羽幌町
8,203人(人口、2010年3月31日)
羽幌町(はぼろちょう)は、北部の西海岸にある半農半商の町で、
留萌管内中部の中心都市である。かつては、道内有数の炭鉱の街でもあった。
夕日のきれいな街としても知られている。
暑寒別天売焼尻国定公園の一部である天売島・焼尻島も羽幌町に属しており、
多くの観光客が訪れている。
夏は海水浴客が多い。甘エビの水揚げでも知られる。
町名の由来は、アイヌ語の「ハボロペツ」(広大な川の流域)から。
町の本格的な開拓は近隣の苫前町、初山別村より遅い明治中期以降であるが、
大正期に優良な石炭を産出する羽幌炭鉱が発見されて以来、石炭中心の
モノカルチャー都市として発展。
昭和40年の国勢調査では人口30,266人世帯数6840戸を数えた。
しかし、炭鉱閉山の1971年(昭和46年)以降は過疎化が著しい。
昭和40年頃には、国鉄羽幌線、羽幌炭礦鉄道築別線、上羽幌線が通る羽幌駅の
賑わいは最高潮に達した。
昭和45年まで羽幌炭礦鉄道では野球、女子バレー、ジャンプ、卓球の実業団チームを有し、
スポーツの町の発展に大いに寄与した。
炭鉱閉山後の1971年(昭和46年)、人口がついに3万人を割り込み、あわてて市制を施行
しようとしたが、自治省の指導により市制施行が取り消される珍事が有った。
天売島と焼尻島は北海道内でこの2か所のみ、
選挙の繰上げ投票が実施される(通常投票日の2日前)。
これはニュースでも衆議院選挙・参議院選挙・北海道知事選挙・北海道議会議員選挙など
投票があるたびに必ず取りあげている。
3,679人(人口、2010年3月31日)
苫前町(とままえちょう)は、留萌管内中部に位置する町。
町名の由来はアイヌ語の「トマオマイ」toma-oma-i
(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
風力発電が盛んで、国道232号から見る北海道最大級の風力発電風車群は、
雑誌などで取り上げられることも多い。
主要産業は沿岸漁業、農業、酪農、林業など。農業は米などを生産。
とままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチ
『とままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチ』は、
南の島に来たような気分にさせる白い砂を中国海南島からとりよせ、ロマンティックな
海水浴場として若いカップルや家族連れで賑わいをみせています。
また、夕日に映える白い砂はピンク色に染まり幻想的な雰囲気を醸し出しています。
三毛別ヒグマ事件復元現地
開拓の悲話を通して不屈の開拓精神と先人の偉業を後世に伝えようと三渓地区住民の
強い熱意で復元された現地は、山奥の森林に囲まれた薄暗い場所で、
今にもヒグマが出現しそうな雰囲気があり、訪れる人々にとってスリルを感じる隠れた
人気の観光スポットとなっています。
サロベツ原野(サロベツげんや)は北海道北部にある
豊富町と幌延町の海岸線沿いに広がる湿原である。
独特の植生が豊富に見られることから、一部の区域は特にサロベツ原生花園
と呼ばれることもある。湿原の規模は200平方kmにも及ぶ広大なものである。
2005年11月8日にはラムサール条約に登録された。
サロベツの地名はアイヌ語の「サルオペツ」(アシの生える川)の転化に由来する。
上サロベツ原野と下サロベツ原野に分かれ、後者は利尻礼文サロベツ国立公園
の特別保護地区であり、ペンケ沼、パンケ沼といった沼地が点在する。
泥炭性の低湿地であり、海岸砂丘とその背後にある宗谷丘陵によって阻まれた潟湖が、
泥炭による長い堆積作用によって形成された。
また、国指定サロベツ鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されている
(面積2,560ha、全域が特別保護地区)。
悠久の時を経てなお力強い大自然の姿を見せるサロベツ原野。
北海道の最北端に広がる2万3000haもの広大な湿原は「利尻・礼文・サロベツ国立公園」
に指定されています。
湿原の中央に位置する原生花園では、初夏から秋にかけて、ツルコケモモやヒメシャクナゲ、
鮮やかな黄色をしたエゾカンゾウや可憐な紫のエゾリンドウなど、
約100種にも及ぶ湿原植物や花々が壮観。
あまりにも広大な泥炭地は、主とする酪農業にはやっかいなもので、近代化農業が始まると
共に各地で大規模な農地開発が行われ、泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下していきました。
また、公園内の地下水路も変化が観られ、泥炭地が乾燥化しはじめ、西側からササが侵入してきました。
そこで、1983年から環境庁ではサロベツ湿原の保全事業の研究と対策を引き続き実施しています。
大友亀太郎(おおどもかめたろう)5
1871年には札幌新村と合併することになった札幌元村が、
新たに「札幌村」と名付けられた。
大小多くの河川や肥沃な土地に恵まれた地域一帯では、
札幌黄を生み出した玉葱耕作など、新しい形態の農業が行われた。
その一方、亀太郎は故郷で神奈川県議会の議員選挙へ出馬
1881年に当選して地域の発展に努めた後、1897年にその生涯を閉じた。
1986年5月に大友亀太郎像建立実行委員会は、亀太郎の功績を後世に残す
目的で像を作成した。製作に彫刻家の松田与一ほかが携わっている。
この像はかつて大友堀と呼ばれていた創成川のほとり(中央区北1条西1丁目)に
建設されたが、2005年より創成川両側のアンダーパスを連続化する工事が開始
されたことを受け、暫定的に札幌村郷土記念館の敷地(東区北13条東16丁目)に
移設されることとなった。
亀太郎の役宅が建っていた場所に位置するこの記念館には銅像のほか
亀太郎に関連する古文書が多く収蔵されており、資料と土地は1987年2月20日
に札幌市の有形文化財、及び史跡に指定されている。
他に、御手作場が存在していた土地には現在「大友公園」が造られている。
大友亀太郎(おおどもかめたろう)4
1867年には
大友亀太郎の役宅が、御手作場に建設された。
この土地は後に札幌村郷土記念館として札幌市より史跡の指定を受ける。
さらに、同年に建設工事がおこなわれていた大友堀が竣工。
用排水路のほか、しばらくして運河の機能も担うこととなった大友堀は、
当時の金額にして総工費およそ3千両、工事に従事した人数は450名に上った。
また、御手作場では、開拓の経営に費やされる経費や見積書を作成し、出張所
及び開拓使に提出していた。
御手作場における経営の方針や農民への扶助内容ほかを記したこれらの文書に
は、入植するとみられる農民や田畑の開発計画、並びにそれらによって生み出される
収支を、1867年より30年分も記した計画案
(蝦夷地石狩領荒地開発田畑御収納方三十ヶ年組立書上帳)、御手作場で働いて
いる農民とその家族の個人情報を記した文書(戸数・人別書上帳)などが挙げられる。
こうした古文書もまた、後になって神奈川県在住の住民より札幌市へ寄贈され、
市の有形文化財として保存されている。
同年に亀太郎が中心となって開墾を行ったこの現東区の土地周辺は、
「札幌元村」として名称を定められた。
同時に北海道外からの入植者も増加していき、土地の開発は拡大の一途を辿った。
また、このころ役宅の近くにある本龍寺の境内に妙見堂を建立している。
1869年には北海道開拓使が開設。
書籍「大友亀太郎履歴書綴」によると、同年に亀太郎は兵部省出張所石狩国開墾掛、
その後開拓使使掌に任命されたという。
土地の開拓はこの年に開拓使へと引き継いだが、翌1870年に亀太郎は札幌を去り故郷
である神奈川県小田原市へと帰省した。
背景には体制の変わった政府との意見の相違があったことが挙げられている。
大友亀太郎(おおどもかめたろう)3
1866年に箱館奉行所へ石狩原野の開拓など蝦夷地開墾に
ついてまとめた計画書を提出。
これらの実績が認められ「蝦夷地開拓掛」に任命された亀太郎は
1866年4月に同行者を連れて後の石狩国札幌郡(現在の札幌市東区)へと渡った。
当時まだ原生林で鬱蒼としていた場所へ移った亀太郎は
フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を、官による援助や保護のもとに
農民を入植させた農場を指す「御手作場(おてさくば)」として定め、道路や橋など
のインフラストラクチャーを建設する工事に着手した。
当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われたこの工事の中には、
およそ4キロメートルに渡る用排水路の建設計画が含まれていた。
これが、後に創成川の土台となる「大友堀」の前身である。
亀太郎は現在の石狩陸橋の北東から当時の札幌村役場の裏側へ水路を造り、
伏古川まで通じるよう指導した。
周囲から「百万両の大工事」とも呼ばれたこの工事に投入された資本には、
亀太郎が神奈川県で二宮尊徳に学んだ報徳仕法が取り入れられており、北海道に
おける産業の育成も目的の一つであった。
また、未開拓の土地に用排水路が設けられたことで、札幌における街づくりの起点を作った。
現在もこの大友堀は、創成川の一部分として残されている。
大友亀太郎(おおどもかめたろう)2
大友亀太郎は1834年(天保5年)
現在の神奈川県小田原市に生まれた。
農家を営んでいた飯倉吉衛門の長男としてこの世に生を
受けており、大友の姓を名乗るようになったのは24歳の時
である。
当時は天保の大飢饉の影響もあり、幼い頃から貧しい環境
の中勉学に勤しみ、算術を得意とした。
22歳の時、大飢饉により衰退していた村を救い、復興を行った功績で
知られていた二宮尊徳の門下生となる。
そこで当時報徳仕法と呼ばれた農村復興政策を学んだ。
1858年、江戸幕府より領土を保全する開拓政策に則って、後の渡島国に渡った。
その後、箱館奉行所より「箱館在木古内村開墾場取扱」という役職に任命された。
ここで後の渡島国上磯郡および亀田郡(現在の木古内町と七飯町にあたる地域)の
開墾に従事し、およそ100ヘクタールに上る田畑の土地開発と48戸の農家の入植を8年間
かけて成し遂げた。
蠣崎波響(かきざき はきょう)2
寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で
松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市立図書館
に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」
11点が発見)を翌年冬に完成させ、これ後に彼の代表作となる。
寛政3年(1791年)3月に同図を携え上京、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。
この時、円山応挙についてその画風を学び以後画風が一変する。
文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に転封され、
波響も梁川に移った。
文政4年(1821年)松前藩が復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。
画人では円山・四条派の円山応挙、岸駒、松村呉春、皆川淇園等と、文人では漢詩人菅茶山や六如、橘南谿、伴蒿蹊等と生涯を通じ交流があった。
また木村兼葭堂を通じ、大名家では増山正賢や松浦静山等と交流した。
京都をたびたび訪れ、松前藩家老であり、温和な性格で社交的な波響は歓待された。
森鴎外が『伊達蘭軒』で、波響を紹介している。
地元では度々展覧会が催されたが、全国的に知られたのは中村真一郎『蠣崎波響の生涯』からで
ある。自筆資料は函館市立図書館に所蔵されている。
蠣崎波響(かきざき はきょう)1
宝暦14年5月26日(1764年6月25日) - 文政9年6月22日(1826年7月26日)
日本の画家、松前藩の家老。松前藩第12世藩主松前資廣の5男。
13世藩主道廣は異母兄。
母は松前藩家臣長倉長左衛門貞義の娘・勘子。
別号に梅香舎、梅痩舎、柳民舎、滄岡軒などがある。
生まれた翌年に父が亡くなり、兄が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の跡継養子になる。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝えられる。
叔父の松前広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南蘋派の画家・建部凌岱に学ばせた。間が悪く翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石に師事。
天明20年(1783年)20歳の時松前に戻り、この年の冬から大原の呑響が約一年松前に滞在し、以後親交を結ぶ。波響と号したのはこのころからである。