2013/01/10 06:20:02
十勝国(とかちのくに) 24
幌泉(襟裳岬)
襟裳岬という名前は、アイヌ語の「エンルム」(突き出た頭)または
「エリモン」(うずくまったネズミ)からという説がある。
しかし、この地区は幌泉(ほろいずみ)と言われていた時代が長く、
現在も1町(えりも町)で幌泉郡といわれている。
襟裳岬は島倉千代子・森進一の歌で全国区となり、
昭和45年に「幌泉町」から「えりも町」と改称された経緯がある。
岬の名が町名となったのである。
本町から岬までは15キロで一帯はまさに何もない草原である。
余談ではあるが、森進一の「襟裳岬」が大流行していた
昭和40年代後半は、苫小牧からの日高本線終点「様似駅」で、
バスに乗り換えて岬を目指す若者が年間40万人に達した。
岬にあった(今は民宿せんばとなっている)ユースホステルは
連日満員で廊下や屋根で寝ていた若者もいたという。
その後、この岬がブレークするのは平成13年(2001)の
「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」だった。
機会を持って苫小牧から襟裳岬までの旅も連載してみたいと思う。
この区間も埋もれた歴史が連なっている海岸である。
(写真は、日高線終点の様似駅。ここから襟裳岬までバスで1時間)
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2013/01/09 08:28:05
十勝国(とかちのくに) 23
海路を選んだ人たち
海路で大津港に向かった一行も容易な船旅ではなかった。
函館から船に乗った11名は、日光丸が風帆船で出帆して6日目、
海がないで進まず、幌泉(襟裳)の入江に寄った。
襟裳岬でさえぎられた潮流が複雑な渦となり、この岬特有の
強烈な突風が吹き始めた。
上陸しろと叫ぶ者、船から飛び降りかける者と、船の上は修羅場
となった。決然と錨綱を切って帆をあげた船長の英断がなければ、
船はこなごなに砕けていたという。
結局、11名は猿留(今の黄金道路)で船を降り二手に別れ、海づ
たいに大津を迂回し、アイヌ人に支えられて5月14日にたどり着いた。
一ヶ月の旅だった。
海路を選んだメンバー
・渡辺勝 晩成社幹部
・山本初二郎(48) 農商・炭焼
妻トメ(46) 長男金蔵(13) 次男新五郎(6)
・土屋広告(24) 農業
・山田彦太郎(32) 農商 農業
妻セイ(27) 長男建治(4) 次男扶治郎(1)
・高橋金蔵(52) 農業
4月11日に函館に27名が到着してから、帯広に全員が揃ったのは
40日後の5月20日だった。
(写真は、襟裳岬の百人浜)
2013/01/08 08:38:56
十勝国(とかちのくに) 22
陸路からの幌泉(襟裳岬)
襟裳から十勝国の入口である広尾に至るには、
幌泉(現えりも町)から庶野に抜けて、
目黒(猿留)を経由してビタタヌンケに達し、近藤重蔵が開削したという
ルベシベツ山道を経由して音調津・美幌・広尾というコースとなる。
1790年以降、蝦夷地随一の難所とされたこの区間は旅人を悩ませた。
この道なき道を最上徳内、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四郎
たちも通行していったところである。
しかし、晩成社は一般人である。ましてや女性と高齢者もいた。
一行は、この区間の猿留(さるとめ)峠が聞きしにまさる険路となった。
雨も降りぬるぬるする断崖に網梯子をかけてよじ登り、原始人さながら
につたかづらを頼って登らなければならなかったのである。
ここで発病する者が出て2名が幌泉に引き返した。
更に、4名が陸路を諦めて船で大津回りとなった。
帯広で待つ晩成社幹部鈴木銃太郎のところに第一陣が到着したのは
5月7日であった(2名) 。
第二陣は8日、チオプシ(長節)川にそって十勝川に入り、徒歩で札内川
をのぼってきた2名。
第三陣は9日、依田勉三たちで広尾村の地点で内陸に踏みいれ、タイキ
(大樹)を通過して札内川を降って入植した10名。
第四陣は、発病した夫婦が漁師小屋で休養して20日に到着した(2名)。
(写真は、黄金道路にあるフンベの滝)
2013/01/07 08:02:30
十勝国(とかちのくに) 21
陸路を選んだ人たち
陸路を選んで函館を出発したメンバーは依田勉三夫婦を
含めて16名だった。
・依田勉三(30) 晩成社専務 妻リク
・藤江助蔵(34) 農商・炭焼 妻フデ(25)
・山田勘五郎(53) 農業 妻ノヨ(43) 長男広告(19)
・山田喜平(11) 農業
・池野登一(42) 農業 妻アキ(42)
・高橋利八(22) 農業 妻キヨ(26)
・進士五郎(21) 農業 父文助(45) 母チト(42)
・吉沢竹二郎(34) 大工 ( )は年齢
明治16年の北海道は、道南・道央圏を中心に開拓は
急ピッチに進んでいた。
依田勉三は、晩成社の社員たちは伊豆を出ることが初めてであろうし、
北海道の現状を知るには陸路の方が良いと思ったのではないかと推測する。
明治6年には日本初の本格的な西洋式馬車道が
札幌から函館まで完成していた。これはケプロンの提案だった。
(現在の国道36号と国道5号に相当する。ただし、静狩・礼文華峠を避けて
森町からは航路で室蘭)
明治3年から明治14年までの約10年間に仙台藩士は、岩出山藩612人、
亘理藩2,648人、角田藩278人、白石藩851人、柴田藩123人の
合計4,512人もの人が北海道に移住していた。
道南の八雲には明治11年、旧尾張藩主徳川慶勝侯が72名を移住させていた。
襟裳岬までの道のりは噴火湾、太平洋沿岸と比較的平坦な道のりである。
アイヌの集落も続くので泊まることも可能、現実を知るには良い機会だと思えた。
(写真は、森町にある鷲ノ木戦没者の碑・榎本武揚の開陽丸上陸の地)
2013/01/06 08:28:20
十勝国(とかちのくに) 20
晩成社出発
明治16年(1883年)4月6日に13戸27人が横浜に集結した。
北海道に向けて4月10日、午後6時、煙をはく船は出港した。
4月14日、午前11時、雨上がりの函館に入港した。
27名の中で北海道に上陸したことのあるのは、依田勉三だけであった。
他の者は初めての来道である。津軽海峡から函館港に到着後、更に延々
と東にある「十勝国」という陸の孤島へどのようにして、たどり着いたのか
興味のあるところだ。
依田勉三は27人が同じ道程をとって同じ日に入地すると思っていた。
しかし、 早くも函館で勉三の意見に異を唱えるものも出てきた。
陸路を嫌い海路で行く者たちと二手に別れた。
いつの時代も同じで、人が集まればナンバー2が問題となる。
陸路も海路も幌泉(襟裳岬・現黄金道路)が命がけの旅となった。
1902年(明治35年)の青森『八甲田山死の彷徨』の夏バージョンとなるところだった。
(写真は、新しくなった函館五稜郭タワー)
2013/01/05 08:37:05
十勝国(とかちのくに) 19
大津港
依田勉三が十勝国に入植した時代は大津(現豊頃)が行政の中心だった。
開拓使は、明治11年に函館―根室間を開設し寄港地に大津があった。
明治13年2月の大津村管轄の人口は307戸・1307人で駅逓なども設定されていた。
大津村というのは、大津川(現十勝川)河口で両側から砂州が延び、船は
川内に進入できなかった。
従って、港湾施設は無く、到着した船舶は沖に停泊し、乗客や貨物は艀で
運搬して砂浜に上陸させるというものだった。
時化(しけ)ているときには釧路に向かうか函館に戻ることもあった。
大津港と内陸地への集落を結ぶ手段は、十勝川の舟運に限られていた。
川舟は大津を出ると茂岩、利別太、武山を経て終着下帯広を目指した。
晩成社の「渡辺勝・カネ日記」によると、往復に4日~9日もかかるとある。
現在であれば、車で1時間程度の距離である。
当時、帯広内陸との連絡や流通は大津まで出てこなければならなかった。
それは、依田勉三と南伊豆との便りは、大津まで来なければ手紙を読む
事ができなかったということだ。
(写真は明治31年に士幌町開拓で入った美濃開墾㈱の入植経路である)
2013/01/04 08:34:51
十勝国(とかちのくに) 18
晩成社を設立(資本金2億円)
明治15年(1882年)、合資会社晩成社を設立し資本金は5万円
(今に換算すると2億円)とした。
政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け、15年計画で
開墾しようというものである。
開墾されれば大地主となる。
土地の無い伊豆からみれば魅力的な事業計画だった。
依田勉三は専務となり、出資役員の中でただ一人の現地責任者となった。
勉三の学友鈴木銃太郎と鈴木の父・鈴木親長と共に横浜港から北海道
に向かい札幌県庁に開墾の許可を願い十勝に向かった。
(願いでをしただけで認可を受けたわけではない)
十勝国河西郡下帯広村(帯広市)を開墾予定地と定め、鈴木銃太郎と鈴木親長
は帯広に残り勉三は帰国した。
その頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだった。
しかし、この時「飛蝗(トノサマバッタ)」が飛来することは知らなかった。
2013/01/03 07:12:11
十勝国(とかちのくに) 17
依田勉三28歳
明治14年(1881年)、依田勉三28歳の時に下調べで北海道に渡る。
横浜から汽船で函館に着いたのが7月末日。
函館から長万部を経て室蘭に陸行し、そこから函館に船でもどる。
(雇ったアイヌが強引な旅に逃げ出してしまった)
今度は函館から根室に向かう。到着したのが9月20日。
横浜の船の中から一貫していたことがあった。
入植者があると聞けば直ちに足を向けて徹底した聞き込みをおこ
なっていたことである。
その中で開進会社の躍進ぶりは勉三の競争心をそそった。
特に根室にある開進会社の出張所で、十勝平野へ進出する計画
があると洩れ聞いた。
根室から海岸つたいに浜中・厚岸・釧路・十勝と歩き続けて厚内
(十勝郡浦幌)へ、更に一里ほどで十勝川の河口大津の港。
ここから舟をやとい十勝川を上り、次の日の夕刻オベリベリ(帯広)
に着いた。この視察では、苫小牧・札幌を経て南伊豆に戻った。
<開進会社>とは、1880年に和歌山県士族の岩橋徹輔が設立した会社。
「遊手坐食」の士族を授産させるために第四十四銀行頭取であった岩橋徹輔
が岩倉具視ら華族から200万円の資本金の出資をもくろんで設立した会社で
あった。全道各地に土地の払い下げを受けたが、思うように資本金が集まらず
1884年に解散した。
(写真は、今の厚岸の隣町浜中町である・ハーゲンダッツはこの町の牛乳)
2013/01/02 06:56:59
十勝国(とかちのくに) 16
ケプロン報文と慶応ボーイ
依田勉三は18歳で横浜に出て宣教師ワッデルの英学塾に入り、
2年後に慶応義塾で西洋学を学び福沢諭吉の教えを受けていたが
胃の病気と脚気のため2年で中退。
地元伊豆で兄が勉三のために創設した豆陽(ずよう)学校で教鞭をとっていた。
勉三が東京三田に滞在のおり、塾生に売ってくれと預けられた雑誌の中に
「ケプロン報文」があった。
この文章の一字一句が勉三25歳を奮い立たせていく。
ホーレス・ケプロンとは、明治4年わが国政府の招きに応じ、合衆国農務長官
の要職を辞して、開拓使教師頭取兼顧問となり北海道開拓の大業に参画した
人物である。
<ケプロン報文>
「(中略)そもそも本島(北海道)の広大たるや、合衆国の西部の未開地にひとしく、
その財産は無限の宝庫にして、これをして開拓をくわだてるに欲するところの
物資ことごとく備わざるはなし。
かかる肥饒の沃野を捨ててかえりみざること、日本政府の怠慢というても過言
にあらず。・・・・けだし政府は真実なる人民を得んに、随意に移住せしむべし。
それ自他のためにこの地を開拓し、その土地を守る者あらばこれ国家の宝なり。
もし外国(ロシア)、この地を侵略せば、必ず後世の悔いとなるべし。
わが探検は先例なく、日本国民にとって一大先駆たるべし。」
(写真は、札幌の大通公園にあるケプロン銅像。同じ公園内に対比して、ケプロンを連れてきた黒田清隆の銅像もある)
2013/01/01 07:14:37
十勝国(とかちのくに) 15
十勝のルーツ
新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。
十勝国は現在19の市町村に別れているが、この19の村に開拓に入った
団体を時系列に並べてみた。
20ヶ所あるが、忠類は現在幕別町に合併されている。
最初に入植した晩成社は早かった。しかし、次が遅かった。
同じような志を持った人物が入ってくるのは明治30年(豊頃町)、明治34年(陸別町)
であった。
帯広市 晩成社 明治16年
大樹町 晩成社 明治19年
幕別町 香川県移民 明治25年
忠類(現幕別町)岡田新三郎 明治27年
芽室町 愛知団体 明治29年
池田町 池田農場 明治29年
豊頃町 興復社 明治30年
本別町 利別農場 明治30年
音更町 富山県移民 明治30年
広尾町 桐渕農場 明治31年
足寄町 函館農場 明治31年
清水町 十勝開墾㈱ 明治31年
士幌町 美濃開墾㈱ 明治31年
新得町 山形団体 明治32年
陸別町 関農場 明治34年
中札内村 大井上農場 明治34年
浦幌町 土田農場 明治34年
上士幌町 長野団体 大正 2年
更別村 島根団体 大正 6年
鹿追町 天理教団体 大正 5年