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十勝国(とかちのくに) 14 
 帯広(オベリベリ) 


 十勝は現在19の市町村で区割りされている。
一市16町2村で中心地が帯広市である。
帯広市は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による開拓で
はなく、静岡県(南伊豆)出身の依田勉三率いる晩成社一行が、
明治16年に入植したのが始まりだった。
依田勉三が開拓者として最初に申請をだした土地が帯広(オベリベリ)
であったところに運命を感じる。

 依田(よだ)家は、織田信長に敗れた武田勝頼の重臣で、一族は
伊豆に逃れて帰農し、明治のころには南伊豆で大事業家となっていた。
帰農した旧大沢村(現松崎町)は、西伊豆の土肥から車で石廊崎に向
かって30分くらいの所にある。 
 依田勉三が裕福な豪族の三男に生まれたのにも係わらず、何故北
海道に開拓者として挑んだのかを様々な人が書かれているが憶測で
しかない。
 しかし、73歳で亡くなる生涯を通してみると彼の一貫した思想が見えてくる。

 まず晩成社の社名がそれを表している。
晩成とは「大器晩成」からとったものである。
北海道開拓の事業は、目先の生活のための事業ではないということである。
その覚悟は、生涯を通してあらゆる場面でみることができる。

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十勝国(とかちのくに) 13 
 日本最大の食糧基地
 

 十勝総合振興局が2012年度の農畜産物の十勝管内24
農協取扱高(概算)を発表した。
畑作と畜産を合わせた取扱高は小麦、豆の収量増や乳価上昇
から前年比4%増の2630億円と、現集計方法になった2008年
以降最高となった。
 
 3年前だが全国・全北海道と比較された数字があるので見ていただきたい。
農家一戸当たりの平均耕地面積は全国平均の約24倍。
十勝は大豆、小豆、甜菜、じゃがいもなどの有数な産地であり、北海道一の
畑作地帯である。

  日本最大の食糧基地 (2009年度の生産量)
 
麦の生産数量           全国 674,200t       (全道59.3%・十勝24.5%)
 甜菜(てんさい)の生産数量    全国 3,649,000t      (全道100%・十勝41%)
 生乳の生産数量           全国 7,881,000t      (全道49.9%・十勝13.5%)
 小豆の生産数量             全国 52,800t       (全道88.1%・十勝51.8%)


 今から130年前、陸路が絶たれていたこの大地に日本の将来を見据えて敢然と挑んだ人物がいた。


 
十勝国(とかちのくに) 12 
 「砂金 歴舟川(れきふねがわ)」


 北海道では砂金の採掘が70ヶ所近く確認されている。
まさに黄金の島だった。
今は昔となったが、北海道を回ると町おこしの一つとして
「砂金掘り体験」や「砂金ラーメン」を食べさせてくれる町もある。
また、郷土資料館には貴重な資料も保存されている。

 蝦夷地といわれていたころ、砂金がとれる川が各地にあった。
松前藩は幕府より領内の金山も下賜されていたため元禄までの
約100年間はゴールドラッシュだったという。
砂金掘りには、ひとり一ヶ月1匁(3.75グラム)の運上が課せられた。
松前藩は関所を設けて和人とアイヌ民族との住み分けをしていたが、
砂金掘りだけは別であった。
彼らが川に入るのはアイヌも住まない蝦夷地の山深い沢に限られ、
しかも確実に豊富な運上金が入ったからである。


十勝では、アイボシマ付近(現大樹町)がよく知られている。
明治30年代には、歴舟川、当縁川、紋別川、アイボシマ川などを中心
に100人近くの砂金掘師たちがいた
。最後の砂金掘師が昭和46年に引退、大樹町の砂金採取は一部の
好事家による採取となった。

(写真は、中札内より)



 

十勝国(とかちのくに) 11 
 「十勝モンロー主義」 


 広大な十勝平野は日高山脈で陸路は遮断され、太平洋沿岸は
遠浅のため港としての施設がなく陸の孤島となっていた。
 
「十勝モンロー主義」という独特な思想が生まれた。
モンロー主義とはアメリカの5代目大統領モンローが

「アメリカでは将来ヨーロッパ諸国が植民地を築く権利のないこと、
主権国家としてヨーロッパはアメリカに干渉すべきでないことを宣言した」

つまり十勝モンロー主義とは、外部からの干渉を受けずに自立していこう
とする気持ちを表している。


この言葉は、明治15年に開拓団体として最初に入った「依田勉三の生涯」
をみると納得できるものがある。依田勉三については、追々述べていきたい。
 
(写真は、現在の広尾港)


 
十勝国(とかちのくに) 10 
 「ここから十勝」 

 日高山脈は、北海道中央高地の狩勝峠(かりかちとうげ)から
太平洋に突出する襟裳岬(えりもみさき)まで総延長約200キロ。
北海道南北につらぬく背梁の南半分をつくっている。
この山脈は標高2000m級が立ち並び、道央・道南から道東の十勝
への壁となっていた。

 蝦夷といわれる時代から通行は太平洋沿岸の
襟裳岬を通る道だけだった。
狩勝峠とは、石狩国と十勝国の県境の峠で一文字
ずつとって名づけたものだが
「ここから十勝」とは、この峠越えのことである。


 この峠を越えて十勝に入る鉄道が開通するのは、まだまだ
先の明治40年まで待たなければならなかった。
更に、日高から十勝に入るもう一つの日勝峠(日高・十勝)が
国道274号線として全線開通するのは、昭和40年のことである。

(写真は、南富良野にある金山湖。この湖を越えるとトマムである)


 

十勝国(とかちのくに) 9  
 「十勝日誌 」

 探検家松浦武四郎の十勝紀行文は「十勝日誌」として
1860年(万延元年)に書き上げた。
現代文の訳で出版されているのもあるので読みやすい。
一日の日記として寒地と越冬を克明に記録し、山や川を
見事に描写している。寒さの中で、よく描いたものだと思う。


「この広い平野の低地は谷地で、丘陵地帯は深い森林に
覆われ、その間を複雑に入り組んで川が流れ、その川筋
は自然の交通路となっていた。
山野には鹿をはじめとする多くの獣が、川には溢れるばか
りに鮭や鱒が上る。」

武四郎の訪れた頃の十勝の国は、ほぼこのような所であった。
(今でも十勝の中心地に鮭の遡上が観光名称となっている)
 豊かな土地なので、他の地区と比べるとアイヌ人口も多く、
安政3年(1856)の調べでは、190戸、1209人と記されている。



余談ではあるが、1860(万延元)年とは帯広の六花亭の前身で
ある「千秋庵総本家」が箱館(函館)に開業した年である。
六花亭に「十勝日誌」のお菓子の詰め合わせがあるが、これは
松浦武四郎の紀行文の表紙からイメージしたものである。
 
(写真は、占冠道の駅から)


 
十勝国(とかちのくに) 8 

「探検家松浦武四郎」

 
昨日の朝方は、北海道は冷え込んだ。
士別市で-28.7℃という。この地域は人造湖の朱鞠内があり
最も気温が下がる所で昔は小学校は-27℃を超えると休校となった。



 十勝国の内陸地に和人(日本人)で最初に踏み込んだのは
探検家松浦武四郎だった。
この大平原を肥沃の大地であることを宣言した人物は二人いた。
一人が松浦武四郎、もう一人は明治維新後日本に来たホーレス・ケプロンだった。

 
 武四郎の実際の踏破は安政5年(1858)2月から3月にかけてである。
冬は、それまで一度もなかったので望んでのことだった。

 石狩河口港(現石狩市)から、石狩上流チクベツ番屋(今の旭川)を経て、
富良野盆地方面に向かい、川を遡って十勝山系の裾伝いに国境を越えて
十勝(現新得町)に出た。
そうして更に十勝川筋を下って、海岸十勝川河口(大津)までの行程である。
極寒期で未だ寒く、しかも歩行には条件の悪い融雪期でもあった。
   (旭川から十勝へは1858年3月5日~3月18日)



この後、武四郎は十勝から釧路に向かい知床へ、そうして宗谷と回り、
天塩を南下して石狩に戻り、千歳から胆振に入り松前と蝦夷を一周。

更にその数ヵ月後に再度十勝原野を訪れた。
今度は太平洋側広尾から北上の探検であった。
よほど、十勝が気になったのではないかと思える。
それにしても、身長1m45cmの武四郎はよく歩く。


 
十勝国(とかちのくに) 7 
「和人地とアイヌ蝦夷地の崩壊」

 今年は根室市でロシア使節・ラクスマンが来航して220周年の
記念イベントが開かれているという。
ラクスマンが根室港にきたのは1792年10月20日。
通商を求めるのが目的だったが、大黒屋光太夫も同船していた。
しかし、イベントは今ひとつ盛り上がらないという。
今年は日本の領土が大きな政治問題となった。
南の尖閣諸島にお株を取られて、北方四島が隠れてしまった。

 

 江戸幕府が蝦夷地に本腰をいれたのは領土問題があったからである。
本来、蝦夷地は松前藩の支配地で、アイヌ民族との交易を通して収益を
上げていた藩だった。
当時、蝦夷地を4つに分割し、渡島半島の半分を松前藩領とし東蝦夷地
(太平洋側根室・千島まで)、西蝦夷地(熊石から石狩・宗谷、知床まで)、
北蝦夷地(樺太)としていた。
松前藩領が和人地で日本海の熊石に関所を設け、その他の地域に住む
アイヌとの交易を独占していたのである。


アイヌ民族とは、住み分けられており十勝国も例外ではなかった。
 しかし、天保の飢饉(1832-36)のころには、蝦夷地に出稼ぎにくる和人漁民
が増加し、和人の蝦夷地永住を黙認せざるをえなくなった。
そうして、文久元年(1861)にとうとう蝦夷地旅人改めを廃止するにいたった。
和人地とアイヌ蝦夷地の分離支配体制は崩壊していったのである。


 
十勝国(とかちのくに) 6 
「十勝名称の由来」
 
 本日この十勝国は1800年代前半のころを想定して書いている。
十勝の内陸に和人が入っていくにはまだ半世紀あまり後のことである。
明治まであと68年。
 

 「トカチ」の名称の元は「トカプ」である。
「トカプ」とはアイヌ語で「乳」を意味する。
それは、この十勝平野は北海道で三番目の大河があることに由来する。
(第一位が石狩川、第二位が天塩川)


 北は大雪山系、南西には北海道の背骨のように連なる日高山系などに
囲まれた地形で、この山々から来る川の流れが十勝川にそそいでいる。
しかも、山が近いので、殆どが急流の暴れ川で氾濫を繰り返す川であった。
広大な台地性の平野を流れる川が多いことが豊かな肥沃の土地を作り出
していた。
これらの川を束ねて太平洋に出るのであるが、河口が二つに分かれ、海に
注いでいる。

二つの乳房から無限の乳汁を流していることに、喩えてアイヌが名付けたの
が「トカプ」の由来であった。この川が、現在の浦幌町旅来で十勝川が二つ
に別れて、右がオホツナイ(大津川)の豊頃、左が十勝川である。


(写真は、河口にある長節湖)


 

十勝国(とかちのくに) 5 
 「高田屋嘉兵衛」

 海路で根室に行くこともできた。
箱館の北洋漁業の基を築いた「高田屋嘉兵衛」が活躍したのは
この時代である。

 『翌寛政12年(1800年)3月、手船辰悦丸(1500石積)に乗った
高田屋嘉兵衛は、図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草
その他雑貨日用品等を満載して「様似(さまに)」に入港した。
 近藤重蔵はこれに乗って出帆し、国後島を経て択捉島の丹根萌
に上陸した。
ここで近藤は、高田屋嘉兵衛に命じて漁場17ヶ所を開かせ、択捉
島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜郡など7郷と
25村の名称を定めた。』

 
太平洋航路は、辰悦丸のような大型でなければ危険であった。
襟裳岬の百人浜は、この沖で遭難した人たちが打ち上げられた浜
の名称である。
海流が行き交うことと、襟裳は今でも風速40-50mの突風の岬である。

物資の定期便ができるのは金森合名会社が誕生する明治39年まで
待たなければならなかった。
この時の函館・釧路線が、ようやく十勝の広尾と大津に寄港として
航海された。この船で一般募集の開拓民は大津に上陸してきたので
ある。

(写真は、様似と襟裳岬)



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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