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アイヌ民族の蜂起 5
 津軽の安東一族
 

 文治5(1189)年平泉の藤原氏が滅亡すると、奥州一円は鎌倉幕府の
治下に属して分轄統治されていたが、津軽および南部の北端は漁猟を
主とする蝦夷によって占拠されていたため「東夷の酋長」をもって自任す
る安東氏によって統治されていた。

 
 時代は代わり、安東一族は北条義時から蝦夷の代官に任ぜられ、奥羽
ならびに渡島の蝦夷を管轄し、その守護にあたるとともに、貢税の徴収と
反乱にそなえた。
安東一族は、陸奥津軽十三湊に移り、蝦夷地との交易を中心とした海上交通
に従事する海の豪族となり、安東盛季に至る4代の間ここを本拠地としていた。

 十三湊とは、現在日本海にあるシジミの産地
 
(写真は、安東氏の本拠地の地図・十三湊)
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アイヌ民族の蜂起 4
 京の流刑人たち
 

 津軽半島の龍飛岬から、渡島半島の白神岬までは19.2キロである。
鎌倉や京の中央政権から遠い奥東北や北海道は蝦夷と呼ばれていた。
 ましてや、津軽海峡を越えると支配は全く及ばないところであった。

  この海峡を第一陣の27年後、1216年(建保4年)に第二陣が渡った。
京の流刑人たちである。時代は鎌倉幕府の第2代執権、北条義時である。
 (義時は北条政子の弟)
 京都にはびこる強盗や盗賊を捕まえたが、そのうちの50人ほどを蝦夷に
送った。この後、数年に渡って蝦夷への流刑が続けられた。


 アイヌたちは、恐れる素振りも見せず迎え入れた。
そうして、蝦夷地に渡った者はアイヌ民族と一緒に暮らすようになった。
奥州藤原の残党と流刑人たちは、先住する人を支配しようとする意図など
まったくなく、多くの者はアイヌに深い恩を感じていたのである。
 虚勢や権力を見せたとしても、人数も少なく、生活の糧を得るにはアイヌ
に教わらなければ生きていけなかった。
 生活のために京や津軽から取り寄せた米、絹、鉄製品などをアイヌにも
惜しみなく分け与えていた。
 この生活が、第三陣の軍団によって一変してしまう。


(写真は、エゾニュー)

アイヌ民族の蜂起 3
   親しい隣人のはじまり
 

      蝦夷地に住んでいたアイヌの人達は、
   津軽海峡を渡ってきた和人を「シャモ」と呼んでいた。
   シャモとはアイヌ語で「親しい隣人」という意味を持つ。
   和人(日本人)とアイヌ民族とは、お互いに人として良好であった。
   いつのころから、この関係が崩れてしまったのか。

  和人の集団が最初に蝦夷に入ったのは文治5年(1189年)という。
 源義経は平氏滅亡後、平泉へ逃れて奥州藤原秀衡に庇護されていた。
 文治4年(1188年)、頼朝は泰衡と基成に義経追討を要請する。
  しかし、泰衡は部下に裏切られ藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた


     その藤原泰衡(やすひら)の残党が海を渡った。
   これが、シャモの第一陣であった。
    北海道には義経伝説が100を越える。
  日本海を北上して稚内から樺太に渡りジンギスカンになったという
  伝説まで生まれている。
  義経伝説の中にはアイヌ娘との恋心を軸に伝承されているものもあり
  アイヌ民族との交流はお互いにうまくいっていたのではないかと思える。
 

   (写真は、北海道最南端白神岬から竜飛岬まで19.2キロ)

アイヌ民族の蜂起 2
 コロポックルの意味

 コロポックルは、次のように置き換えると歴史がつながってくる。

     コロポックル=アイヌ人  アイヌ=和人(日本人)
  
 文面は「ウィキベディア」から

 アイヌ(日本人)がこの土地に住み始める前から、
この土地にはコロポックル(アイヌ人)という種族が住んでいた。
彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。
又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。

 彼らは情け深くアイヌ(日本人)に友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌ(日本人)
の人々に贈ったりアイヌ(日本人)の人々と物品の交換をしたりしていたが、
姿を見せることを極端に嫌っており、
それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。

 あるとき、あるアイヌ(日本人)の若者がコロポックル(アイヌ人)の姿を見ようと
贈り物を差し入れるのを待ち伏せ、その手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、
美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという。

 コロポックル(アイヌ人)は青年の無礼に激怒し、一族を挙げて北の海の彼方へと
去ってしまい、以降アイヌ(日本人)の人々はコロボックル(アイヌ人)の姿を見ることはなくなった。

かつて昔、蝦夷地といわれるエリアは広く、津軽から北海道・千島・樺太までを含まれていた。
そうして、先住人としてアイヌの人達が暮らしていた。
 
(写真は、ノハナショウブ)

 アイヌ民族の蜂起 1
 コロポックル伝説


 コロポックルとはアイヌ民族の伝承で、蕗(フキ)の葉の下に住む種族の話である。
17世紀の初めに、この伝承を書き留めたのは和人(日本人)ではなくオランダ人
あった


概要は

「ふきの葉の下に住む小さな人が、貧しい人にこっそりと食べ物を運んでいたところ
正体を暴かれたので、蝦夷の島を見捨てて、海を越えて遠い島へ行ってしまった」

                                 ということである。
 

 アイヌの人達に語り継がれ、地域によって内容に多少の違いがある。
17世紀にこの伝承があったとすれば、それ以前にこれにまつわる歴史があったと
いうことである。

   語り継がれている民話や童話も同じようなことが言えるが、
   最初に語られた内容は恐ろしく鬼気迫るものであることが多い。
   コロポックルもまさに民族の悲しくやり場のない伝承である。
 
(写真は、十勝の足寄町螺湾地区・草丈2~3m、茎の直径が10cmにもなる)

 
アイヌ民族の蜂起

 
今年もまた2月7日が来る。

2月7日を「北方領土の日」と決めたのは昭和56年のことで閣議了解だった。

何故2月7日なのかといえば
1855年(安政元年)に「日魯通好条約」が下田で調印された日であるからだ。
 
 「十勝国」を掲載しているが、
この機会に「アイヌ民族の蜂起」と題して平行して連載をしていきたい。

 
十勝国(とかちのくに) 48
 帯広―池田―北見
 

 明治30年代には、道路の開削に変わって、鉄路の建設が盛んになった。
 今は札幌から網走に行くには、旭川駅から遠軽駅経由の石北線がある。
 しかし、この鉄路が開通するのは昭和7年(1932年)のことだった


   当初の鉄路は、札幌駅から北見国を結ぶルートは、
 札幌駅―旭川駅―富良野駅―帯広駅―池田駅―北見駅であった。

 従って、十勝と北見の境にある陸別に行くには帯広から池田経由となる。
 関寛斎に会うために、徳富蘆花もこの列車に乗って行ったのだろう。

 
今のように、滝川駅から富良野経由の根室本線が開通したのは大正2年(1913年)。
 北海道は、中央にそびえる大雪山連邦によって大きく二分されていた。

 
(写真は、石勝線が開通した昭和56年10月1日・追分駅)

 
十勝国(とかちのくに) 47
 道央と道東を結ぶ鉄路
  十勝国の入植は明治30年を過ぎると一挙に慌ただしくなってきた。
旭川から帯広間の十勝線工事は明治30年に旭川から始まり34年に
落合(南富良野)まで開通した。
これによって、十勝国に海からの大津経由で入植していた開拓者たちは、
時化(しけ) で上陸できないことがある大津を避けて落合まで汽車に乗り、
ここから石狩道路を歩いて十勝に入るようになった


 石狩国と十勝国の峠を貫く狩勝トンネル工事は明治34年に開始され、
固い岩盤と湧水によって悩まされたが、明治38年には完成。
明治40年9月に帯広まで開通し、芽室駅、十勝清水駅、新得駅が開業した。
 同時に進めていた、帯広―釧路間の釧路線は明治36年に浦幌駅・厚内駅。
更に37年池田駅、38年帯広駅が開業。
明治40年には十勝線と釧路線がつながり、旭川―釧路間が釧路線と改称された。

 
 晩成社が十勝国に入植してから24年の歳月が経ち、ようやく石狩国(札幌)とつながった。
これによって、道央と東道が鉄路で結ばれ、旅客や物資の輸送力が大幅にアップし、
十勝経済発展の原動力となった。


(写真は、南富良野道の駅前)


 
十勝国(とかちのくに) 46
 二宮尊徳
 

 日本の国が欧米化していくなかで、葬り去られていったものの
一つに二宮尊徳(金次郎)がある。
かつては、小学校の校庭には「薪を背負う姿」二宮金次郎の銅像があったが、
一円札とともに無くなってしまった。
銅像がなくなると共に、道徳という小学校教育の科目もいつの間にやら無く
なり話題にもならなくなった。
 二宮金次郎の銅像には、政府の統合政策の意図があったのだが、それにし
ても外国かぶれしていくなかで、簡単に取り外してしまうのが日本人の特性なのだろう。

 
 二宮尊徳の生家は小田原である。
酒匂川の上流にある生家を訪ねたことがある。
戦後、二宮金次郎の銅像が小学校から消えていったことについて訊ねた。
GHQの指令によるといわれることがあるが、これは関係無い。戦前の像は銅製のものが多く、
第二次世界大戦中の金属供出によったため、混同されたものだ。
それよりも、敗戦によって天皇陛下の写真が外され、それと一緒に勝手に気を利かせて
金次郎の銅像も外されたのではないかということだった。


開拓で入った依田勉三や関寛斎たちの努力は水泡と消えた。

 
十勝国(とかちのくに) 45
 開拓神社(37柱)


   今は「開拓」という単語は死語となり、「ボーイズビアンビシャス」が
  北海道を語る言葉となってしまった。

 北海道神宮の境内に「開拓神社」といわれる建物がある。
北海道の開拓に心血を注ぎ、偉大な業績を果たした人達を祀る神社である。
神社の入口に間宮林蔵、高田屋嘉兵衛、松浦武四郎などの名前が並んでいる。
昭和13年に、当時の北海道庁長官が、開道70年を記念して全道から奉斎神の
申請を求め、36柱が選考され建立された。
 

 北海道神宮は、ロシアに対する守りということで、正門が北東を向いている。
しかし本来、北海道神宮に参拝に来る人は、こちらもお参りしなければならな
いだろう。
こちらの神社が命を賭けて日本の国土としてロシアから守り、未開の地を切り
開いた生き神様である。

 
 歴史上一番古い人物は武田信広、松前藩の始祖である。
室町時代、若狭国の武田氏の一族の子で、1454年道南の上ノ国に渡ってきた。
北海道の歴史は浅いが、蝦夷地の歴史は古い。


 当初は36柱で祀られていたが、昭和29年にもう一柱が追加された。
それが帯広の農聖といわれた依田勉三である。
晩成社は失敗したが、依田勉三が未開の地に挑戦し、数々の試みた事業が
今の十勝国である。
官僚でもない、平民である勉三の柱には意味深いものがある。
現在37柱となって祀られている。

北海道神宮は、観光のスポットとして外国人も訪れているが、この開拓神社が
あることは余り知られていない。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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