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アイヌ民族の蜂起 28

 シャクシャインの戦い(2)

  寛文9年(1669年)6月の異変はシラオイ(白老)だけのことではなかった。
蝦夷のアイヌが蜂起したのである。
  東蝦夷地は幌別から白糠までの間で11隻、
  西蝦夷地は歌棄(寿都)から祝津(小樽)のあいだ、および増毛で8隻の
  船が襲撃され、舟子・鷹待など東蝦夷地で120人、西蝦夷地では153人、
  合計273人の和人が殺された。
  その内松前藩以外もの者は198人であった。
  いまだかってない、全道的なアイヌ民族の大蜂起であった。
シャクシャインは大兵を松前に向けて進撃させた。
ただし、内浦湾東部のアイコウインは動かず、石狩は増毛を除いて中立を守った。
 

 松前にこの報が届いた時、住民はあわてて津軽・南部に逃げようとした。
和人の動揺がいかに大きかったかを物語る。
藩は脱出を禁じ、兵をクンムイ(国縫)に派遣した。国縫には藩の砂金掘りの
要害があったのでこれを守備させたのである。
この国縫が戦場の場となるのである。

江戸に報告をし、亀田・熊石方面にも兵を回した。
これに対して、江戸幕府も動いたのでいよいよ大事ととなった。
 

(写真は、静内にあるシャクシャインの像)
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アイヌ民族の蜂起 27

 シャクシャインの戦い(1)
  寛文9年(1669年)6月21日、
東蝦夷地のシラオイ(胆振・白老)アイヌが、突然異変を松前藩に知らせてきた。
 
   6月14日にシコツ(胆振・支笏)近辺で、アイヌ民族が和人を襲い、
 鷹待(鷹を捕まえる者) をはじめ船頭達を殺害したということであった。

松前藩はこの報に大いに驚き、23日、その真相を探るべく急遽噴火湾沿岸の
クンヌイ (国縫)に数名の家臣を派遣して、同地の親松前藩のアイヌを奥地に
忍び込ませた。

 しかし、正確な情報をつかめないまま、
7月5日には、遂に西蝦夷地のアイヌ民族も蜂起した旨の通報に接するに至った。
松前藩が最も恐れていた事態が生じたのである。

   これが近世最大のアイヌ民族の反松前藩・反和人の戦いとなった
        シャクシャインの戦いの始まりであった。
 
(写真は、シャクシャイン蜂起時代)

アイヌ民族の蜂起 26

 アイヌ勘定

  松前藩のアイヌとの取引内容は、徳川家康より黒印状を与えられてから
一層悪化していった。その一つに「アイヌ勘定」がある。数え方に卑怯な方法を用いた


 例えば、鮭の商いに「はじめ・1・2~10・おわり」と言って二匹を誤魔化すのである。
数が多いとなると更に「真ん中」を入れて三匹の誤魔化しとなる。
鮭一匹であれば、三匹で済むが10匹を束ねて10束を数えると30匹がタダとなる。
落語の「時蕎麦」の商法を用い、怒ると「アイヌ勘定もわからないのか」と嘲笑うのである。

    アイヌが漆器を好むと解れば粗悪な塗りで作らせ、
    刀と言っては竹光を渡し「抜いたら罰があたる」。

   更に、従来鮭百匹に対し米一俵(二斗入)で取引されていたものが、
   突然米一俵を小さくして(八升入)同じ取引となっていった。

蝦夷地のアイヌ民族が立ち上がる、シャクシャインの蜂起は、起こるべきしておきた
民族の怒りだったのである。
 

(写真は、鮭)

アイヌ民族の蜂起 25
 砂金と鷹待

  蝦夷の松前藩は、他の藩のような米高がなく本州商人から入手した
米・酒・煙草・鉄製品・古着・漆器などを藩主の商場に行き、アイヌ側の
干鮭・熊胆・鹿皮・オットセイなどと交換し、その物品を松前で本州商人
に売却して利益を得ていた


 和人地のエリアがあったが、砂金と鷹だけは別物であった。
特に鷹の売り代金は藩主財政の三分一前後をしめていた。
幕府の軍事権力のシンボルともいえる放鷹・鷹場制度、鷹・鷹の獲物を
めぐり献上・贈答の儀礼が蝦夷の鷹を後押ししていた。
 17世紀の後半には、この鷹待(鷹を捕まえる者)が蝦夷地に多数入り込み、
静内のシャクシャイン蜂起の一因ともなった。

 アイヌの首長たちは、江戸幕府の情報源となり、本州商人にとっては
蝦夷地を知る情報交換を対等のものとしていた。
更に、松前藩にとっては砂金も鷹もアイヌ漁猟とは関係ないため、蝦夷の
奥までの出入りを許可し、しかも税の対象とし大きな資金源であった。
 
(写真は、鷲の羽)


アイヌ民族の蜂起 24

  1669年の蝦夷地勢力
  アイヌ文化の形成は14-15世紀以降ころからは、北方民族よりは南方の和人
との接触が強かった。
世界地図を見ても少数民族は、どちらに傾いてもおかしくない歴史がある。
北海道という大地が北方民族に傾いていたら日本の国土は下北半島が最北の地
であったであろう。
シャクシャイン蜂起が起きたのは1669年であるが、この時代のアイヌ支配圏は大
きくは5つのグループに分けられていた。江戸幕府は四代将軍家綱のころである。


 シャクシャインのグループはメナシクルといって静内から道東厚岸を含む大勢力
であった。
このメナシクルと静内川の漁猟圏で対立するシュムクルグループは、オニビシを総首長
として新冠以北日高地方・夕張から南の石狩低地帯。
内浦アイヌグループはアイコウインを中心とし内浦湾、国縫から尻岸内の間の勢力。
石狩アイヌはハウカセ総首長として石狩川流域を中心に増毛の勢力。
余市アイヌは総首長八郎右衛門で天塩、宗谷、利尻山の勢力。

松前藩の和人地のエリアは、日本海は熊石、津軽海峡は箱館の東石崎までであった。
蝦夷地は圧倒的にアイヌ民族の勢力で、松前藩の影響が強かったのはエリアが近かっ
た内浦アイヌとシュムクルグループ程度であった

 
(写真は、アイヌの衣装)

アイヌ民族の蜂起 23

 英傑シャクシャイン像碑文

  静内(シベチャリ)は、2005年の映画「北の零年」の舞台となった地でもある。
この映画は、明治4年5月に淡路島の徳島藩洲本城代家老稲田邦植の家臣546人
が上陸した地でもある。
春になれば通称二十間道路という桜の名所があり競走馬の産地でもある。
真歌公園には、アイヌ民俗資料館やシャクシャイン記念館があるが、シャクシャイン像
の隣には、1970年にシャクシャイン碑文が建てられた。
明日から、アイヌ民族最大のシャクシャインの蜂起を掲載するが、まずはこの碑文を
読んでいただきたい。
 
 英傑シャクシャイン像碑文日本書紀によれば、斉明の代(西暦650年代)において、
すでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、
 とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)
の郷であった。
今から約300年前、シャクシャインは、ここシビチャリのチャシ(城砦)を中心としてコタン
の秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。
 当時、自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に
心より協力、 交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、
松前藩政の非道な圧迫と苛酷な搾取は日増しにつのり同族の生活は重大脅威にさら
された。
 茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民俗自衛のため止むなく蜂起し
たが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。
 しかし志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文
9年エゾの乱と言う。
いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住
の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、
ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考すると共に父祖先人の
開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、 わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。

  1970年9月15日              シャクシャイン顕彰会   会長 神谷与一
 

(写真は、碑文)

アイヌ民族の蜂起 22

 静内川

 平成18年(2006)まで、北海道の日高支庁管内に設置されていた町
で静内町があった。今は合併によって現在は日高振興局管内の日高郡
新ひだか町静内となっている。
静内は、北海道の内陸が開ける明治中期までは東に行くには沿岸を通る
道筋で、東の文化と西の文化の接点ともいえる地域であった。
この接点にある静内川(しずないがわ)は、日高振興局管内を流れ太平洋
に注ぐ二級河川で静内川水系の本流である。
上流域は日高山脈襟裳国定公園に指定されている。
 
 国道235号線で静内橋を渡るとすぐ左に山があり、すぐ左折して坂を登って
いくとアイヌの英傑シャクシャイン像とシャクシャイン記念館が見えてくる。
1669年(寛文9年)ここにシャクシャインの砦があったところである。
アイヌ民族と江戸幕府までも巻き込んだ和人の壮絶な争いの発端は、この
静内川であり結末も静内橋で終わった。
 
(写真は、シャクシャイン像)

アイヌ民族の蜂起 21

  徳川家康の黒印状

  豊臣秀吉が死んだ翌年(慶長4年)1599年冬、蛎崎慶広は大阪城で家康に
蝦夷島地図や家譜を献じ、姓を松前と改めた。
 慶長5年から6年にかけて、福山城(松前城)を築いた。
 アイヌに対しては城、幕府に対しては館と称した。
慶長9年(1604)正月、征夷大将軍家康より黒印の制書を受ける。
 
               定
一、 諸国より松前へ出入の者共、志摩守へ相断らがして、
   夷人と直商売仕候儀は曲事たるべき事

二、 志摩守に断無くして渡海せしめ売買仕候者、急度上致すべき事付、
   夷之儀は、何方え往行候第たるべき事

三、 夷人に対し非分申しかける者堅く停止の事右条々もし違背之輩においては、
   厳科に処すべきもの也。仍って件の如し。

 慶長九年正月二十七日   御黒印               松前志摩とのへ
 

秀吉の制書が交易徴税権の承認であったのにくらべ、家康の制書は一歩進んで、
松前氏の許可なく蝦夷交易ができないことを認めたものだった。

アイヌ民族の大蜂起が起きる65年前のことだった。
 
(写真は、徳川家康の黒印状)


アイヌ民族の蜂起 20

 豊臣秀吉の朱印状

  天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原征伐によって全国統一を成し遂げる。
五代目蛎崎慶広は、秀吉の奥州検地や全国的な新たな動きに対していち早く動いた。
奥州の豪族の根回し、安東家に対する根回し、そうして秀吉を追って全国を駆け回る。

文禄2年(1592)秀吉より蝦夷島主と認める「朱印状」と、献上鷹道中伝馬の印章を下された。
これは、蝦夷交易徴税権と、蝦夷にたいする和人のとりしまりや、蝦夷の保護者すなわち
支配者の地位を認めたものである。
 
「豊臣秀吉の朱印状」

   松前において、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し
  地下人に同じく、非分の儀申しかけるべからず。
  並びに船役の事、前々よりあり来る如く、これを取るべし。
  自然此旨に相背く族これあるにおいては、急度言上すべし
  速やかに御誅罰を加えられるべきもの也 

           文禄二年正月五日 朱印  蛎崎志摩守とのへ

この朱印状を持って、アイヌたちを集め、これに逆らえば和人の大将が何万という兵を
蝦夷に向けて戦いに来るであろうと威嚇したのである。
 
(写真は、豊臣秀吉朱印状時代の蝦夷地)

アイヌ民族の蜂起 19

 アイヌ商船往還の制
 

 蝦夷の物産は、昔も今も変わらない。
16世紀においても京では珍しいものとして高値で取引された。
自由に和人と交易をしたいアイヌと、アイヌとの取引を独占したい蛎崎氏とは、
常に睨み合いが続いていた。
いつの世も同じで、蛎崎を通すことでアイヌは安値となり常に言い争いになっていた。
京への流通を持つ蛎崎は、アイヌには魅力的であった。
  四代目蛎崎季広(すえひろ)は、いつまでもアイヌとの衝突をしていても得策ではな
いと考えて策を練った。1551年のころというのでザビエルが鹿児島に上陸したころの
ことである。
季広(すえひろ)は、アイヌの重宝する数々の宝物を与えて、彼らと親しくする姿勢をとった。

 そうして「アイヌ商船往還の制」を定めた。
瀬田内(現瀬棚)の首長ハシタインを上ノ国に置いて西夷の首長。
知内の首長チコモタインを東夷の首長とし、諸国から集まる商人から徴集した税の一部を、
夷役と称して両首長に配分するというものである。
上ノ国から知内までを通る船は中間にある蛎崎がとる。更に、交易の場を松前(福山)に
限定するものだった。ただし、内地から来る商人にはこの制度は関係ないとし、奥地に入る
ものは取引自由。
両首長は了承し、一様100年に渡って続いていたアイヌとの戦いに終止符がうたれた。
しかし、これに乗じて五代目慶広の代に大きな展開をおこなうこととなる。
 
(写真は、中世の上ノ国の地形と館を表したもの)

2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
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