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アイヌ民族の蜂起 14

 コシャマイン蜂起の3
 コシャマインらアイヌ軍団は志海苔舘を落とし勢いづき西へ向かった。
 箱館(はこだて/函館・河野氏)、茂別館(もべつ/上磯・下国安東氏)
 中野館(なかの/木古内・佐藤氏)、脇本館(わきもと/知内・南条氏)
 穏内館(おんない/福島・蒋土氏)  と次々と攻め、松前に入った。


 覃部館(およべ/松前・今泉氏)、大館(おお/松前・下国氏、相原氏)
 禰保田館(ねぼた/松前・近藤氏)、原口館(はらぐち/松前・岡辺氏)
 と制覇し、更に北上し上ノ国に向かった。


 比石館(ひいし/上ノ国・厚谷氏)、花沢館(はなざわ/上ノ国・蠣崎氏)
 と和人の館12ヶ所を一ヶ月ほどで攻め落としたのである。

 
凱旋してウスケシに戻ってきたが、完全に落としきれてなかった館があった。
上磯の茂別館(下国安東氏)と上ノ国の花沢館(蠣崎氏)の2つの館だった。
上磯の茂別館は、安東盛季が最初に居住したところで、この時には
安東家四代目の政季が弟の家政に預けて蝦夷地を後にしていた。
上ノ国の花沢館は、蠣崎季繁とその客将武田信広がいた。
武田信広とは後の松前藩開祖である。

 
(写真は、和人からアイヌに対する交易品・盃、椀)
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アイヌ民族の蜂起 13

 コシャマイン蜂起の2
 

 志海苔(シノリ)の長老は、自分では解決できないと思いウスケシ
 (現在の函館で、アイヌ語の湾の端の意) のコシャマイン首長に助けを求めた。
コシャマインはアイヌだけでなく、和人や館の豪族からも一目置かれていた人物だった。

 しかし、志海苔舘の小林太郎左衛門良景は
「太刀を罵倒した青年のほうこそ大罪なり」とアイヌにこそ非があると譲らない。
アイヌの不満は、いよいよ頂点に達したのである。

 
 冬が過ぎて、又春が来た。
1457年(康正3年)5月、コシャマインがシノリ(志海苔)やウスケシ(宇須岸)の
アイヌに呼びかけて志海苔舘に攻め寄った。
アイヌが初めて和人に戦いを挑んだのである。

アイヌは元々戦など知らない
武器といっても狩猟の弓や和人から手に入れた小刀程度である。
人数はふくれあがり2-300人となり、女子供が叫びながらの攻撃であった。
志海苔舘は、城のような城壁はなく、土を盛った境界であるのと和人は商人
のようなもので人数も少なかった。
何よりも、おとなしいと思っていたアイヌ反乱の不意打ちで志海苔舘は落ちた。
コシャマインの蜂起は、これが始まりだった。
 
(写真は、アイヌの山刀)

アイヌ民族の蜂起 12
 コシャマイン蜂起の1

  志海苔館(シノリ)の主は小林太郎左衛門良景という豪族であった。
刺殺されたアイヌ青年の部落長老が鍛冶屋村を訪ねるが、村の衆は入れ
ようとしなかった。仕方なく長老は小林太郎左衛門良景に談判に行った。

 アイヌのしきたりには、罪を犯した者には「償い」という掟があった。
「償い」の大きさは長老たちの裁決で決まり、本人の財産を支払うことで
あった。鍛冶屋に「償い」をしてほしいと頼んだ。
それで、アイヌは一件を丸く収めようとしたのである。
 しかし、「悪いのは鍛冶屋にケチをつけたアイヌの青年の方だ」
「あまりしつこいとアイヌは鍛冶屋村に出入り禁止にする」といい放った。

 ここまでくる背景には、安東一族が蝦夷地に入り込んできてからの交易
の問題が出ていた。和人のアイヌに対する取引が、序々に高飛車になり、
弱みに付け込んで横暴になってきていた。
鍛冶屋村に入れさせないということは、鉄製品やアイヌ交易を止めるとい
うことに等しかったのである。更に言えば、和人のエリアを決めてそこから
アイヌを追い出そうということでもあった。
 
(写真は、アイヌの武器である弓と矢)

アイヌ民族の蜂起 11
 マキリ(小刀)
 1456年の春のことだった。
函館の東、今の函館飛行場のあたりに流れる志海苔川では
良質な砂鉄が取れるので鍛冶屋村ができていた。
アイヌたちは、鉄を作る技術はなかったので和人が作る鉄製品
は交易の品として高級品であった。

 
 この鍛冶屋村に一人のアイヌ青年がやってきた。
冬眠から覚めた熊を初めて一人で仕留めたということで、コタンの
長老からマキリ(小刀)を持つことを許されたという。
一軒の鍛冶屋に入りマキリを注文し、代金として熊肉を置いて行った。
それから暫く経った日、もうできたころと思いマキリを受け取りに来た。
値段のことで言い争いが始まった。



     アイヌ青年 「それは高いよ」
     鍛冶屋 「こんな熊肉で、安すぎる」
     アイヌ青年 「それじゃ、話が違う」
     鍛冶屋 「俺が作る上出来なマキリは、熊肉程度では足りない」
     アイヌ青年 「お前のこんな粗末なマキリでは、俺の腹も刺せまい」
     鍛冶屋 「なに!それでは、試してやろうじゃないか」

 
 この時には、すでに騒ぎを聞きつけて群集ができていた。
青年は刺し殺され、それを和人とアイヌが見ていた。
これが、アイヌ民族蜂起の発端であった。
しかし、実際に蜂起するのは一年後である。
この事件の落とし前にあたって、アイヌの長老は我慢に我慢を重ねて和人と交渉する。
安東一族が、道南一帯に館を構えてアイヌたちの生活を圧迫していたことが背景にあった。
 
 


アイヌ民族の蜂起 10
 刺殺事件

  アイヌ民族と和人(日本人)との戦いで大規模なものは3回あった。
第一回目は1456年のことで、戦いの発端は鍛冶屋がアイヌ青年を
刺殺したことだった。応仁の乱のまだ前の話である。
日本史の教科書に太田道灌があるが「コシャマインの戦い」は出てこない。
 
 司馬遼太郎がこのアイヌ青年の死に対する和人の態度に対して
次のように書いている。
    「この鍛冶のいやらしさに、当時からこんにちにいたる
            和人というものの象徴を見る印象がある」
 しかし、和人であるいやらしさはこれが始まりで333年に渡って続き、
更に今日にまで引き継がれているのである。
 
 福島の原発に対する東京電力の対応は、アイヌ青年に対する和人の
態度とダブってくる。更に、子供のイジメや暴力が問題となっているが、
本来日本人が持っている性格の原点を見る思いでもある。
 
明日から、コシャマインの戦いが何故起きたのかを掲載していきたい。
 
(写真は、北海道の花のエゾカンゾウ)

アイヌ民族の蜂起 9
 志海苔館(シノリダテ)

  蝦夷の特産物として、宇賀の昆布・鮭が挙げられる。
宇賀昆布とは、いまの函館市銭亀沢で、のちに志海苔昆布として
知られるようになった。
 交易は、館主が主体となって独占し、アイヌとの間では物々交換
が主であったが、本土商人との間では通貨が使われていた。
 昭和の時代に志海苔館付近からは大量の古銭が出土し、箱館地
方の経済活動を知る貴重な史料となっている。
 
 また、この志海苔地区では良質な砂鉄が取れていた。
鍛冶屋が津軽や南部から移り鍛冶屋村をつくり、その数は 100戸を
数える和人が進出していた。
 この志海苔を仕切る館の主が、小林太郎左衛門良景という豪族で
あった。

康正2年(1456)、この志海苔の鍛冶屋村でアイヌの青年が殺される
事件が起きたのである。
 

 (写真は、アイヌの交易製品・昆布)

アイヌ民族の蜂起 8
 12の舘

  安東盛季が領主として松前に上陸し、茂別(現在の上磯)に館を築き居住した。
わずか2年で生を終えるが、子の康季、康季嫡子の義季、養子の政季と安東家を
継いで行く。
この間に、津軽に渡り祖地の奮還を計るがことごとく返り討ちにあい悲願は達せら
れることはなかった。しかし、安東氏の勢力は渡島半島沿岸にできていた。


 現在の函館空港があるあたりから、日本海の上ノ国に至る沿岸に添って12の舘
が作られていた。

 志海苔館(函館市志海苔町)、中野館(木古内町中野)、
 脇本館(知内町涌元)、 穏内(おんない)館(福島町吉岡)、
 覃部(およべ)館(松前町東山)、禰保田(ねぼた)館(松前町館浜)、
 原口館(松前町原口)、比石(ひいし)館(上ノ国町石崎)
                              等が点在していた。

 
 先住人は漁労・狩猟民族であるアイヌと、これに雑居する和人であった。
和人は前述した奥州の残党・京からの流刑人である。
彼らは、いずれもアイヌと同じく原始的な漁労や狩猟を主とし、またはそれらの交易
をもって生きる術を得ていた。
 交易には、ともすれば略奪的となる危険性は充分に考えられることであった。
 

(写真は、発掘された函館付近にあった志海苔舘)

アイヌ民族の蜂起 7
 安東氏の策略

  安東一族の蝦夷地上陸は、
それまでの残党・流刑人たちとは違っていた。
鎌倉以来二百年余の父祖の地を奪われての逃避である。
 4代目安東盛季は奥州奪回のための蝦夷でしかなかった。

 さいわい蝦夷地と京都と結んで産物の流通を海運で行っていたために、
蝦夷地の産物が京では言い値で売れることを知っていたのである。
 戦のための武器や人の確保のために資金を集める企てを考えた。

 アイヌ民族は、それまで誰の支配も受けることなく津軽や奥蝦夷などに
も自由に行き来し、熊や鹿の皮・鮭などの海山物を和人の米や鉄製品と
交換していた。
 
(写真は、和人との交易の製品・鹿皮)

松前藩屋敷

最北の城下町・松前
  「松前の五月は江戸にもない」
とうたわれ、幕末には八千戸三万人の人口があり、仙台以北最大の都市といわれた。

 北前船が走る海の道を、産物や文化が行き来し、
 北の辺地に豊かで華やかな町が生まれたのです。

 松前藩屋敷に再現された江戸時代の町並みは、全部で十四棟。
珍しい海の関所「沖の口奉行所」、藩士の屋敷を再現した「武家屋敷」
商人の活躍が目に浮かぶ「廻船問屋」「商家」、
にしん漁に挑むヤン衆の声が聞こえてきそうな「番屋」「漁家」など見所はいろいろ。

 郷土の料理が味わえる「たべもの屋松前亭」のほか、
木工品づくりや桜押し花づくり、甲冑の着付けなどの体験メニュー以下
煎餅の実演販売など楽しさいっぱいのテーマパークです。


アイヌ民族の蜂起 6
 嘉吉三年(1443)

  津軽は安東一族にとって、鎌倉以来二百年余の父祖の地であった。
十三湊(とさみなと)は岩木川の下流十三潟口に位する湊で、津軽の産物を
はじめ蝦夷地の産物もここに集まるところから、諸国の船もここに来て交易した。

 そのため安東氏は「関東御免」の交易船を、同じ得宗領である若狭の小浜湊
との間に運航させ、京都と結んで文物を交流し、その勢力を陸奥湾沿岸から
蝦夷島沿岸にまで及ぼしたのである。
 
 南北朝時代には、東の南部氏と奥羽地方を二分する勢力であったが、
十三湊に移って4代目の盛季の時に至り、南部義政との戦いに破れ、ついに
安東一族は家臣とともに十三湊を捨てて蝦夷島に逃れたのである。

 時は、嘉吉三年(1443)室町幕府8代将軍足利義政、銀閣に代表される
「東山文化」のころである。
 
(写真は、北海道最南端白神岬付近の国道228号・津軽と蝦夷最短の場所)

2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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