2013/02/28 10:05:02
1669年の蝦夷地勢力
アイヌ文化の形成は14-15世紀以降ころからは、北方民族よりは南方の和人
との接触が強かった。
世界地図を見ても少数民族は、どちらに傾いてもおかしくない歴史がある。
北海道という大地が北方民族に傾いていたら日本の国土は下北半島が最北の地
であったであろう。
シャクシャイン蜂起が起きたのは1669年であるが、この時代のアイヌ支配圏は大
きくは5つのグループに分けられていた。江戸幕府は四代将軍家綱のころである。
シャクシャインのグループはメナシクルといって静内から道東厚岸を含む大勢力
であった。
このメナシクルと静内川の漁猟圏で対立するシュムクルグループは、オニビシを総首長
として新冠以北日高地方・夕張から南の石狩低地帯。
内浦アイヌグループはアイコウインを中心とし内浦湾、国縫から尻岸内の間の勢力。
石狩アイヌはハウカセ総首長として石狩川流域を中心に増毛の勢力。
余市アイヌは総首長八郎右衛門で天塩、宗谷、利尻山の勢力。
松前藩の和人地のエリアは、日本海は熊石、津軽海峡は箱館の東石崎までであった。
蝦夷地は圧倒的にアイヌ民族の勢力で、松前藩の影響が強かったのはエリアが近かっ
た内浦アイヌとシュムクルグループ程度であった。
(写真は、アイヌの衣装)
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2013/02/27 06:41:41
英傑シャクシャイン像碑文
静内(シベチャリ)は、2005年の映画「北の零年」の舞台となった地でもある。
この映画は、明治4年5月に淡路島の徳島藩洲本城代家老稲田邦植の家臣546人
が上陸した地でもある。
春になれば通称二十間道路という桜の名所があり競走馬の産地でもある。
真歌公園には、アイヌ民俗資料館やシャクシャイン記念館があるが、シャクシャイン像
の隣には、1970年にシャクシャイン碑文が建てられた。
明日から、アイヌ民族最大のシャクシャインの蜂起を掲載するが、まずはこの碑文を
読んでいただきたい。
英傑シャクシャイン像碑文日本書紀によれば、斉明の代(西暦650年代)において、
すでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、
とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)
の郷であった。
今から約300年前、シャクシャインは、ここシビチャリのチャシ(城砦)を中心としてコタン
の秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。
当時、自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に
心より協力、 交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、
松前藩政の非道な圧迫と苛酷な搾取は日増しにつのり同族の生活は重大脅威にさら
された。
茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民俗自衛のため止むなく蜂起し
たが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。
しかし志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文
9年エゾの乱と言う。
いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住
の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、
ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考すると共に父祖先人の
開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、 わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。
1970年9月15日 シャクシャイン顕彰会 会長 神谷与一
(写真は、碑文)
2013/02/26 10:28:48
静内川
平成18年(2006)まで、北海道の日高支庁管内に設置されていた町
で静内町があった。今は合併によって現在は日高振興局管内の日高郡
新ひだか町静内となっている。
静内は、北海道の内陸が開ける明治中期までは東に行くには沿岸を通る
道筋で、東の文化と西の文化の接点ともいえる地域であった。
この接点にある静内川(しずないがわ)は、日高振興局管内を流れ太平洋
に注ぐ二級河川で静内川水系の本流である。
上流域は日高山脈襟裳国定公園に指定されている。
国道235号線で静内橋を渡るとすぐ左に山があり、すぐ左折して坂を登って
いくとアイヌの英傑シャクシャイン像とシャクシャイン記念館が見えてくる。
1669年(寛文9年)ここにシャクシャインの砦があったところである。
アイヌ民族と江戸幕府までも巻き込んだ和人の壮絶な争いの発端は、この
静内川であり結末も静内橋で終わった。
(写真は、シャクシャイン像)
2013/02/25 09:35:42
徳川家康の黒印状
豊臣秀吉が死んだ翌年(慶長4年)1599年冬、蛎崎慶広は大阪城で家康に
蝦夷島地図や家譜を献じ、姓を松前と改めた。
慶長5年から6年にかけて、福山城(松前城)を築いた。
アイヌに対しては城、幕府に対しては館と称した。
慶長9年(1604)正月、征夷大将軍家康より黒印の制書を受ける。
定
一、 諸国より松前へ出入の者共、志摩守へ相断らがして、
夷人と直商売仕候儀は曲事たるべき事
二、 志摩守に断無くして渡海せしめ売買仕候者、急度上致すべき事付、
夷之儀は、何方え往行候第たるべき事
三、 夷人に対し非分申しかける者堅く停止の事右条々もし違背之輩においては、
厳科に処すべきもの也。仍って件の如し。
慶長九年正月二十七日 御黒印 松前志摩とのへ
秀吉の制書が交易徴税権の承認であったのにくらべ、家康の制書は一歩進んで、
松前氏の許可なく蝦夷交易ができないことを認めたものだった。
アイヌ民族の大蜂起が起きる65年前のことだった。
(写真は、徳川家康の黒印状)
2013/02/24 08:26:19
豊臣秀吉の朱印状
天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原征伐によって全国統一を成し遂げる。
五代目蛎崎慶広は、秀吉の奥州検地や全国的な新たな動きに対していち早く動いた。
奥州の豪族の根回し、安東家に対する根回し、そうして秀吉を追って全国を駆け回る。
文禄2年(1592)秀吉より蝦夷島主と認める「朱印状」と、献上鷹道中伝馬の印章を下された。
これは、蝦夷交易徴税権と、蝦夷にたいする和人のとりしまりや、蝦夷の保護者すなわち
支配者の地位を認めたものである。
「豊臣秀吉の朱印状」
松前において、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し
地下人に同じく、非分の儀申しかけるべからず。
並びに船役の事、前々よりあり来る如く、これを取るべし。
自然此旨に相背く族これあるにおいては、急度言上すべし
速やかに御誅罰を加えられるべきもの也
文禄二年正月五日 朱印 蛎崎志摩守とのへ
この朱印状を持って、アイヌたちを集め、これに逆らえば和人の大将が何万という兵を
蝦夷に向けて戦いに来るであろうと威嚇したのである。
(写真は、豊臣秀吉朱印状時代の蝦夷地)
2013/02/23 11:30:48
アイヌ商船往還の制
蝦夷の物産は、昔も今も変わらない。
16世紀においても京では珍しいものとして高値で取引された。
自由に和人と交易をしたいアイヌと、アイヌとの取引を独占したい蛎崎氏とは、
常に睨み合いが続いていた。
いつの世も同じで、蛎崎を通すことでアイヌは安値となり常に言い争いになっていた。
京への流通を持つ蛎崎は、アイヌには魅力的であった。
四代目蛎崎季広(すえひろ)は、いつまでもアイヌとの衝突をしていても得策ではな
いと考えて策を練った。1551年のころというのでザビエルが鹿児島に上陸したころの
ことである。
季広(すえひろ)は、アイヌの重宝する数々の宝物を与えて、彼らと親しくする姿勢をとった。
そうして「アイヌ商船往還の制」を定めた。
瀬田内(現瀬棚)の首長ハシタインを上ノ国に置いて西夷の首長。
知内の首長チコモタインを東夷の首長とし、諸国から集まる商人から徴集した税の一部を、
夷役と称して両首長に配分するというものである。
上ノ国から知内までを通る船は中間にある蛎崎がとる。更に、交易の場を松前(福山)に
限定するものだった。ただし、内地から来る商人にはこの制度は関係ないとし、奥地に入る
ものは取引自由。
両首長は了承し、一様100年に渡って続いていたアイヌとの戦いに終止符がうたれた。
しかし、これに乗じて五代目慶広の代に大きな展開をおこなうこととなる。
(写真は、中世の上ノ国の地形と館を表したもの)
2013/02/22 10:20:32
和人地
アイヌ民族と和人との戦いで、蝦夷地には民族間の大きな溝ができた。
それまでは、お互いに共存共栄の意識があったが敵対視した関係となり
和人地という垣根が出来てしまった。
この和人地の地盤をめぐる争いとなっていくのである。
和人の総大将となった蛎崎(武田)信広は、西の上ノ国から東の志海苔(箱館)
までの豪族を支配することとなった。
しかし、和人とはいっても渡島半島の南端部程度で、アイヌの地盤と人口は
比較にもならなかった。
自由に交易をしたいアイヌと交易を独占したい蛎崎一族(後の松前氏)との間には、
延々と代を継続して戦いが続いていくのである。
二代目蛎崎光広の時には、和人の掌握のために上ノ国から大館(福島後の松前)
に移り、西の上ノ国まで56キロ、東の箱館まで100キロと両方の豪族に睨みを
聞かせた(1514年) 。
この光広の時代に、又々アイヌ兄弟を和解と称して祝宴で酒を飲ませて殺害している。
この手口も延々と和人に継承されていくのである。
更に三代目義広の代では、東西の蝦夷蜂起となり義広がこれを討っている(1528年)。
そうして、四代目季広の時に和人とアイヌの交易に一つの決まりを設けた。
(写真は、四代目蛎崎季広時代の和人地の範囲)
2013/02/21 09:38:39
武田信広(松前藩開祖)
コシャマインとの戦いで、アイヌ総大将の首を討ち取った花沢館主
蛎崎季繁の客将武田信広は蝦夷地における地位を決定的なものとした。
花沢館主の蛎崎氏養女(茂別館主下国の娘)と結婚し家督を相続し
蛎崎信広と名乗った。
また、戦乱を逃れて上ノ国に集住してきた人々を抱えて、新たに天ノ川の
北側に州崎館、ついで花沢館の西側に勝山館を築いた。
勝山館(1462年築城)の跡地が残っており、国指定史跡となっている。
勝山館がある上ノ国とは、渡島半島南部に位置し車で北に10分ほどで
江差である。
日本海に注ぐ天ノ川河口に近く、南北にのびる台地となおり標高159mの
夷王山(いおうざん)がある。国道228号線「道の駅もんじゅ」の手前を左折し
500mほど山の中腹まで車で登り、後は徒いて山頂まで登ることが出来る。
山頂には鳥居が置かれており、武田信広を祀る「夷王山神社」がある。
山頂から眺めると勝山館というのは、夷王山の地形を良く利用した館であ
ることが分かる。三段構えの要塞となっており、堅牢無比の山城である。
武田信広は勝山館に八幡宮を建立し、1494年に勝山館にて64歳で亡くなった。
(写真は、エゾノヨロイグサ)
2013/02/20 09:27:33
ちょっと、ひとやすみ
単一民族論
「日本という国は、単一民族である」という見解を発表した大臣たちの一覧。
日本の歴史教育にアイヌ問題が触れられていないことの証であろう。
北方領土や沖縄の問題なども、歴史認識を持ってから対応に当たってもらいたいものだ。
中曽根康弘 (1986年、総理大臣在任中)
「アメリカは多民族国家だから教育が容易でなく、黒人、プエルトリコ、メキシカンなど
の知的水準がまだ高くない、日本は単一民族国家だから教育が行き届いている」と発言。
山崎拓 (1995年、元衆議院議員在任中)
「一民族、一国家、一言語の日本の国のあり方がこれほどの国力を作り上げた。
日本人が日本人を思いやる気持ちが阪神大震災の救済にも現われている」と発言。
鈴木宗男 (2001年、衆議院議員在任中)
「一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、
今はまったく同化されておりますから」と発言。
平沼赳夫 (2001年、経済産業大臣在任中)
「小さな国土に、1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。
日本が世界に冠たるもの」と発言。
鳥居泰彦 (2003年、中央教育審議会会長在任中)
「日本の犯罪率が低いのは単一民族の国だからだ」という趣旨の発言。
麻生太郎 (2005年、総務大臣在任中)
「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」
「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日本は一国家、
一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言。
伊吹文明 (2007、文部科学大臣在任中)
「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。
極めて同質的な国」「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」と発言。
中山成彬 (2008年、国土交通大臣在任中)
「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので
内向きになりがち」と発言。
(写真は、レンゲショウマ)
2013/02/19 08:01:21
コシャマイン蜂起の4
アイヌたちは、戦争というものを知らない民族であった。
武器があるわけでもないし、戦いの戦略や戦術を知る由もなかった。
自分たちが住む土地に勝手に居ついて、アイヌの弱みを突いて交易の
条件を次々と悪くしてきたことに対する不満の爆発が根底にあった。
従って、和人を懲らしめれば良い程度の気持ちがあったのであろう。
それが、百戦錬磨の戦を生きてきた武士の魂に火が付いた。
上ノ国の花沢館主<蠣崎季繁(かきざきすえしげ)>が27歳の客将武田信広を
大将として、ウスケシ(箱館)に向けて反撃にでたのである。
上ノ国の比石館、そうして松前、福島、木古内、上磯と陥落された館に反撃の
呼びかけと武器の調達をしながら陣容を整えて進んだ。
そうして、いよいよ七重浜(現北斗市)でコシャマイン軍勢と戦になった。
この戦いは、武田信広の作戦で簡単に決着がついた。和人軍が一斉に退却を
したと見せかけ、アイヌ軍団が勢いついてきた所を信広の一矢でコシャマインを
射殺し、数名をたちどころに切り倒したのである。
和人滅亡の危機を救ったということで、武田信広の名声は高まった。
花沢館主蠣崎季繁は、安東政季の娘を養女にしていたが信広にめあわせ
蠣崎家の後を継がせたのである。
アイヌと和人の戦いは、コシャマインが敗れて和人の勝利となったが、
以後100年間も続く戦いの戦端を切ることになる。コシャマイン首長クラスの人物
が登場するまでには時間がかかった。
(写真は、アイヌの靴・シカの皮靴)