開拓<伊達邦成・仙台藩領亘理領主>      
苗穂村・丘珠村開拓<山形県人>        
大友亀太郎は札幌を去り故郷である神奈川県小田原市へ    
 
1871年(明治4年)
5月2日 稲田家臣団静内郡へ移住。総勢1137戸546人。      
7月14日 天皇は在京56藩知事を集め、廃藩置県の詔書を出す(3府302県とする)  
8 廃藩置県の実施            
9月20日 戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗
  せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、木古内町のサ
  ラキ岬沖で座礁。乗船者は難を逃れましたが、咸臨丸はその数日後に破船沈没。
11月22日 全国を3府72県と改める。          
本願寺道路(現在の国道230号の前身)が開通      
  1870年東本願寺代表現如らによる北海道開拓活動として伊達~札幌を直結する通称
  「本願寺道路」の開削工事を開始。一年余で完成させる。当時のルートは厳密には
  伊達市から洞爺湖沿岸を経た後に現在の230号線ルートに入り、旧平岸村へ至る街道。
北海道で初めて米作りを成功させた中山久蔵は島松(現北広島市)に開墾で移り住む。
篠路村に本道初のみそ・しょうゆ醸造所が造られた。    

1872年(明治5年)
1月6日 榎本武揚、函館戦争の罪により入獄中、黒田清隆の助命運動により出獄  
1月29日 初の全国戸籍調査、総人口331万825人        
2 福沢諭吉「学問のススメ」初編出版。  
2月28日 兵部省を廃し、陸軍省・海軍省を設置        
3月7日 特旨にて榎本武揚の罪を赦す。        
6月24日 北海道手宮港を小樽と改称。          
7月19日 参議西郷隆盛、陸軍元帥となり、近衛都督を兼任する。    
9月12日 新橋・横浜間鉄道開業式(鉄道記念日)        
9 永山武四郎開拓使に移り、北海道開拓使八等出仕となる。    
11月28日 徴兵の詔書出される。          
簾舞通行屋(みすまいつうこうや)は、本願寺道路の公営宿泊施設として建築された。
開場北海道産馬の改良を目的として日高管内の静内・新冠・沙流の三郡に及ぶ
  約7万ヘクタールの広大な用地に創設(新冠御料牧場の前身)。
伊達小学校の前身 岡村広前に「由学塾」を開設。  
篠路小学校前身 篠路教育所を開設。  
「北海道土地売貸規則」,「地所規則」土地を売り下げて地券を渡し私有地とする。


さっぽろ・ふるさと文化百選 <八紘学園の洋館と牧舎
 
■■■
札幌市豊平区にある学校法人八紘学園の敷地内に「札幌軟石で作られたサイロ」
があります。この学園は2年制の北海道農業専門学校で、1年次は農業全般の基礎
知識と農具・農業機械操作を身につけ、2年次では畜産・園芸の2コースに分かれ
て専門知識を学んでいるものです。
 
 この八紘学園の敷地内に、学園生みの親である栗林元二郎の邸宅が今もそのまま
存在しており、これがさっぽろ・ふるさと文化百選として選ばれております。
■■■
■■■■■■  栗林氏は秋田県出身で「おれは村よりデカイ農場を作って見せる」と言って、大正
8年移民団80名で十勝の芽室町に移住をした人です。
経歴を見ると豪快そのもので活動は多岐に渡り「伝記映画」まで作った人です。
その人柄がそのまま邸宅の庭園に見ることができます。何をやるにも中途半端では
ありません「石の収集」もその一つで庭園には巨岩を全道から集め、大水晶石にい
たってはブラジルから持ってきたものです。
■■■
 この栗林石庭園は公開されておりませんが、毎年7月に開かれる八紘学園の花菖
蒲園開園時に一般公開されております。
 
「ジンギスカン鍋」は北海道では親しまれている食べ物ですがこれは昭和19年、
月寒にあった二十五連隊が樺太に移動するとき、栗林が壮行会を開いたことが発端
となります。兵隊たちにはヒツジの肉であることを伏せ、モンゴル帝ジンギスカン
の「雪原の闘い」訓話によるものと伝えられております。
今でも、敷地内では「つきさっぷジンギスカン」のお店があります。



さっぽろ・ふるさと文化百選 
 
さっぽろ・ふるさと文化百選とは、昭和63年(1988)に札幌市が札幌開基
120周年に札幌市民の公募により、札幌の歴史にまつわるものが選定さ
れました。
札幌を旅する時に、これを調べておくと更に北海道を知ることになります。
 
建物では、明治4年に開通した「本願寺街道」、現在の中山峠を越える国道
230号線を建設した東本願寺札幌別院(中央区南8西8)」など46選。
 
遺跡では、現在の創成川を作った大友堀跡北13東16)」など26選。
 
街並では、札幌市街地と円山にある北海道神宮を結ぶ道として、大正時代に
作られた裏参道(中央区南2西20~28など19選。
 
用具では、雪印乳業史料館(苗穂町6)」のバター・チーズ製造用具など
5選。
 
まつり・行事では、日本三大寮歌のひとつ恵廸寮歌・都ぞ弥生北17西9
など4選。




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
12 2026/01 02
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
HN:
上家二三夫
性別:
男性