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猿払村(さるふつむら)photo001.jpg

2,815人(人口、2010331日)

 

宗谷地方北部に位置する村である。北海道を代表するホタテの産地として有名。

村名の由来は、アイヌ語の「サラ・プツ(葦原の河口)」から。

 

東部はオホーツク海に接する海岸が続き、国道238号が南北に縦貫する。
西部は丘陵・山岳地帯。村総面積の8割が森林。

日本一北端にある村。 また北海道一広い村でもある。

江戸時代中期頃より、松前藩管理の場所請負制よる漁場が開設される。

1878(明治11年)、北見国宗谷郡に6か村が設定される。

1882(明治15年)、廃使置県にともない札幌県に移管。

1919(大正8年11月浜頓別~浅茅野に鉄道敷設。

1922大正11年)11月、鬼志別~稚内が開通し、宗谷本線

(後の天北線)となる。

1934昭和9年)12月樺太との間に海底ケーブルの敷設及び中継所が設置され、電話本州と開通した。

1942昭和17年)6月大日本帝国陸軍航空本部浅茅野飛行場建設工事開始。

1947(昭和22年)、終戦後の引揚者の入植などにより、内陸地の戦後開拓がすすむ。

産業では炭鉱、林業(王子製紙)、酪農が中心。

1954(昭和29年)、この頃よりニシン水揚が激減。沖合のホタテ漁も乱獲により衰退し、漁民の多くが経済的困窮により離村を余儀なくされる。

1963(昭和38年)、及び1967年(昭和42年)にかけて相次いで炭鉱閉山。林業も衰退し、僅かに酪農を除いた村内の産業経済が完全に停滞。当時は「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」と言われるほどの有り様であり、住民の生活は困窮を極める。

1971(昭和46年)、猿払村漁業協同組合10年計画による初のホタテ稚貝放流事業を実施

1983(昭和58年)、大韓航空機墜落事件により、村内海岸に遺体や漂流物など多数漂着。

1989平成元年)5月1日国鉄天北線廃止。同日バスに転換。

 

 

 

 

 


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宗谷岬の旧海軍望楼跡5expj6.jpg

 

 日本の各地には、未だ旧日本軍の要塞や砲台跡、施設跡などがあります。

帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に、国境の備えとして旧帝国海軍が建設したものです。

当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊が、宗谷海峡、津軽海峡、東シナ海のどこかを通過し、ウラジオストクに集結するかを察知することは、戦略上極めて重大であったことから、同望楼の海上監視にも、任務の重要性が課せられました。

多くの旅人が目指す、最北端の地、宗谷岬。

その岬の高台に、海と行きかう旅人達を見守る灯台と、この遺構があります。
半円柱の不思議な遺構、海軍望楼跡です。




宗谷丘陵(そうやきゅうりょう)07s_103.jpg

稚内市の宗谷岬南部に広がる日本最北の丘陵地帯。

宗谷丘陵は、宗谷岬南部に広がる標高20メートルか

400メートルまでのなだらかな丘陵地帯。

地形は、2万年前の氷河期に形成されたものといわれ、北か07s_040.jpgら南に向かい標高が高くなり、緩やかに起伏しているが、深い谷はほとんど存在しない。明治期の山火事によって樹木が消失した。気温が上がらず強風が吹くため、現在も樹木が回復していない。

そのため、樹木にさえぎられることなく、肉眼で周氷河地形を見ることができる数少ない場所となっている。

「宗谷丘陵の周氷河地形」として北海道遺産に登録されている。

 

 

 




豊富町(とよとみちょう)DSC_0429-s.jpg

4,490人(人口、2010630日)

 

北は稚内市、南は幌延町、東は猿払村に堺し、西は日本海に面している。

利尻礼文サロベツ国立公園の一部であるサロベツ原野が広がり、日本最北の温泉郷「豊富温泉」が有名。

町名の由来

現在の下エベコロベツ川流域のエベコロベツという地名に由来する。エベコロベツはアイヌ語で「魚(食物)を持つ川」(ipe-kor-pet)という意味である。 また、石炭や石油、天然ガス、温泉、泥炭など天然資源に恵まれた土地であったことから、転じて、なんでも豊富(ほうふ)にある町、豊富(とよとみ)となった。

沿革

1896年 開拓使設置される。

1926年 現在の豊富温泉地区で、石油試掘中に天然ガスとともに温泉が噴出。

1936年(昭和11年)11月 日曹鉱業により日曹炭鉱天塩砿業所開山

1947年 三菱鉱業が豊幌地区で炭鉱採掘開始。

1948年(昭和23年)10月 留萌支庁から宗谷支庁に移動。

1959年(昭和34年)1月 町制施行、豊富町となる。

1972年(昭和47年)7月 日曹炭鉱閉山。

1974年(昭和49年)9月 サロベツ原野が国立公園に指定。

1991年(平成3年) 7月 全国初の自転車健康都市宣言。

 




天塩町3ead8224.gif

3,650(人口、2010331日)

 

天塩町(てしおちょう)は、北部の西海岸に位置する町。

北海道内第2位の長さで北海道遺産の大河、
天塩川の河口に位置する。

北海道らしい大ぶりなシジミの産地として有名。

町名は天塩川に由来する。

同川の「天塩」とは、アイヌ語の「テシ・オ」
ヤナ
(水中や木・竹・杭等を並べ水流を堰塞して、魚を捕獲する仕掛け)の意を含んでいるといわれている。
同川中流域(中川郡美深町恩根内付近)にはかつて梁状の岩が川を横切っていたこと
に由来する。

天塩川の河口に位置し、また河口部からサロベツ原野にかけて長く発達した砂嘴に
よって形成された天然の防波堤(この部分は幌延町に属する)により、非常に良港で
あったこともあり、明治期には同川の流域の森林から切り出した木材の集積地として、
また郡役場、警察、営林署などの各行政施設が置かれ、道北の中核都市の一つとして栄えた。

河口に位置する市街地には材木問屋の支店が居並び、北隣の幌延町問寒別地区など
での森林鉄道を使っての木材の伐採、天北炭田、また河口でのシジミ、
中流域でのチョウザメ、日本海でのニシンの漁獲など、産業が栄えた面影を中心部に
残している。

主要産業は漁業、酪農。 シジミの漁獲量は北海道一を誇る。

 

 




遠別町
532a6fae.gif

3,121人(人口、2010331日)

遠別町(えんべつちょう)は、留萌管内北部にある町。

町名の由来は、アイヌ語のウェンペッ(wen pet 悪い川)から。

日本の稲作の北限地。

 

1896年 白幡源太郎が遠別に入植する。
(遠別町で記録が残っている最初の人物)

1897年 越前団体が入植する。(遠別町の開基)

「遠別町」は、明治30年この地に開拓の鍬おろし、昭和24年に町制が施行された。
この間、北・北海道の厳しい自然の中で、幾多の困難を克服しながら発展してきました。
 昭和33年の8,944人を頂点として、以後、戦後の開拓者の離農やにしん漁業の衰退、
さらには若年労働者の都市への流出などにより、急激な過疎化が進んでいます。
 町の産業は、日本最北の水稲北限の地とて、農業を中心とする第1次産業が主体となっています。
日本最北の米どころとして、良質なもち米が生産されるほか、味がよいと評判のメロン、ホウレンソウ、
アスパラガスなどの野菜も生産しています。

漁業は、ほたての稚貝を養殖し生産地へ出荷したり、近海で獲れた魚介類に付加価値をつけ
生産・販売するなどの取り組みをしています。

商工業は、人のぬくもりと現代的な感覚を大切にしながら、活気ある経営を展開すべく、
地酒「北吹雪」を始めとする地場産品の販売、商店街をより良くするためにたゆまぬ努力をしています。
 平成18年3月に「自治基本条例」を制定し、小さくても元気あふれる「みんなで創る・えんべつ」を
築き上げるため、住民一体となった協働のまちづくりを進めています。

 

出身の有名人

 

松村和子(歌手)

坂川栄治(作家)

正司歌江(タレントかしまし娘)

品田雄吉(映画評論家)



初山別村

1,445人(人口、2010331日)

 

初山別村(しょさんべつむら)は、北海道北西部、留萌管内中部にある村。

初山別、豊岬、有明の3つの集落があるが、近年は過疎化が激しい。
初山別以外の集落は数百人規模。

村名の由来はアイヌ語の「ソー・サン・ペツ」(滝が下る川)から。

主要産業は漁業。農業や酪農もあり、新規就農者支援事業を平成18年度から開始。

特産品の農産物にはハスカップ、ミニトマトなどがあり、ジャムやシロップ、ワインなど
ハスカップの加工品も製造。

海産物はフグやタコがあがり、天然フグの骨をダシに使用したそばつゆが特産品として
考案されている。
初山別漁協加工場では、ぬかニシン・ぬかホッケ・酢イカなどを製造・販売する。

 

しょさんべつ天文台(しょさんべつてんもんだい)

北海道の漁村である初山別村の岬にあり、日本では最北の天文台とされている
(東経1414708秒、北緯443408秒)。

地元青年団と自治体が運営し、通常観測のほか教育目的で
連日一般公開されている(火曜日と冬季を除く)。

装備は口径650mmのカセグレン式反射望遠鏡と小口径の移動望遠鏡が数台。

200411月には劣化したドームの改修が行なわれた。

周囲は岬公園で公営の温泉付宿泊施設・運動施設・海水浴場・キャンプ場があり、
行楽シーズンには旅行者で賑う。

特徴的なサービスとしては、199541日より開始された
MyStars system」が挙げられる。
これは、星に好きな名前をつけることができるというもので、5.5等星より暗く、
既に特定の名前やバイエル符号・フラムスチード番号がつけられている
星以外は全て対象となる。

 

 



羽幌町

8,203人(人口、2010331日)

 

羽幌町(はぼろちょう)は、北部の西海岸にある半農半商の町で、
留萌管内中部の中心都市である。かつては、道内有数の炭鉱の街でもあった。
夕日のきれいな街としても知られている。

暑寒別天売焼尻国定公園の一部である天売島・焼尻島も羽幌町に属しており、
多くの観光客が訪れている。
夏は海水浴客が多い。甘エビの水揚げでも知られる。

町名の由来は、アイヌ語の「ハボロペツ」(広大な川の流域)から。

 

町の本格的な開拓は近隣の苫前町、初山別村より遅い明治中期以降であるが、
大正期に優良な石炭を産出する羽幌炭鉱が発見されて以来、石炭中心の
モノカルチャー都市として発展。

昭和40年の国勢調査では人口30,266人世帯数6840戸を数えた。

しかし、炭鉱閉山の1971年(昭和46年)以降は過疎化が著しい。

昭和40年頃には、国鉄羽幌線、羽幌炭礦鉄道築別線、上羽幌線が通る羽幌駅の
賑わいは最高潮に達した。

昭和45年まで羽幌炭礦鉄道では野球、女子バレー、ジャンプ、卓球の実業団チームを有し、
スポーツの町の発展に大いに寄与した。

炭鉱閉山後の1971年(昭和46年)、人口がついに3万人を割り込み、あわてて市制を施行
しようとしたが、自治省の指導により市制施行が取り消される珍事が有った。

 

天売島と焼尻島は北海道内でこの2か所のみ、
選挙の繰上げ投票が実施される(通常投票日の2日前)。
これはニュースでも衆議院選挙・参議院選挙・北海道知事選挙・北海道議会議員選挙など
投票があるたびに必ず取りあげている。



苫前町
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3,679人(人口、2010331日)

苫前町(とままえちょう)は、留萌管内中部に位置する町。

町名の由来はアイヌ語の「トマオマイ」toma-oma-i
(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。

 

風力発電が盛んで、国道232号から見る北海道最大級の風力発電風車群は、
雑誌などで取り上げられることも多い。

主要産業は沿岸漁業、農業、酪農、林業など。農業は米などを生産。

 

とままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチ

『とままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチ』は、
南の島に来たような気分にさせる白い砂を中国海南島からとりよせ、ロマンティックな
海水浴場として若いカップルや家族連れで賑わいをみせています。

また、夕日に映える白い砂はピンク色に染まり幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 

三毛別ヒグマ事件復元現地

開拓の悲話を通して不屈の開拓精神と先人の偉業を後世に伝えようと三渓地区住民の
強い熱意で復元された現地は、山奥の森林に囲まれた薄暗い場所で、
今にもヒグマが出現しそうな雰囲気があり、訪れる人々にとってスリルを感じる隠れた
人気の観光スポットとなっています。




サロベツ原野313dfa4b.jpeg

 

サロベツ原野(サロベツげんや)は北海道北部にある
豊富町と幌延町の海岸線沿いに広がる湿原である。

 

独特の植生が豊富に見られることから、一部の区域は特にサロベツ原生花園
と呼ばれることもある。湿原の規模は200平方kmにも及ぶ広大なものである。

2005118日にはラムサール条約に登録された。

 

サロベツの地名はアイヌ語の「サルオペツ」(アシの生える川)の転化に由来する。

上サロベツ原野下サロベツ原野に分かれ、後者は利尻礼文サロベツ国立公園
の特別保護地区であり、ペンケ沼、パンケ沼といった沼地が点在する

泥炭性の低湿地であり、海岸砂丘とその背後にある宗谷丘陵によって阻まれた潟湖が、
泥炭による長い堆積作用によって形成された。

 

また、国指定サロベツ鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されている
(面積2,560ha、全域が特別保護地区)。

悠久の時を経てなお力強い大自然の姿を見せるサロベツ原野。

北海道の最北端に広がる23000haもの広大な湿原は「利尻・礼文・サロベツ国立公園」
に指定されています。

湿原の中央に位置する原生花園では、初夏から秋にかけて、ツルコケモモやヒメシャクナゲ、
鮮やかな黄色をしたエゾカンゾウや可憐な紫のエゾリンドウなど、
約100種にも及ぶ湿原植物や花々が壮観。

 

あまりにも広大な泥炭地は、主とする酪農業にはやっかいなもので、近代化農業が始まると
共に各地で大規模な農地開発が行われ、泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下していきました。
また、公園内の地下水路も変化が観られ、泥炭地が乾燥化しはじめ、西側からササが侵入してきました。
そこで、1983年から環境庁ではサロベツ湿原の保全事業の研究と対策を引き続き実施しています。




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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